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BL、生活、その他いろいろ

なりたいものになる戦い

今でもたまに思い出す出来事がある。
19歳の夏、浪人して予備校に通っていたときに、年上の知り合いの人に「大学どうするの?なにになりたいの?」と聞かれたときのことだ。
その時わたしはこの学部を目指しています、と答えたあとに、「でも、何にでもなれると思うし、どんな場所でも行けると思うんですよね」みたいなことを答えた。それが、あとから思い返すとそんなわけ無いじゃん、すごく愚かというか、楽観的すぎた世間知らずな回答だという風に思えて、近年は恥ずかしい思い出として度々思い返しては悶えていた。


ヤマシタトモコ「違国日記」の9巻で、メインキャラクターの槙生が、高校生の姪・朝の無力感を肯定しないでいてあげたいと言う話が出てくる。その前後の巻では、大人になっても「なりたいものになる」戦いがあるんだという話もあり、わたしはその話を「なりたいものになることの戦いをしたいと思いつつ、無力感に押しつぶされそうになることもある、だけどその無力感に支配されないで戦い続けてと願う人はいるし、戦い続けていい」という話だと受け取った。

わたしは、その話を読んで、わたしはあの19歳の夏の日に感じていた自由を、大人になるにつれて忘れて、無力感に雁字搦めにされてなにも望まなくなってしまっているじゃないか!それどころか、昔の自由さを恥じているなんて!!と気付いた。

19歳のときには既にわたしは病気をしていて、ままならないことも多かったのに、そのときはまだ自分の可能性と自由を信じていた。それがいつの間にか鈍く重くなっていって、自分の可能性も信じられず、もうこのまま駄目になっていくだけなんだという無力感に支配されて、ぐずぐずとして過ごしてしまっていた。

違国日記の槙生はわたしよりもまだ少し年上で、朝はまだまだ若い学生である。そんな大人から子供への「戦い続けてほしい」という祈りが、槙生と同年代の友人の戦いを側で見ているから生まれるんだということが、なんだかとても救いのように思えた。「戦い」を祈られるのは若い人だけなんだと諦めてしまうのではなくて、大人だって戦い続けていて、戦っても良くて、そしてそれがまた次の世代の挑戦へと繋がっていくんだなと思って、身の引き締まる思いというか、あ、自分も諦めなくていいんだ、あの頃みたいに自由になりたい自分を望んでいいんだ、そのことに年齢は関係ないんだと思い直せるきっかけになった。

違国日記の9巻はしばらく前に出ていたものだけど、最近読み直したときにようやくそう思えて、ハッとした。
それで、すごく心に残る巻だなと大事に思うようになっている。

いい年してなりたい自分(ありたい姿)というものについてはっきり考えられているわけではないけれど、なににもなれないと、不自由なまま生きていくよりも「なりたいものになる」と思って生きていくほうがいい。
そう思ってもいいんだと感じられたから、わたしも戦いたいと思う。