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BL、生活、その他いろいろ

若いときかかってた呪い

先日、犬山紙子さんのこのようなツイートを見かけました。


なるほど、と思い(似たようなブログも書いています、「熟女になるまでま・て・な・い」を読んでください)、呪いの方で思い付いたものをピックアップしてみたのがこちらになります。


女の子は
○愛想よくしなければならない
○笑顔でいなければならない
○怒ってはいけない
○足を閉じて座らなくてはいけない
○大きな声は出してはいけない
○バタバタ走ってはいけない
○汚れてはいけない
○おしとやかでなくてはいけない
○そこそこかわいくなければならない
○ズボンよりスカート
○青よりピンク
○ぶりっ子はいけない
○美しすぎてはいけない
○太ってはいけない
○白くなくてはいけない
○脱毛しなければならない
○髪の毛は黒のストレートでなければならない
○知ってはいけない
○勉強は出来すぎてはいけない
○家庭的でなければいけない
○かわいらしい食べ物を好きでいなければいけない
○少食でなければならない
○男性に気を遣わなければならない
○質素でいなければならない
○自立してはならない
○異性の恋人がいないといけない
○子供を産めるからだでいなければならない
○結婚しなければならない
○セックスには消極的で恥じらいがないといけない


他にもまだ沢山あると思うんですが、嫌なことをいっぱい挙げるの嫌になってきたのと、嫌なことは忘れる性格のためこれくらいしか出ませんでした。

で、わたしのまとめ方にも依ると思いますが、「○○してはならない」「しないといけない」ばかりです。
そしてその対処法なのですが、考えた結果、「別に他人の主観から生まれた『しなくてはならない』という圧力に従順でいる必要はなく、自分自身の好きなように生きればいいと思う、それが一番楽しいしラクだし素敵」となりました。


よくある言い回しでオチをつけてしまって申し訳ない。でもこれが根本的な対処法であると思います。
ただ、このように自分に自信を持つことがまず難しい環境で育った人も多いんじゃないかと思いますし、また、自信があっても、それを表に出すと「いじめられる」ということもあるかと思います。

わたしの経験を振り返ってみて、「しないといけない/してはいけない」に従おうと思うときというのは、「自分のすべきこと/したいことが何なのか分かっていないとき」とか、「みんなと『同じ』ではなくなったがために苛められたり排除されるのが怖いとき」という時が多かったように思います。

今はもう、「合わない人間と無理に合わせようとしたところで無理なもんは無理」と思えるからいいけど、学生時代はやはり、一人になったらどうしようとか、いじめられたら、という恐怖がありました。



その頃の自分に伝えたいと思うのは、「連帯できる人を探そう」です。「同じことについて同じ考えの人と友達になろう」ではなくて、「わたしはわたし、あなたはあなたと考えられる人と連帯しよう」です。

できればクラスメイトみたいに、毎日一緒に過ごせて、会いたいときに会えるような人が理想ですが、ネット上で、年齢関係なく探してみても十分、自分の日々の支えになると思います。

連帯っていうとなんか小難しく感じるかもしれないけど、わたしのなかでは連帯って「お互い(一対一じゃなくてもいい)に『あなたがよりよい生き方ができるように願ってます』って思う」くらいの感じなので、そんなに身構えなくてもいいと思います。
今だったら著名なフェミニストの方も沢山いるし、個人でフェミニストを名乗ってる方もいるし、探しやすく、支えになってもらいやすいと思います。そういうところから連帯して、徐々に性別や性自認や色々なことを気にせず、「わたしはわたし」で連帯できるようになったら、もう呪いに負けるようなことはないと思います。自分を引き上げるどころか、周りの人にも「あなたはあなた」といえる、心強い人にまでなれていると思う。

連帯して、自信をもって、なんて一朝一夕にできたことではなかったし、すべての呪いを一気に消すことも出来なくて、長い時間をかけて、そしてこれからも時間をかけて呪いを潰していこう~とわたしは思っています。
上のリストには呪いをまとめて書いたけど、解くのには一つ一つ時間がかかったし、こんなあっさり文章にできる話ではないけど、意識して自分を大切にすれば呪いはいつか解けるときが来ると今は思うので、呪いにかかってる自分を責めずに、自分自身が居心地よく暮らせるように地道にやっていけるといいなと思います。
この記事にたどり着いた人も、よければ一緒にがんばりましょう。


最後に、最近見て感銘を受けた動画の紹介をしたいと思います。親友のデニースさんとマリアさんは、自分達の体型が正反対なことを武器にして動画をつくってTik Tokにアップしている、という内容の動画です。#stylenosizeっていうタグも作ったんだって。それで、全編興味深いんだけど、特にその動画の4分後半からがわたしにブサッと刺さったので、見てみてください。この動画は前半とかも、連帯の話、自信の話に繋がると思う。


一応後半から引用もすると、
「わたしは何時間も携帯をいじって驚くほど綺麗な写真を見て『どうして私はこうじゃないの?』と思ってしまうこともある。自分でそれに気付くときは自己卑下せずに、素晴らしい生き方をしている他の女性を祝福すべきだと思う」

「自分自身のことが嫌になるようなアカウントはフォロー解除すべき」

「刺激を与えてくれる女性や自信を与えてくれる女性をフォローすべき」


このような考えの二人が作っている動画は素敵でした。わたしにとってはこの2人が「刺激を与えてくれる女性」になったので。
わたしはこの文章の前半では、同調圧力による「自分らしさに自信が持てないこと」を問題にしましたが、もうひとつ思うのは、わたしたちは常に周囲から、すなわち家族、友達みたいに身近な人たちからメディアや政治なんかの大きなところまで、「女性はこうあるべき」というメッセージを受信させられているということも問題だと思います。友達とランチにいって話ながら、そのお店に置いてある雑誌や流れているテレビを見る、そんな日常のなかにすら、「こうあるべき」が大量に溢れていてもう収拾がつかないくらい。それで弱ってしまうこともあると思います。わたしは結構テレビで弱りがちだから、最近あまりテレビは見ていません。もし、見る/見ない、聞く/聞かないの選択ができるメディアや意見があるなら、動画の中にあったように、「自分を嫌いになるようなものは選択しない」ことも、大切なんじゃないかと思いました。

「かわいい服」と「毛の生えたからだ」との境界線

ムダ毛の処理が嫌いだ。単純にだるいし、ちくちくする。わたしは毛量が多く、濃いので、一回剃ると、その後伸びてきたときにすごく目立つから、剃り続けてつるつるの状態を保たないといけない。でも肌がそこまで強くはないので、よくトラブルが起きる。

なので、毛を剃るのは嫌いだ。夏以外の季節は大体毛なんて剃らずに放ってある。毛自体は嫌いではないし。なんなら夏でも必要がなければ生やしっぱなしである。

必要に応じて剃るときもあるが、いつも不思議に思うのは、「毛を剃る必要」って、どこからやってくるのだろう、ということだ。



「あ~毛を剃らなきゃ」
と思うときは、「社会に見られている」と感じる場所に行くときである。ここでいう「社会」とは、単に「家の外」とか、「人が集まるところ」ではない。例えば近所に配りものに行くときは毛は剃らない。近所というのも社会の1つだが、近所の人は別にわたしの手足に毛が生えているかを何かのジャッジの基準にはしない。例えば、礼儀正しさや愛想のよさ、声の大きさなんかがわたしのイメージを左右する。
それから、銭湯もしくは温泉。銭湯に行くから毛を剃らねばと思ったこともあまりない。他人がたくさんいる場所で、全裸になるけども、「人の体をじろじろみない」ことが共通認識になっているからだ(と思うんだけどどうですか)。銭湯はいいなあとおもう。体型がどうであれ気にするところはそこではなくて、お湯がいかに気持ちいいかというところが大事。ハァ~と日々の疲れを取ってくれるそこには、毛がどうとかは関係ないのである。

ということで、どこでもかしこでも「毛を剃る必要がある」わけではないこと、それから、露出が多いか少ないかが、「毛を剃る必要」に繋がるわけではないことは分かっている。


ではどこでその必要性を感じるかというと、「毛を『人の美醜や怠惰さをジャッジするもの』とみなす」人々が多いところに行くときに、「毛を剃らなくては」と思ってしまうのである。
でなければ、「わたしは劣ったものと見なされてしまう恐怖」が心のそこに、まだある。

いくらかわいい服を着ていても、きちんとムダ毛の処理をしていなければ、袖までは「かわいい」、しかしその先に伸びる腕は「みっともない」。裾までは「かわいい」、その先の毛の生えた足は「みっともない」。
わたしからすれば、服は自分で選んで買って、選んで着ているものなのだから、その日のわたしの一部であり、服とわたしの境界線はないのだが、「毛が生えている」ということになれば、「かわいい」服と、「みっともない」肌の間に「境界線」が生まれてしまうようだ。「境界線」は、痛い。レーザーのように、ビリビリと肌を焼かれる感覚に陥るくらい、その「境界線」ははっきりとしていて、痛いのだ。
だから、チクチクしてても毛を剃る。



……いや本当は剃りたくない。本当に面倒だし、自然と生えてるのになんで剃らなきゃならないんだろう?
そういえば、毛を剃るようになった理由って、実は知らない。それが「当たり前だから」「みんなやってるから」「CMですごく宣伝してるから」以外の理由を聞いたことがない。「脱毛=美」となっている、その背景を知らないんだけど、わたしも周囲の人も、「女の子が毛を剃るのは当たり前」だと思っているのは、なぜだろう。

なぜ?と思うくらい理由が分からないのに、従わなければ「世間の目」というレーザービームで肌を焼かれる。

「かわいい服を着るなら毛の処理くらいしなよ」「毛の処理してないの?だらしない」などなど、別に悪意があるわけではなく、剃るのが普通だから言われるだけ。

今のわたしなら、「なぜ……だるい……」と思うし、剃らないという選択をすることもできるようにはなってきたけど、小中高くらい、思春期の頃は夏でも冬でも毛の処理をしないと恥ずかしいという意識があった。家の方針で処理してはいけないということになっていて、毛の処理をしてないことを隠さなければならなかったことも、恥ずかしいという意識を加速させる原因だったと思う。
あの頃は、「なぜ?」と思うレベルにもなくて、ただただ「毛は剃るものだ」「毛が濃いのは恥ずかしいことだ」という意識だけがあった。

しかし、あの頃の意識がどこから来ていたものか、今振り返っても分からない。



学生服を着たり、フェミニンな格好をするとき。つまり、見た目が「女らしい」状態であるときほど、それらの衣服と肌の「女らしさ」のコントラストがはっきりする。女と男をはっきりと分ける、学生服。女であるわたしは、「女子学生」の制服を着るから、着ている部分は「女」である。だから、肌も「毛を剃って」、「女」にしておかないとちぐはぐだ。このちぐはぐさが、「恥ずかしいもの」とされているのかな?家や近所でユニセックスな服装をしてだらだらしているときも、わたしは女であるが、肌を「女」にしておく必要は感じていない。清潔ならそれで良いし、毛が生えてるかどうかは清潔さとはあまり関係がない。


ユニセックスな格好でだらだらとしているとき、わたしは女らしいとかそうでないとか考えていない。さあ、でかけるか、とかわいいワンピースを出してきて、着替える前にムダ毛処理をしているとき、「あれ、なんでわたしは今これをしているのかな?」と思う。「面倒だなあ」と思う。だけど、「まあ最低限は……」と服からでていて見えるところの毛は剃る。そして服を着て、服と融合する。「女らしい」に向かって繋がってゆく。「あーからだと服と繋がったな」と思い、敗北感というか、ちょっとげんなりしながら、社会に出ていく。
面倒くさがりで全部の毛は剃らないから、実は服に隠れて見えないところに境界線は残っている。その境界線がばれぬよう、そーっと過ごす一日は、あまり楽しくはない。


わたしのからだには境界線などないはずである。
服はある種、社会と繋がるための手段だったり、勇気を与えてくれるものだったりする。
だけど、服を着た瞬間に、からだに境界線が現れ、からだが社会からはじかれるようになってしまう時がある。その時の要因の一つとして「ムダ毛」があると思う。
そんなにムダ毛ってダメなものなのだろうか?理由がやはり分からない。分からないけど剃らないとなあと思ってしまう自分が、ちょっと怖い。
「絶対にムダ毛を剃らない!」という考えではないが、「絶対にムダ毛を剃らなければならない!」という考え方は全くしていないので、どうしたものか、と思う最近です。

もう夏だから、露出も増える頃だし、余計に考えてしまうね。

「体を冷やしちゃ駄目だよ」

「床に直接座っちゃダメだよ」の前後には、「女の子なんだから」「おなか冷やしたら子ども産めない体になるよ」がくっついてくる環境で育ってきた。
「足を冷やしちゃ駄目だよ」「末端はあたためなさいね」の前後も同じである。

誰も「わたし」の心配はしていない。「わたし」以前に、娘の、孫の「子宮」もしくは「子どもを産める機能」が大切にされているのだ。


ならばわたしを差し置いてわたしの「子宮」は大切にされているかと言うと、別にそんなことはない。わたしも子宮も大して労られていない。自己責任である。自己責任というか、「わたしはわたしの『産める体』を大事にしています」アピールをしないといけない。でなければ、「体に気を使えない女は生殖機能持ちとして失格」となるだけ。


結局わたしの何もかもは大切にされない。
そういうコンプレックスがずっとある。


この、「女なんだから」、は、幼稚園とかの頃から言われていた。「床に座っちゃダメだよ」。わたしはおなかが弱いから、おなかを冷やすと下痢をしたりしていた。だから、冷やしてはいけないのはその通りである。でも、そうやって大人から言われるときの理由はわたしの体の心配ではなくて、「赤ちゃん産めなくなるよ」という、まだ見ぬ赤ちゃんとやらの心配なのだ。全然子どもを産むとかいう年齢ではない、幼稚園児に何を言ってんだ、って感じだったけど、なんかうちの両親は「早くしおりちゃんの子どもをだっこしたいな♪孫が欲しいなあ」と相当早くから言っていたタイプなので、まあそんなものなのかもしれない。

そんなかんじで育ってきた中で、一番嫌だったのは初潮がきましたよ、ってときだった。よそがどうしているのかは知らないが、うちは赤飯を買った。祖父母の分と、うちの分、あとわたしが赤飯好きじゃないので、ケーキと。
股から血が出て、お祝いだ!となるのが理解できなかった。わたしからしてみたら、とうとう体が「産む女」になってしまった訳である。全然嬉しくないわたしを置いてきぼりにして、大人は喜ぶのが、余計に気持ち悪かった。わたしの体なのに、クソが、としか思わなかった。

生理にまつわる諸々を一旦置いておいて考えたら、もちろん、来るべき時期に初潮が問題なく来たことはありがたいことだとは思う。健康だということだからだ。もしわたしが子どもを産む決断をしたときに、「毎月問題なく生理が来ている」というのは非常に大切なことだし、疎かにしてはいけないことだ。

というのは理解した上で、一旦置いておいた生理にまつわる諸々をもとに戻して思い出してみると、毎月生理が来るとかそんなのどうでもいい。むしろめめちゃくちゃ嫌だ。だってわたしは子どもはいらないし、痛いだけの生理を祝われても気持ち悪いだけ。生理が来たことでわたしをより一層「女」にする生理なんてくたばれ、子宮なんていらない、そう思うのだ。



産まれたときに、男声器がついておらず、子宮がついていた。だから女として育てられて、床に座ると叱責と、「女なのに」という謎の「意識」を刷り込まれた。そんなもんクソだと足掻いても、生理は来る。本当に「産める体」になって、「リアル」と「説得力」の増した叱責で、わたしの体はコントロールされる。痛くても痛くても、痛がることしか出来なかった。病院にいけなかったから。「年頃の女の子が婦人科に行ってると『何かあった』と思われるから行かせない」と言われて、二十歳越えてしばらくするまでピルも飲めなかった。生理の度にぶっ倒れても、わたしのせいだ。「きちんとしてないから痛みがある。乗り越えられないのは甘え、みんな痛いのを我慢している」。あとから「みんな」に聞いたが、痛みで意識が飛んだり気持ち悪くなって吐いたりはしない人が多かったけど。まあでも親や祖母がいうならそうなんだ、としか言えない時期があった。

呪われてるのかと思った時期もあった。子どもを産む気がない。異性の恋人を作る気がない。毎月毎月、ぽろんと出てくる卵子を無駄にして、流されていく卵子たちに呪われてるからこんなに苦しいのかと、今思えばとちくるったようなことを考えていた時期もあった。でもそれが変だと思えないくらい、「産まないわたし」に罪悪感を抱く価値観を刷り込まれて疲弊していた時期があったのだ。


「わたし」は大切ではない。「子宮」「産める女」が大事なのだ。
まじで自己肯定感下がる。「わたしの苦しみ」はないものとされる。子宮のためなら子宮持ちの痛みなんか大したことはない。薬はできるだけ飲むな、子宮に影響したらどうする。痛いなんて言ってないで働け、お前はもう生理も来て大人になった女なんだから。高校?辛かったらやめてもいいよ、嫁入り修行しながら結婚相手探せばいいし、あ、ところでお皿洗っておいてね。ちゃんとスリッパはいてやらなきゃ駄目だよ、「体か冷えるから、体を冷やしたらいけないの分かってるよね?」


ああ~~~~~~~!!!!!!!!!
絵文字が使える環境ならムカつくマークを連打したいところだ。


今はピルを飲んでいる。生理不順、多量の経血、重すぎる生理前症候群を軽減するために飲んでいる。嘘みたいに体が楽になった。生理前症候群は精神面にも影響が出るのだが、そちらも緩和されて心身共に前よりは快適。しかし価格が高いよなピル。お財布に大打撃であるが、でも飲まなきゃやっていられない。ピルを飲み始めて、ピルの「毎日同時刻に飲む」という縛りには辟易としたものの、効き目の前では些細なことで、やっと「子宮」のコントロールから逃げ出せた気がした。
でも経血は出るのは出るし、あくまで「軽減」だから、しんどいときはしんどい。子宮の言いなりにならなくてすむようになっただけで、周りの人たちでわたしを「子宮持ち」だと思ってる人たちからの扱いは変わらない。


「子宮持ち」って!
自分で書いていて最悪な表現だなと思う。思うがしかし、「そう」なんだと思う。


なにもなければ取ることはできない。子宮に限らず体と付き合っていくのは大変だ。しかし、年を減ると共に体とのつきあい方は分かってくる。問題は「子宮持ちのわたし」に対する周囲の人間の反応との付き合い方が分からないことだ。分からないというか、わたしが人間であることを皆さんお分かりで????ってかんじ。


そんなかんじ。おちはないです。




追記
結局なんの話かというと、と一言でまとめるのも難しいけど、ひとつ言えるのはわたしは自分のからだを「自分のからだ」だと思えていないということ。病気になっても、他人事のように感じる。痛みや辛さは感じるけど、例えば「この先わたしのからだはどうなるんだろう」みたいなことは思わない。死ぬか、生きるかくらいのことは考えるけど、それも生きるならまあ、生殖機能を保てていても失っても、「持っている/持っていた生き物」としてしか見られないのかなあということぐらいしか考えない気がする。
自分のからだを自分のものだと思えないから、自分でケアが出来ない。甘えているといわれればそうかもしれないけど、でも「ケアしなさい」と言われたら嫌になって反発して余計に疎かにしてしまうので、よく分からない。今回の過食はその「反発」にあたります、なんかすごく恥ずかしいので言わなかったけど(言ったっけ?)。

わたしは「早くしおりちゃんの子供が見たいなあ」と言われて育ってきたけど、いくらそう言われようが、別の部分で周囲の人にお世話になっていようが、子供が産まれてもその子を周囲の人には会わせない。自分のからだを「自分のからだ」だと思って生きていってほしいから、もうあんな価値観なんて受け継がせないぞと思うから会わせない。そもそも、そのことだけを理由としてるわけではなく、総合的に子どもは産みたいと思わないけど。
どつやったら自分のからだを大切にできるか、わたしは分からない。分からないままの出産は自分を痛め付けることにしか思えない。分からないままの育児は、子どもに「自分のからだは自分のものだよ」と教えることの出来ないものになると思う。
何も大切に出来ないなら、分かるまで考え抜いてる方がいいなあ。
考えるより産むが易し、とよく言うけど、そんな適当で雑なこと言うなよと思っている。

ジーンズがはけて超嬉しかった話

最近体型の話ばかりしているが、まあこんなことは今までなかったので許してほしい。



太って、着られない服が増えた。自分ではどこがどれくらい太ったか、把握する気がなかったので、まずそこで躓いていたのだが、それにすら気付かず、いつも通りネットで服を買っては、「あれ、入らない」とかやってた。

太ったことについて、特に母が心配していて、でも心配の方向を間違えてるんじゃないかというようなことを言ってきていた。例えば「そんなに太ったらかわいいしおりちゃんじゃなくなるよ」「かわいい服が着られなくなるよ」とか。体調の心配をしているとのことだったが、口から出るのは見た目の「劣化」を咎めるものだったので、それを聞くと「なにが体調の心配だよ」と相当いらいらとしていた。そして躁状態だし、着られないものを買ってもそれはただの浪費癖だろうと思って気付いていなかったが、買った服が合わないことにもストレスを感じていたらしい。

元々、極限にやせていたときも、バストとヒップが大きめというのはコンプレックスだった。服が似合わないからだ。あと、かばんを斜めがけにしたり、夏場にリュックを背負ってバスト部分の布が後ろに引っ張られるのも嫌だった。胸が強調されるからである。
最近だと、セットで安く買えるブラにもうサイズがなくて、ブラを買いに行くのも、するのもだるかった。でもブラをしないと、胸が四方八方に主張するので、ブラで抑えていた感じだったのだが。


もうとにかく買ってみたものな着られない服が山になっていくのを見て、胸が駄目、尻が駄目、デブは駄目、「ぽっちゃりさん」と言えるのはここまで、とかそういうコンプレックスを掻き立てられていたらしい。プラスサイズモデルさんがおすすめしてたブランドの「大きめサイズ」のジーンズがが入らなかったときは流石にキレた。わたしは既にプラスサイズでもないのか!プラスサイズって何!?


そうこうしていたら、友人がぽっちゃりの先輩としてパンツの買い方、バストサイズの見方を教えてくれた。そしてお気に入りの通販サイトも教えてくれたので、ちょっとそこで買い物をしてみた。
他の通販サイト(ネットショップ)より価格帯が少し高めであったが、かわいい服がたくさんあり、ウエスト等もこれなら絶対着られるぞ、というものばかりだったので、思い切って(躁でもあったし)ワンピース3着とジーンズ1着を買った。ワンピースはジーンズが着られなかったときのお慰め用アイテムであったが、これも細いモデルさんが着てるからかわいいだけで、わたしが着たらどうなるんでしょうね、と半ば投げやりな気持ちで買った。



結果から言おう、ジーンズいけた。



イエーーーーーイ!!!!!!何着試してなん着駄目にしたんだっけ?これははけましたよ!!!!感動してはいた瞬間ぽっちゃりの先輩(友人)に感謝の長文メッセージを送っていた。

そしてワンピースもすばらしかった。絶対細くないとかわいくないよ、と思ってた服が、すごくかわいく着られた。胸があっても尻があってもいやらしくならず、さらりとした生地ですとん~ひらり~というかんじに着られた。優雅な気持ちになった。そして感動した。そのあと、あぁ、意識してなかっただけで、結構「着られる服がない」ということを悲しんでいたんだな、とやっと気付いた。


着られる服があることがこんなに嬉しいとは。こんなにかわいい服が、わたしにもかわいく着られるとは。さいこうだな!!



服だけでなくて、わたしは「標準」を逸脱したら何も手に入らないような生活環境にいるのかもしれない。得たものもあったから、そちらに気をとられてあんまりちゃんと把握できてなかったようだが、「失ったもの」、諦めるのが「当然」であるものなどが沢山できていた。悲しいことに。



でも救いはあった。わたしを知る人から救われたというのも嬉しいのかもしれない。


ジーンズはけましたよ皆さん!!!
人生まだまだ楽しくなるな、と思った。




追記
わたしみたいに大きなサイズを探している方へ

今回お買い物をしたのは「オシャレウォーカー」というサイトです。ネットでしかやってないので、試着できないのがこわいなと思われるかもしれないんですが、横だけでなく縦に大きい人にも対応しているので、背が高い人にもおすすめ。
ちょっとデザインがユニークだけど、オフィスカジュアルとかにもできそうな物もあるので、気になったら覗いてみてね。


追記2
こんな動画を見つけました。面白かったので共有でーす

youtu.be

わたしを救うものはなに

ロールモデル、と聞いて、浮かぶものはありますか。自分の将来こうかな、と想像できますか。



幼い頃から、「将来の夢」を考えてきてね、と言われて発表させられたり、志望校を考えてね、就活で人生設計を考えてみてね、と言われたり、27年間で「自分の人生設計」を求められることが多かった。
わたしはこれが大の苦手で、なんてったって人生思い通りに行かないじゃん、と心から思っていたからだ。あとは世間知らずな(ことを求められている)のに、世間をよく知っていないと答えられない質問をするな、と幼い頃は思っていた。

でも社会は子どもに「夢」を求める。
あるときからは「現実」を求めるけど。


なんにせよ、わたしにはこうなりたい、というのがあまりなかった。実はこっそりとした将来への憧れはあったし、その憧れに近付くための努力もしていたときがあったが、徐々に、あ、ここでつまづいてしまった、またつまづいてしまった、の繰り返しで、今はもう前提としてのわたしが「普通の人」とかではないため、なかなか難しいことも多くなってしまった。


そうやって「難しくなった」ことのうちの一つに、「ロールモデルを参考にする」ということがある。説明するのも面倒だから省いていいかな?わたしは就職などの面で浪人留年のため弾かれることも多かったし結婚もしないし子どもも生まない、持ち家マイカーとかいつの時代なんだ、いや知っている、地元ではいまもそうだ。
それはさておき、世の中には様々な「ロールモデル」がある。生活を営むなかで、これだ!と思うような、自分にぴったりの、しっくりくる「ロールモデル」というのもあるのだろう。しかし、わたしは出会ったことがない。大体の「ロールモデル」は性愛者向けだから。「恋愛をしないまま暮らす人のためのロールモデル」とか、「モテない人のためのロールモデル」とかみたことあるけど、でもそれは「性愛者で、今は恋愛をしていない、あわよくば」みたいなものがあるとおもう。
アロマンティックでアセクシャルな人向けのロールモデルってあるんだろうか。ひとまずわたしは知らない。



というか、実はロールモデルなんか探していない。そんなもんないからだ。みんながみんな、似たような人生が送れている、というのは妄想だ。ある程度、似た流れはあるだろうが、日々はそれぞれの人によって全く違うだろう。
ロールモデル」、生き方や考え方の模範、という意味らしいが、「模範」なんてくそくらえ~と思っている身としては、いらないかな。


ぼんやりとそう考えていたとき。
羽月ゆきちさんという方のnoteを見た(ざっくりしすぎるぐらいざっくり読んだ)(なので羽月さんとわたしの記事の内容はあまり被っていないと思われる)。

こちら。
note.com


まずタイトルがいい。
そして小見出しの、「物語にどこまでを求めていいのか」というのも、またいい。素晴らしくいい。ちょっと涙ぐんでしまったくらい、いい。


わたしにはロールモデルっていうのがない。それは「出会ってない」からでもある。性愛者でも、非性愛者でもどちらでもよいが、憧れる生活なんてものがない。現実にもなければ、フィクションにもない。フィクションにすらない!!

今までの中で一番「こうなりたい」と思ったのは、竹内佐千子さんの「2DK」という、追っかけ女子2人のルームシェア生活を描いた漫画で、これはすごくわかるなあ、と思ったのは、以前の記事で紹介した、「恋ぞこないのサンバ」である。でも、どちらも「わたしと全く違う人達の物語」であって、そこに自分を近付けていこう、という風に思うことすらできないほど、憧れとの距離がある。
わたしがもしこんな生活ができたら……と想像することもあるが、それが出来るわたしというのは最早わたしではない。というレベルで全然違う。

上述の通り、ロールモデルとは「模範」である。わたしは既に「模範生」ではない。世の中の「模範」は、働いて恋愛して結婚して子供を産んで、人の役に立つこと、となっていないだろうか。そういうものが「模範」であるとき、わたしは常に「逸脱者」としてしか描かれないだろう。もしわたしが「模範」になれるような世界があるなら……今のところフィクションでギリギリ描けるかな、というところだが、ハッピーエンドにはならなさそうだ。そうそう、世の中の模範の1つには「ハッピーであれ」というものもあるから、そういう意味でもなかなかわたしは「模範生」にはなれない。


わたしが、物語にロールモデルを求めたとして、そこですべての要求を満たす物語が作られたとしたら、それはもうロールモデルではないというか、ただただ「わたし個人の話」になると思う。わたしが取り得る可能性がつらつらと書かれた文章になるだけ。物語にはならないし、「模範」にもならないだろう。

というか、他の人たち、例えば健常者だったり異性愛者だったりするマジョリティであっても、「自分の理想にぴったりのロールモデルと物語」を求めれば、「その人の選択肢の羅列」しか出てこない気がする。
つまり、共通のロールモデルなんてないってこと。


「確固たる将来」が見えている人には、なにが見えているのだろうか。わたしには見えたことがないからわからない。

先輩が憧れる人だった?素敵な物語を読んだ?
わたしは経験をしたことがない。
わたしが憧れる人は、わたしみたいな人間で、ちゃんと生きていけている人で(ちゃんとの意味は省く)、わたしが思い描く素敵な物語は、わたしが幸せでちゃんと生きていけている物語だ。

他人の幸せは、わたしのロールモデルにはならないと思う。



だから、わたしに出来るのは、わたしがわたしを用いて「幸せなわたし」になっていくことだけだと思う。それのみがわたしのためのロールモデルであり、わたしのための物語なんだと思う。


孤独な幸せだ。孤独な戦いだ。孤独な人生……か?いや、いやいや仲間や友だちがいるから、孤独ではない。わたしとは全く違う人たちだけど、わたしを支えてくれる人が、少しでも、ネットを介してでも、どういう形でも、気にならないくらい心強くいてくれるから、わたしは孤独に負けずに戦って、幸せになって、まあ幸せでなくてもいいけど、とにかく「わたしの人生」を全うすればよいのだろう。

たまにこうやって文章も書いて、これが誰かのロールモデルにはならないだろうが、何かの形でわたしも「誰かを心強くさせる存在」になれればいいと思う。そうして、その人がその人の物語を紡いでいければ。



他人の人生や物語に救いは求めない。救いはわたしが自分で作る。ロールモデルも必要ない。わたしの生き方がわたしの生き方である。
本来、他の人だってそんな感じじゃないのかなあって思うんだけど、ロールモデルとか物語による救いとかってのはなかなか消えていかない概念である。面倒だね。




追記
ロールモデルとかを物語に求める気持ちはわかる。現在の世界、つまりノンフィクションに夢はない。ノンフィクションの中ではわたしは幸せな主人公にはなれない。なので、フィクションならとは思う。思うがしかし、「現実(ノンフィクション)において異質な存在の見せる面白さ」と「フィクションにおいて当たり前な存在が見せられる面白さ」を考えたときに、絶対前者が勝つので、物語では勝てない気がするのだ。

別に勝つ必要はなく、わたしみたいな人間が当たり前にいる物語というものがあるだけで気持ちが晴れるだろうが、うーん、やっぱどうせ物語にするなら面白くありたいよねみたいな気持ちがある。他人も惹き付け、自分も楽しく生きやすい暮らしをしている物語がほしい。

そういえば、中憲人という作家さんの「雑な生活」という漫画があって、それが好きだ。生活が雑すぎる人の話である。説明しづらいので試し読みを貼っておきます。


書籍
www.amazon.co.jp


あと、bubuchiyo(@bubuchiyo)さんの漫画も好きだ。

書籍
https://www.amazon.co.jp/dp/4594083641/


こういう、「普通の生活」をしているのであれば「絶対主人公にはならない」けど、「なんとなく幸せな人」になれたら、それは絶対楽しいな、と思う。