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BL、生活、その他いろいろ

わたしを救うものはなに

ロールモデル、と聞いて、浮かぶものはありますか。自分の将来こうかな、と想像できますか。



幼い頃から、「将来の夢」を考えてきてね、と言われて発表させられたり、志望校を考えてね、就活で人生設計を考えてみてね、と言われたり、27年間で「自分の人生設計」を求められることが多かった。
わたしはこれが大の苦手で、なんてったって人生思い通りに行かないじゃん、と心から思っていたからだ。あとは世間知らずな(ことを求められている)のに、世間をよく知っていないと答えられない質問をするな、と幼い頃は思っていた。

でも社会は子どもに「夢」を求める。
あるときからは「現実」を求めるけど。


なんにせよ、わたしにはこうなりたい、というのがあまりなかった。実はこっそりとした将来への憧れはあったし、その憧れに近付くための努力もしていたときがあったが、徐々に、あ、ここでつまづいてしまった、またつまづいてしまった、の繰り返しで、今はもう前提としてのわたしが「普通の人」とかではないため、なかなか難しいことも多くなってしまった。


そうやって「難しくなった」ことのうちの一つに、「ロールモデルを参考にする」ということがある。説明するのも面倒だから省いていいかな?わたしは就職などの面で浪人留年のため弾かれることも多かったし結婚もしないし子どもも生まない、持ち家マイカーとかいつの時代なんだ、いや知っている、地元ではいまもそうだ。
それはさておき、世の中には様々な「ロールモデル」がある。生活を営むなかで、これだ!と思うような、自分にぴったりの、しっくりくる「ロールモデル」というのもあるのだろう。しかし、わたしは出会ったことがない。大体の「ロールモデル」は性愛者向けだから。「恋愛をしないまま暮らす人のためのロールモデル」とか、「モテない人のためのロールモデル」とかみたことあるけど、でもそれは「性愛者で、今は恋愛をしていない、あわよくば」みたいなものがあるとおもう。
アロマンティックでアセクシャルな人向けのロールモデルってあるんだろうか。ひとまずわたしは知らない。



というか、実はロールモデルなんか探していない。そんなもんないからだ。みんながみんな、似たような人生が送れている、というのは妄想だ。ある程度、似た流れはあるだろうが、日々はそれぞれの人によって全く違うだろう。
ロールモデル」、生き方や考え方の模範、という意味らしいが、「模範」なんてくそくらえ~と思っている身としては、いらないかな。


ぼんやりとそう考えていたとき。
羽月ゆきちさんという方のnoteを見た(ざっくりしすぎるぐらいざっくり読んだ)(なので羽月さんとわたしの記事の内容はあまり被っていないと思われる)。

こちら。
note.com


まずタイトルがいい。
そして小見出しの、「物語にどこまでを求めていいのか」というのも、またいい。素晴らしくいい。ちょっと涙ぐんでしまったくらい、いい。


わたしにはロールモデルっていうのがない。それは「出会ってない」からでもある。性愛者でも、非性愛者でもどちらでもよいが、憧れる生活なんてものがない。現実にもなければ、フィクションにもない。フィクションにすらない!!

今までの中で一番「こうなりたい」と思ったのは、竹内佐千子さんの「2DK」という、追っかけ女子2人のルームシェア生活を描いた漫画で、これはすごくわかるなあ、と思ったのは、以前の記事で紹介した、「恋ぞこないのサンバ」である。でも、どちらも「わたしと全く違う人達の物語」であって、そこに自分を近付けていこう、という風に思うことすらできないほど、憧れとの距離がある。
わたしがもしこんな生活ができたら……と想像することもあるが、それが出来るわたしというのは最早わたしではない。というレベルで全然違う。

上述の通り、ロールモデルとは「模範」である。わたしは既に「模範生」ではない。世の中の「模範」は、働いて恋愛して結婚して子供を産んで、人の役に立つこと、となっていないだろうか。そういうものが「模範」であるとき、わたしは常に「逸脱者」としてしか描かれないだろう。もしわたしが「模範」になれるような世界があるなら……今のところフィクションでギリギリ描けるかな、というところだが、ハッピーエンドにはならなさそうだ。そうそう、世の中の模範の1つには「ハッピーであれ」というものもあるから、そういう意味でもなかなかわたしは「模範生」にはなれない。


わたしが、物語にロールモデルを求めたとして、そこですべての要求を満たす物語が作られたとしたら、それはもうロールモデルではないというか、ただただ「わたし個人の話」になると思う。わたしが取り得る可能性がつらつらと書かれた文章になるだけ。物語にはならないし、「模範」にもならないだろう。

というか、他の人たち、例えば健常者だったり異性愛者だったりするマジョリティであっても、「自分の理想にぴったりのロールモデルと物語」を求めれば、「その人の選択肢の羅列」しか出てこない気がする。
つまり、共通のロールモデルなんてないってこと。


「確固たる将来」が見えている人には、なにが見えているのだろうか。わたしには見えたことがないからわからない。

先輩が憧れる人だった?素敵な物語を読んだ?
わたしは経験をしたことがない。
わたしが憧れる人は、わたしみたいな人間で、ちゃんと生きていけている人で(ちゃんとの意味は省く)、わたしが思い描く素敵な物語は、わたしが幸せでちゃんと生きていけている物語だ。

他人の幸せは、わたしのロールモデルにはならないと思う。



だから、わたしに出来るのは、わたしがわたしを用いて「幸せなわたし」になっていくことだけだと思う。それのみがわたしのためのロールモデルであり、わたしのための物語なんだと思う。


孤独な幸せだ。孤独な戦いだ。孤独な人生……か?いや、いやいや仲間や友だちがいるから、孤独ではない。わたしとは全く違う人たちだけど、わたしを支えてくれる人が、少しでも、ネットを介してでも、どういう形でも、気にならないくらい心強くいてくれるから、わたしは孤独に負けずに戦って、幸せになって、まあ幸せでなくてもいいけど、とにかく「わたしの人生」を全うすればよいのだろう。

たまにこうやって文章も書いて、これが誰かのロールモデルにはならないだろうが、何かの形でわたしも「誰かを心強くさせる存在」になれればいいと思う。そうして、その人がその人の物語を紡いでいければ。



他人の人生や物語に救いは求めない。救いはわたしが自分で作る。ロールモデルも必要ない。わたしの生き方がわたしの生き方である。
本来、他の人だってそんな感じじゃないのかなあって思うんだけど、ロールモデルとか物語による救いとかってのはなかなか消えていかない概念である。面倒だね。




追記
ロールモデルとかを物語に求める気持ちはわかる。現在の世界、つまりノンフィクションに夢はない。ノンフィクションの中ではわたしは幸せな主人公にはなれない。なので、フィクションならとは思う。思うがしかし、「現実(ノンフィクション)において異質な存在の見せる面白さ」と「フィクションにおいて当たり前な存在が見せられる面白さ」を考えたときに、絶対前者が勝つので、物語では勝てない気がするのだ。

別に勝つ必要はなく、わたしみたいな人間が当たり前にいる物語というものがあるだけで気持ちが晴れるだろうが、うーん、やっぱどうせ物語にするなら面白くありたいよねみたいな気持ちがある。他人も惹き付け、自分も楽しく生きやすい暮らしをしている物語がほしい。

そういえば、中憲人という作家さんの「雑な生活」という漫画があって、それが好きだ。生活が雑すぎる人の話である。説明しづらいので試し読みを貼っておきます。


書籍
www.amazon.co.jp


あと、bubuchiyo(@bubuchiyo)さんの漫画も好きだ。

書籍
https://www.amazon.co.jp/dp/4594083641/


こういう、「普通の生活」をしているのであれば「絶対主人公にはならない」けど、「なんとなく幸せな人」になれたら、それは絶対楽しいな、と思う。