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BL、生活、その他いろいろ

死なないと決めた日

今年でうつ(のちに双極性障害に変更)の診断がおりて、ちょうど10年になる。長いねえ……と感傷に浸り、10年で失ったものを悔やみ、10年で手に入れたものに感謝をすることが多かった年だった。まあつまり、情緒不安定ってやつ。ちょっとしたことで大泣きしていた年だった。

で。
10年前、うつだと診断されてから、死にたいと思わない日はなかった。誇張ではない。起きていれば死にたかった。寝ていれば悪夢を見た。副作用の吐き気で立てなくなったり、トイレにこもってずっと泣いていた日もあった。意識があることがつらかった。一日中夢も見ずに寝ていられるくらいの薬をもらって、朝と夜の2回だけ、飲み物と食べ物を無理やり飲み込んで薬を飲み、また寝る。そんな生活を送っていたときもあった。

でも、わたしは生きている。
正直さっさと死にたかったのだが、わたしは小さい時、わたしの中で決めごとをしたから、死なないでいる。

その決めごととは、「母より先に死なない」である。



母方の祖母は、母を産んだときに大量に血が出てしまったので、輸血(増血剤の投与かも)をし、C型肝炎になった。それからずっと入退院を繰り返し、わたしが6歳の時、肺炎で亡くなった。

わたしは祖母が大好きだった。外孫だし、入院していることも多かったので、あまり会えなかったけど、とても優しかったし、なんでもできる人で、お花の生け方を習ったり、編み物を習ったりした。わたしと弟の幼稚園のカバンは、祖母の手作りの革細工で作られたものだったし、ピアノの発表会に着ていったドレスの胸元のキラキラした刺繍は祖母が病院でちくちくと縫ってくれたものだった。

体調が良いときは祖母は祖父と海外旅行に行くことも多かったそうで、とてもおしゃれな人だったから、写真を見るとわくわくした。

わたしからしてみたら、母方の祖母というのは本当に女神様みたいな、すごい人だった。比べてしまって申し訳ないが、度々ブログでも言及する父方の祖母や、近所の嘘つきババアとは全く違う、優しくて、わたしの頑張りを後押ししてくれて、褒めてくれて、いつもニコニコ笑っている人だった。

病気らしいけど、治るよね!小さかったから、祖母の病気のことはよく分かっていなかった。だから、すごく良い人である祖母は、絶対元気になって長生きすると思っていた。だって世の中ってそういうハッピーエンドにあふれているじゃん?

でも、祖母は亡くなった。その時、わたしは世界ががらっとかわってしまったように思ったし、世界はもっと、希望にあふれているんじゃなかったの?と思った。ハッピーエンドの約束を守らなかった世界が憎かった。それ以降ハッピーエンドは信じていない。



母方の祖母の容態が急変したのは、夏のことだった。いつもなら、わたしがお見舞いに行くと起き上がって迎えてくれるのに、その時は酸素マスクをつけていて、わたしが来ていることも分からないみたいだった。母がずっとそばにいて手を握っていて、わたしも握らせてもらったけど、なんだかそれが怖かったように思う。母は祖母の側に残ると言ったので、父と一緒に帰った。何故か分からないけど、すごく怖いことが起きる気がして、それがわたしのせいなんじゃないかと思ってパニックを起こし、父に怒られた。

怖くて仕方ないまま寝て、起きたら、祖母は亡くなっていた。わたしの誕生日の1日前のことだった。

次に祖母に会えたのは、祖母が病院から祖母の家に帰ってきたときだった。花が敷き詰められた棺に納まった祖母は、お化粧もしてもらっていて、なにが悪くて亡くなってしまったのか全然分からないくらいだった。でももう手は握れなかった。頬も、ふくよかで血が通っていそうなのに、もしかしたら生きてるかもと思ったから確かめたかったのに、何故か触れなかった。
雰囲気がいつもと違ったからかもしれない。

わたしは黒い服なんて滅多に着ないのに、そういう服を着ていて、普段はジャージ族の叔父も喪服を着ていた。田舎の葬式で、家でやるとなると、本当に人が沢山来る。知っている人も、知らない人も。一人の人が死んで、それがわたしの大好きな祖母なのに、お葬式に来る人は、悲痛な顔をする人もいたけど、最後には笑って挨拶をして帰っていった。

よくわからなかった。

わたしはずっと泣いていて、棺の近くにも怖くて寄れなかった。母は、祖母が亡くなったあとから本当にやつれてしまっていたし、夜にすごく泣いていたけど、葬式に来る人のもてなしやなにやらですごく忙しそうにしていて、一緒にはいられなかった。

夏のことだったから、お葬式から焼却場へは早かった。ちゃんと祖母の顔も直視できず、自分の中の気持ちばかりを見て、ちゃんとお別れできなかったことは、今でも悔やんでいる。

すべてが終わって、また小学校に通うようになったけど、世の中って理不尽なんだなってずっと考えていた。あの子、あの先生、父方の祖母、嘘つきババア。世の中には、(わたしから見て)ひどい人間がたくさんいる。だけどそういう人に限ってのうのうと生きていて、ねえ、なんでとても良い人だった母方の祖母は死ななきゃならなかったの?
ずっと病気で苦しんでいた祖母。わたしだったら投げ出したくなるだろうに、ちゃんと寿命まで生きて、人生を楽しむことも諦めず、そして病気になったきっかけである母のことも、絶対に責めなかったという。

なぜ死ななければならなかったのか。
あんなに沢山の人に惜しまれる人が。
なぜわたしみたいにどうでもいい子どもは生きているのか?祖母の代わりになれたら、きっとその方がみんな喜んだんじゃないか。


母は毎日泣いていた。それを見てわたしも泣いた。好きだった人が去る、ということの重さがずっとのしかかってくるような日々だった。

本当に母はやつれた。父はいつまでも落ち込む母に厳しかった。父方の祖母も、無神経な人なので、頼れなかった。
多分、そのとき母が後追いをしなかったのは、わたしたち子どもがいたからだと思う。最近になって、あのときはね〜って話を聞くと、実際子どもがいることを支えにしていたらしいが、そんなことわざわざ言われなくても、幼心に「いまわたしがしっかりしてお母さんを励まして、支えないと、今度はお母さんがどこかにいってしまう」という感覚はあった。

それからわたしは、図書館に行ったらかならず神話とか、海外の伝説の本(?)とかを借りるようになった。元々本は好きで、なんでも読んでたけど、生きる・死ぬことに関する本を沢山読んだ。「○○って国の△△地方では、死んだ人はこういう風にあの世で暮らすらしいよ。おばあちゃんは絶対このきれいなところに行けたんだよ」とか、「泣いてたら、死んだ人が悲しくなってなかなか綺麗な場所にはいけないから、泣き止んで」とか、そういう風に、母を励ますための知識だった。
でも同時に、自分の中の、「なんでわたしは生きているんだろう?」というどうしようもない疑問と不安の答えを探していたという面もある。

人は何故生きるんだろう。



祖母が亡くなって一年くらいたった頃のことだと思う。初めて飼ったペットで、すごくかわいがっていたハムスターが死んだ。
初めて飼った子だったけど、一生懸命お世話をしたら懐いてくれたし、本当に好きだった。確か、祖母とわたしと弟とハムちゃんの写真があったと思う。よく、頭の上に乗せてたりしてた、ハムちゃん。ある日起きて、ハムちゃんのお水を変えようと思ったら、ハムちゃんの目が変な色に腫れているのを見つけた。慌てて病院に連れて行ったら、ガンだった。おそらく既に脳に転移しているから、早ければ明日には死ぬと言われた。

そして本当に、次の日ハムちゃんは死んでしまった。お家の中で丸まって死んでいた。ぱっと見全然分からなかったけど、抱き上げてみたら、体がかちんこちんに固まっていて、冷たくて、小動物特有の脈の速さも全然感じられなかった。冬ではなかったと思うし、毛はふわふわなままだったのに、本当に冷たかった。

そのときに、生き物って、死んだらこんなに冷たくなるんだ、と思った。祖母が亡くなった時には知ることができなかった、「もう取り戻せない」という感覚が、その冷たさから伝わってきた。

めちゃくちゃ泣いて、泣きながら庭に穴をほって、そこにハムちゃんと、ハムちゃんが好きだった綿と餌をちょっとだけ埋めて、お墓にした。
土をかけるときが一番つらかった。ハムちゃんが死んだことを、認めざるを得なかったからだ。

ハムちゃんは、死んで、きっと祖母のところに行ったんだなと思った。わたしはもうお世話してあげられないけど、祖母がハムちゃんを見つけて、一緒に、どこかからわたしたちを見守ってくれて、待ってくれているんだな、とわたしは思うようにした。

祖母とハムちゃんが待っている世界。きっとお花とかも沢山はえてるし、ハムちゃんの好きなひまわりも沢山あるんだろうなと思ったら、その世界がすごく魅力的に思えた。

小学生の頃は、別にうつとかではなかったけど、生きるのがつらかった時期ではあった。わたしに無条件で優しくしてくれる人というのがいなかったし、色んなことが出来なくてはならないのと同時に、してはいけないことや、環境的に絶対出来ないこともあって、その線引きを見極めて諦めたり、努力したりして生きていかないと本当にきつかったし、なんのために頑張ってるのか分からないときもあった。

だから、大好きな祖母とハムちゃんとずっと一緒にいられる世界はすごく魅力的だった。度々、その世界に思いを馳せて、わたしも早くそこに行きたいな、と思っていた。行くためにやるべきことは分かっていた。「死ぬ」ことである。

でも、その世界の魅力に惹かれ、どこかへいきそうなわたしをこの世にとどめていられるくらい、わたしの中では母が錨みたいな役割をしていた。
母がいる間は、死なないでおかなきゃという意識が、まだそこにあったし、祖母がいる世界に行きたいのは母も同じだろうに、わたしが先に行くのは、なんか抜け駆けみたいで申し訳ないなあという気もしていた。



高校に上がった頃、わたしはうつになった。もうその頃には、心の底から「あの世」を信じてはいなくて、あったらいいのにな、ってくらいだった。
「あの世」のこととか考える余裕がないくらい、とにかく現実がつらすぎた。気持ちの問題とかではなく、身体症状がきつすぎて、ポジティブに考えてみよう☆とかいう話では済まなかった。もうどうなってもいいから、死んで楽になるなら、なんでもするから、この苦しみから抜け出したいという気持ちしかなかった。自殺を考えるようになった。でも、今まで「死なない」ことを誓って(?)きた身として、あんまり死に方のバリエーションが思いつかなかった。ビルからの飛び降り?線路への飛び込み?風呂場でリストカットして失血死?首吊り?溶解炉に飛び込む?
なんかいろいろ考えたけど、田舎なので高いビルもなく、駅を通過する電車もないし、家においてある包丁は切れ味が悪かった。首吊りもどこに縄をかけたら良いのか分からなかったし、溶解炉に至ってはもはやターミネーター2でしか見たことなかった。
失敗するのが一番嫌だよな……とか考えていたら、今度は母方の祖父が亡くなった。



祖父は、祖母が亡くなって2年たった頃くらいに、脳梗塞で一度倒れて、半身不随になっていた。ずっとリハビリをしていたんだけど、わたしが高校に上がった頃にまた倒れて、入院して治療を受けていた。祖母は綺麗で新しい病院にいたけど、祖父の時はなぜか、コンクリ打ちっぱなしの陰気臭い病院に入院させられていて、しかもなんか、どうも末期患者、もしくは意思疎通が出来ないような患者が多い棟にいた。

祖父は二度目に倒れたときに、気管?がだめになってしまったので、酸素のチューブと、流動食を流し込むための管をつなぐために、喉のあたりを切開していた。だから、言葉を発することは出来なかった。
でも意識はあって、わたしがお見舞いに行くとアイコンタクトで挨拶してくれたし、手がガサガサだからと母が持ってきていたハンドクリームを塗り込んでいるときも、わたしが左側にいたら左を見てくれたし、右側にいたら右を見てくれた。
高校に上がって、祖父が買ってくれた自転車と、辞書を持って学校に通っているよ、という話とかをすると、唸り声だけど、返事もしてくれていた。

死ねないなあ、と思った。祖母も沢山の人から慕われていた人だったけど、祖父も立派な人だった。ガタイも良い人だったし、厳しくて怖くて、でも賢くて優しくて、尊敬していた。そんな祖父が、まさか倒れるとは思っていなかったし、こんなにやつれて、唸り声しか上げられなくなって、環境が悪そうな部屋にずっといて、他の患者の唸り声や叫び声を聞いていなくちゃならないのも、なんだかわたしとしては納得がいかなかった。祖父がどう思っていたかは知らないが、人間の尊厳ってなんだろうなと思った。もうしゃべれないから、祖父がどう思っていたのかも、なにもかもわたしは分からないが、祖父はひとまず、生きるために頑張っていた。そんなときに、「死にたいから死ぬ」みたいな死に方をするのは、わたしの中ではわりとハードルが高かった。

結局、祖父はわたしが高校2年生の冬に亡くなった。祖父の時は、亡くなった直後に、病院で会うことが出来た。いつもハンドクリームを塗っていた手は、まだ温かかったけど、もう動かなくて、多分、これから冷たくなってしまうんだろうと思った。
延命も出来たらしい。ただ、もう意識は戻らないし、それまで以上に管をつなげなくてはならないということだったから、母と叔父とで相談して、延命はやめたのだという。

車の中で母の話を聞きながら、つらいなと思った。意識もなくて、話せない父親の命を託されて、延命したにしろ、しなかったにしろ、後悔するに決まっている。誰の気持ちを一番に考えて選択すれば良いのか、わたしには分からなかった。それでも選ばなければならなかった母や叔父の立場が辛かった。



話は長くなったが、タイトルに戻ろうと思う。
「死なないことを決めた日」。幼い頃に決めた、「母より先に死なない」という約束を、もっと意識的に考えたのは、焼却所で祖父の遺骨を見たときだと思う。
祖母の時は、小さかったから見せてもらえなかったけど、祖父の時はわたしも遺骨を拾った。肉体は失われていて、面影とかも分からないけど、焼かれてなお、すごくしっかりした骨格だなあ、祖父っぽい、と思った。祖母も、ハムちゃんも、こうやって骨になって、どこかに行ってしまったんだなあと思った。

好きだった人の顔がもう見られないって、結構つらいことだ。もし延命治療をしていたら、意識はなくても、肉体は生きているわけだから、顔を見たいときに見られる。でももう祖父は焼かれてしまったから、顔は見られない。拾われた骨以外の部分がどこにやられるのかは知らないが、捨てられるのかな?とにかく頭蓋骨とか、なんとなく人間であったことを思い出せるような部分も、納骨には必要ないから残しておけない(頭蓋骨を残しておいて故人を偲ぶというのもあまり馴染みがないことではあるが……)。

祖父の葬式は、全ての過程に参加した。そして、亡くなった人と別れる作業ってこういうものなのかと思った。大きくなってから体験した葬式は、悲しみもあったけど、「別れ」の感情をきれいに整理してくれるものなんだなという驚きのほうが強かった。なるほど儀式とはこういうものか……という驚き。でも、儀式を通してでも浮かばれない気持ちというのはある。亡くなるまでに、もっとこうしておけばよかった、とかそういう気持ち。老衰とかで亡くなったなら、仕方ないと思えるのかもしれないが、わたしが今までに体験した「死」は、全て病気が原因だし、祖母に至っては薬害によるものである。

これ以上、母に「どうしようもない気持ちを残す死」というものを体験させたくないな、と思った。わたしが死ぬとしたら、病気によるバグ=尋常じゃない死にたさが原因になると思う。別に誰かが悪いわけではない。病気になっちゃったのが悪い、しかも運が悪いという話なのだが、わたしが死んだら、母は自分を責めるのではないかと思う。母は悪くないんだけど、という遺書を残したところで責めると思う。
あと、死に方にも迷いが出てきた。勢いで死のうとして、失敗して、祖父のときのように生死を母に託すようなことになったら、申し訳なさ過ぎてわたしが浮かばれない。あと線路への飛び込みとか、肉体の原型が残らないような死に方も、「儀式」がスムーズに進まなくなるからやめておきたい。
双極性障害って治らない病気だし、今も別に元気なわけでもなく、こんな辛気臭い文章を泣きながら打ってる時点でまあ結構やばい状態なのだが、死にはしないでおこうと思う。治らないだろうな、と思っても、口にはしない。

「希望」はあるのだ。
と、母が言うからわたしもそう思っておいている。祖母がかかっていた病気、C型肝炎だが、あのあと薬害訴訟が起き、被害者側が勝訴した。謝罪もなされ、賠償金も請求すれば支払われた。そして今ではもう、不治の病ではない。
母は、「おばあちゃんがもう少し長生き出来ていたら、治せていたかもしれないね。医療の進歩はすごいね。あなたの病気も、もう少ししたら治せるようになるかもね」と言う。なのでわたしは、死にたくなっても、「もう少し長生きする」ことを頑張るようにしている。
そして、せめて、わたしが母に見送られる側になるのではなく、わたしが母を見送る側になりたいと思う。

正直、現状は甘くない。
今も死にたいし、今後お金とかどうすんの?って思う。セクシャリティのことは母には話してないから、最近結婚に対する圧が強い。ぶっちゃけ母としては見送られたいとかよりも、わたしが早く結婚して孫が抱ければ思い残すことはないくらいに思ってそうではある。でもごめんよそれは出来ないのだ。
親不孝を重ねに重ねまくったわたしが、今のところ出来るのは「死なない」ことぐらいなのかな?まだもっと頑張れるところはある気もするけど、ちょっと今はそっとしておいてほしい。

ちなみに、今まで分かりやすく自分を傷つけるような自傷はしていない(過食とかドタキャンとか地味に自分が削られていくタイプの自傷をしている)。自殺未遂もしたことない。
でも別にこの文章は自傷や未遂を非難したり責めるものではないことをご了承いただきたい。
わたしも「死」、もしくは鮮やかな「生」に憧れてはいるのだ。自傷をする人の気持ちが分かる、なんてことは言えないが、惹かれる気持ちはわたしにもある。ただ血が嫌いなので、まじで血が無理なので切り刻む系のことができないだけです。

祖母が亡くなった時、わたしは何度も母に、「人が生きる意味がわからない」と言ったらしい。落ち込んでいる母にとってはきつい言葉だったろうな、と反省しているが、それはさておき、その問いかけの答えとしていつも返ってきたのは、「おばあちゃんは、幸せを見つけるために人は生きるんだといつも言っていたよ」だった。
小さい時は意味が分からなかったし、正直今でもよく分かっていない。むしろ健康だったときより、祖母と同じように、病気になってからもっと訳が分からなくなった。
「幸せ」ってなんだろう。そもそも今ぜんぜん幸せじゃないんですけど?楽しいことはあるし、嬉しいこともある。しかし、人生を総合的に見てみた時、今のところはまだ健康であった時間のほうが長いにもかかわらず、幸せか幸せでないかと言われたら、うーん、幸せとは言えない……恵まれてはいるのかもしれないけど。
祖母は、何に「幸せ」を見出していたのだろう。



「幸せ」とか、「生きる」とか「死ぬ」とか、そういうものの本質(?)はいまだ分かっていない。わたしが未熟だからだろうか。とにかく「生きて」いれば分かるときが来るかもしれない。分かるまでに死んだら、分からないままだろうから、まあ分かるまでは生きるか……という気分である。
自殺もしようとは思わないが、自殺についての考え方が最近少し変わったように思う。前は、「みんなが困るから」自殺をしない、という「みんな」重視の考え方だった。でも、自殺をする人って、究極に、かつ極端に言えば、「自分」をとても大切にしている人なのかもしれない。「みんな」と「自分」をはかりにかけたときに、自分の苦しみを無視したりしない人もいるんだろうな、と。わたしはまだ「自分」と「母」をはかりにかけたら、母のほうが重いので、死なないというだけかもしれない。母がどう思っているかは関係なく、わたしが「母」という存在を重りにしているだけのことなんだけど。自分が自分に勝手にかけた縛りである。

そしてその縛りを自分にかけたのは、祖父が亡くなった時。まあ大体10年前であるから、実はうつだと診断されたときと同時期なのである。

おどろくほどの「死にたい」気持ちと、幼い頃から持ち続けていた「死なないでおこう」という気持ち。この2つがせめぎ合って、10年経った。今わたしは、生きている。せめぎ合いはこれからも続くだろう。「死にたい」と「死なない」は逆方向を向いているけど、結局は生死にまつわる苦しみを伴っている。そのせめぎ合いによって、更なる苦しみが生まれているのも事実だ。10年経った今、一番しんどいのは、実は「せめぎ合い」から生まれる諸々の感情であったりする。生きていればいい時期は終わった。死なないでいればいい時期も終わった。大人として、社会で生きていかなければならない時が、目前に迫っている。というか普通は多分もっと早くに「社会人」になっていなければならなかったのだろうが、まあそこは大目に見てほしい。人と比べても仕方ない。わたしの中で、「せめぎ合い」を抱えたまま、社会に出なければならない時が来た、ということなのだと思う。「母」という存在も、わたしが大人になるにつれ、非常に社会性を持った存在になった気がする。だから多分、自立して、母との距離をちゃんと考えないと、「母より先には死なない」という縛りがあまり意味のないものになるだろう。
別に生きていくための方法が、その縛りに縛られることだけではないと思うし、もっと自由に生きることを前向きに考える方法があるならそれを見つけたい。そのためにはやはり、外に出ないといけないのかもしれない。

非常に面倒くさい。今わたしは家から出ることが出来ないレベルで体調が悪いので、もう家から出るとか自立とか考えただけでも死にたい。でもせめぎ合いに苦しむことにも飽きてきた。なんか打開したい。死ぬこと以外の方法で。

ぼんやりそんなことを考えていたら、今年ももうあと2ヶ月ほどになっていた。時が過ぎるのは早い。わたしはまた来年歳をとる。母もとる。父もとる。なんか最近肌がカスカスである。母の手も、ハリがない。みんな老いたな……

そうやって歳を重ねて、母を見送った時、分かることもあるのだろう。自分が見送られる側になったときに、分かることもあるのだろう。

でも今はまだわからない。分からなくてもいいのかもしれないけど。人間死ぬのは一回だけだ。泣いても笑っても一回。
できたら平和に死にたいね。



オチはあるのかって?
そんなものはない。あったらこんなにぐちゃぐちゃ考えてなんかないよパターンの話だ。
この文章、泣きながら5日くらいかけて書いたものなのに、本当にオチもまとまりもない。でも多分これが今のわたしの死生観であり、その先が見えないというところにわたしの思考の限界が見えているのだと思ったから書くことにした。ハムちゃんのくだりは自分で書いておきながら、何回読んでも泣ける。
今は体調が悪いので厳しいけど、少しましになったら、バイトをしたり、本を読んだり、もう少し気軽に人と遊んだりしたいと思う。そんなことすら出来ないくらい、わたしは今何も出来ない。

何も出来ないけど、「死なない」ということだけはきちんとやっている。しょうもないことだと思われるかな?

でも、それがわたしに出来る最大限の頑張りで、未来につながる、「希望」になることを祈っている。



(追記)
バイトをしたり〜というくだりをなんの説明もなく書いてしまったが、ここでわたしにとって重要なのは、「一般人と同じことをする」ことではなく、「自分の体験に基づいて想像力を磨いていく」ことである。死にたくなる時、わたしは本当に追い込まれている。死ぬしか解決法がないのだと思い込んで、苦しみながら涙を流し、わたしが死ねそうなものが置いてある場所に行ってしまわないよう、足を抱えて布団に潜り込む……という行動以外を、死にたくなったときに思いつければいいのでは?と思ったのだ。いまのわたしは、幸せとは一体何なのか「想像がつかない」、これからどう生きていくかのビジョンが「想像がつかない」、もしまた誰かが死んだときにどう対処するのか「想像がつかない」、というないない尽くしで生きている。そりゃ不安になるだろとは思った。将来の見当がつかないのに、目標を立てたり準備したりなんてことは無理。将来に明るい何かがあると思うことすら出来なければ無理。むりむり。
なので、あくまで「想像力」を養いたいという話である。人の話を聞いたり、昔の思想を学んだり、世の中の理不尽に怒ってみたり、そういうことが今必要なのかなと思った。