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BL、生活、その他いろいろ

「かわいい服」と「毛の生えたからだ」との境界線

ムダ毛の処理が嫌いだ。単純にだるいし、ちくちくする。わたしは毛量が多く、濃いので、一回剃ると、その後伸びてきたときにすごく目立つから、剃り続けてつるつるの状態を保たないといけない。でも肌がそこまで強くはないので、よくトラブルが起きる。

なので、毛を剃るのは嫌いだ。夏以外の季節は大体毛なんて剃らずに放ってある。毛自体は嫌いではないし。なんなら夏でも必要がなければ生やしっぱなしである。

必要に応じて剃るときもあるが、いつも不思議に思うのは、「毛を剃る必要」って、どこからやってくるのだろう、ということだ。



「あ~毛を剃らなきゃ」
と思うときは、「社会に見られている」と感じる場所に行くときである。ここでいう「社会」とは、単に「家の外」とか、「人が集まるところ」ではない。例えば近所に配りものに行くときは毛は剃らない。近所というのも社会の1つだが、近所の人は別にわたしの手足に毛が生えているかを何かのジャッジの基準にはしない。例えば、礼儀正しさや愛想のよさ、声の大きさなんかがわたしのイメージを左右する。
それから、銭湯もしくは温泉。銭湯に行くから毛を剃らねばと思ったこともあまりない。他人がたくさんいる場所で、全裸になるけども、「人の体をじろじろみない」ことが共通認識になっているからだ(と思うんだけどどうですか)。銭湯はいいなあとおもう。体型がどうであれ気にするところはそこではなくて、お湯がいかに気持ちいいかというところが大事。ハァ~と日々の疲れを取ってくれるそこには、毛がどうとかは関係ないのである。

ということで、どこでもかしこでも「毛を剃る必要がある」わけではないこと、それから、露出が多いか少ないかが、「毛を剃る必要」に繋がるわけではないことは分かっている。


ではどこでその必要性を感じるかというと、「毛を『人の美醜や怠惰さをジャッジするもの』とみなす」人々が多いところに行くときに、「毛を剃らなくては」と思ってしまうのである。
でなければ、「わたしは劣ったものと見なされてしまう恐怖」が心のそこに、まだある。

いくらかわいい服を着ていても、きちんとムダ毛の処理をしていなければ、袖までは「かわいい」、しかしその先に伸びる腕は「みっともない」。裾までは「かわいい」、その先の毛の生えた足は「みっともない」。
わたしからすれば、服は自分で選んで買って、選んで着ているものなのだから、その日のわたしの一部であり、服とわたしの境界線はないのだが、「毛が生えている」ということになれば、「かわいい」服と、「みっともない」肌の間に「境界線」が生まれてしまうようだ。「境界線」は、痛い。レーザーのように、ビリビリと肌を焼かれる感覚に陥るくらい、その「境界線」ははっきりとしていて、痛いのだ。
だから、チクチクしてても毛を剃る。



……いや本当は剃りたくない。本当に面倒だし、自然と生えてるのになんで剃らなきゃならないんだろう?
そういえば、毛を剃るようになった理由って、実は知らない。それが「当たり前だから」「みんなやってるから」「CMですごく宣伝してるから」以外の理由を聞いたことがない。「脱毛=美」となっている、その背景を知らないんだけど、わたしも周囲の人も、「女の子が毛を剃るのは当たり前」だと思っているのは、なぜだろう。

なぜ?と思うくらい理由が分からないのに、従わなければ「世間の目」というレーザービームで肌を焼かれる。

「かわいい服を着るなら毛の処理くらいしなよ」「毛の処理してないの?だらしない」などなど、別に悪意があるわけではなく、剃るのが普通だから言われるだけ。

今のわたしなら、「なぜ……だるい……」と思うし、剃らないという選択をすることもできるようにはなってきたけど、小中高くらい、思春期の頃は夏でも冬でも毛の処理をしないと恥ずかしいという意識があった。家の方針で処理してはいけないということになっていて、毛の処理をしてないことを隠さなければならなかったことも、恥ずかしいという意識を加速させる原因だったと思う。
あの頃は、「なぜ?」と思うレベルにもなくて、ただただ「毛は剃るものだ」「毛が濃いのは恥ずかしいことだ」という意識だけがあった。

しかし、あの頃の意識がどこから来ていたものか、今振り返っても分からない。



学生服を着たり、フェミニンな格好をするとき。つまり、見た目が「女らしい」状態であるときほど、それらの衣服と肌の「女らしさ」のコントラストがはっきりする。女と男をはっきりと分ける、学生服。女であるわたしは、「女子学生」の制服を着るから、着ている部分は「女」である。だから、肌も「毛を剃って」、「女」にしておかないとちぐはぐだ。このちぐはぐさが、「恥ずかしいもの」とされているのかな?家や近所でユニセックスな服装をしてだらだらしているときも、わたしは女であるが、肌を「女」にしておく必要は感じていない。清潔ならそれで良いし、毛が生えてるかどうかは清潔さとはあまり関係がない。


ユニセックスな格好でだらだらとしているとき、わたしは女らしいとかそうでないとか考えていない。さあ、でかけるか、とかわいいワンピースを出してきて、着替える前にムダ毛処理をしているとき、「あれ、なんでわたしは今これをしているのかな?」と思う。「面倒だなあ」と思う。だけど、「まあ最低限は……」と服からでていて見えるところの毛は剃る。そして服を着て、服と融合する。「女らしい」に向かって繋がってゆく。「あーからだと服と繋がったな」と思い、敗北感というか、ちょっとげんなりしながら、社会に出ていく。
面倒くさがりで全部の毛は剃らないから、実は服に隠れて見えないところに境界線は残っている。その境界線がばれぬよう、そーっと過ごす一日は、あまり楽しくはない。


わたしのからだには境界線などないはずである。
服はある種、社会と繋がるための手段だったり、勇気を与えてくれるものだったりする。
だけど、服を着た瞬間に、からだに境界線が現れ、からだが社会からはじかれるようになってしまう時がある。その時の要因の一つとして「ムダ毛」があると思う。
そんなにムダ毛ってダメなものなのだろうか?理由がやはり分からない。分からないけど剃らないとなあと思ってしまう自分が、ちょっと怖い。
「絶対にムダ毛を剃らない!」という考えではないが、「絶対にムダ毛を剃らなければならない!」という考え方は全くしていないので、どうしたものか、と思う最近です。

もう夏だから、露出も増える頃だし、余計に考えてしまうね。