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BL、生活、その他いろいろ

「体を冷やしちゃ駄目だよ」

「床に直接座っちゃダメだよ」の前後には、「女の子なんだから」「おなか冷やしたら子ども産めない体になるよ」がくっついてくる環境で育ってきた。
「足を冷やしちゃ駄目だよ」「末端はあたためなさいね」の前後も同じである。

誰も「わたし」の心配はしていない。「わたし」以前に、娘の、孫の「子宮」もしくは「子どもを産める機能」が大切にされているのだ。


ならばわたしを差し置いてわたしの「子宮」は大切にされているかと言うと、別にそんなことはない。わたしも子宮も大して労られていない。自己責任である。自己責任というか、「わたしはわたしの『産める体』を大事にしています」アピールをしないといけない。でなければ、「体に気を使えない女は生殖機能持ちとして失格」となるだけ。


結局わたしの何もかもは大切にされない。
そういうコンプレックスがずっとある。


この、「女なんだから」、は、幼稚園とかの頃から言われていた。「床に座っちゃダメだよ」。わたしはおなかが弱いから、おなかを冷やすと下痢をしたりしていた。だから、冷やしてはいけないのはその通りである。でも、そうやって大人から言われるときの理由はわたしの体の心配ではなくて、「赤ちゃん産めなくなるよ」という、まだ見ぬ赤ちゃんとやらの心配なのだ。全然子どもを産むとかいう年齢ではない、幼稚園児に何を言ってんだ、って感じだったけど、なんかうちの両親は「早くしおりちゃんの子どもをだっこしたいな♪孫が欲しいなあ」と相当早くから言っていたタイプなので、まあそんなものなのかもしれない。

そんなかんじで育ってきた中で、一番嫌だったのは初潮がきましたよ、ってときだった。よそがどうしているのかは知らないが、うちは赤飯を買った。祖父母の分と、うちの分、あとわたしが赤飯好きじゃないので、ケーキと。
股から血が出て、お祝いだ!となるのが理解できなかった。わたしからしてみたら、とうとう体が「産む女」になってしまった訳である。全然嬉しくないわたしを置いてきぼりにして、大人は喜ぶのが、余計に気持ち悪かった。わたしの体なのに、クソが、としか思わなかった。

生理にまつわる諸々を一旦置いておいて考えたら、もちろん、来るべき時期に初潮が問題なく来たことはありがたいことだとは思う。健康だということだからだ。もしわたしが子どもを産む決断をしたときに、「毎月問題なく生理が来ている」というのは非常に大切なことだし、疎かにしてはいけないことだ。

というのは理解した上で、一旦置いておいた生理にまつわる諸々をもとに戻して思い出してみると、毎月生理が来るとかそんなのどうでもいい。むしろめめちゃくちゃ嫌だ。だってわたしは子どもはいらないし、痛いだけの生理を祝われても気持ち悪いだけ。生理が来たことでわたしをより一層「女」にする生理なんてくたばれ、子宮なんていらない、そう思うのだ。



産まれたときに、男声器がついておらず、子宮がついていた。だから女として育てられて、床に座ると叱責と、「女なのに」という謎の「意識」を刷り込まれた。そんなもんクソだと足掻いても、生理は来る。本当に「産める体」になって、「リアル」と「説得力」の増した叱責で、わたしの体はコントロールされる。痛くても痛くても、痛がることしか出来なかった。病院にいけなかったから。「年頃の女の子が婦人科に行ってると『何かあった』と思われるから行かせない」と言われて、二十歳越えてしばらくするまでピルも飲めなかった。生理の度にぶっ倒れても、わたしのせいだ。「きちんとしてないから痛みがある。乗り越えられないのは甘え、みんな痛いのを我慢している」。あとから「みんな」に聞いたが、痛みで意識が飛んだり気持ち悪くなって吐いたりはしない人が多かったけど。まあでも親や祖母がいうならそうなんだ、としか言えない時期があった。

呪われてるのかと思った時期もあった。子どもを産む気がない。異性の恋人を作る気がない。毎月毎月、ぽろんと出てくる卵子を無駄にして、流されていく卵子たちに呪われてるからこんなに苦しいのかと、今思えばとちくるったようなことを考えていた時期もあった。でもそれが変だと思えないくらい、「産まないわたし」に罪悪感を抱く価値観を刷り込まれて疲弊していた時期があったのだ。


「わたし」は大切ではない。「子宮」「産める女」が大事なのだ。
まじで自己肯定感下がる。「わたしの苦しみ」はないものとされる。子宮のためなら子宮持ちの痛みなんか大したことはない。薬はできるだけ飲むな、子宮に影響したらどうする。痛いなんて言ってないで働け、お前はもう生理も来て大人になった女なんだから。高校?辛かったらやめてもいいよ、嫁入り修行しながら結婚相手探せばいいし、あ、ところでお皿洗っておいてね。ちゃんとスリッパはいてやらなきゃ駄目だよ、「体か冷えるから、体を冷やしたらいけないの分かってるよね?」


ああ~~~~~~~!!!!!!!!!
絵文字が使える環境ならムカつくマークを連打したいところだ。


今はピルを飲んでいる。生理不順、多量の経血、重すぎる生理前症候群を軽減するために飲んでいる。嘘みたいに体が楽になった。生理前症候群は精神面にも影響が出るのだが、そちらも緩和されて心身共に前よりは快適。しかし価格が高いよなピル。お財布に大打撃であるが、でも飲まなきゃやっていられない。ピルを飲み始めて、ピルの「毎日同時刻に飲む」という縛りには辟易としたものの、効き目の前では些細なことで、やっと「子宮」のコントロールから逃げ出せた気がした。
でも経血は出るのは出るし、あくまで「軽減」だから、しんどいときはしんどい。子宮の言いなりにならなくてすむようになっただけで、周りの人たちでわたしを「子宮持ち」だと思ってる人たちからの扱いは変わらない。


「子宮持ち」って!
自分で書いていて最悪な表現だなと思う。思うがしかし、「そう」なんだと思う。


なにもなければ取ることはできない。子宮に限らず体と付き合っていくのは大変だ。しかし、年を減ると共に体とのつきあい方は分かってくる。問題は「子宮持ちのわたし」に対する周囲の人間の反応との付き合い方が分からないことだ。分からないというか、わたしが人間であることを皆さんお分かりで????ってかんじ。


そんなかんじ。おちはないです。




追記
結局なんの話かというと、と一言でまとめるのも難しいけど、ひとつ言えるのはわたしは自分のからだを「自分のからだ」だと思えていないということ。病気になっても、他人事のように感じる。痛みや辛さは感じるけど、例えば「この先わたしのからだはどうなるんだろう」みたいなことは思わない。死ぬか、生きるかくらいのことは考えるけど、それも生きるならまあ、生殖機能を保てていても失っても、「持っている/持っていた生き物」としてしか見られないのかなあということぐらいしか考えない気がする。
自分のからだを自分のものだと思えないから、自分でケアが出来ない。甘えているといわれればそうかもしれないけど、でも「ケアしなさい」と言われたら嫌になって反発して余計に疎かにしてしまうので、よく分からない。今回の過食はその「反発」にあたります、なんかすごく恥ずかしいので言わなかったけど(言ったっけ?)。

わたしは「早くしおりちゃんの子供が見たいなあ」と言われて育ってきたけど、いくらそう言われようが、別の部分で周囲の人にお世話になっていようが、子供が産まれてもその子を周囲の人には会わせない。自分のからだを「自分のからだ」だと思って生きていってほしいから、もうあんな価値観なんて受け継がせないぞと思うから会わせない。そもそも、そのことだけを理由としてるわけではなく、総合的に子どもは産みたいと思わないけど。
どつやったら自分のからだを大切にできるか、わたしは分からない。分からないままの出産は自分を痛め付けることにしか思えない。分からないままの育児は、子どもに「自分のからだは自分のものだよ」と教えることの出来ないものになると思う。
何も大切に出来ないなら、分かるまで考え抜いてる方がいいなあ。
考えるより産むが易し、とよく言うけど、そんな適当で雑なこと言うなよと思っている。