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BL、生活、その他いろいろ

「変な子」と呼ばれていた頃

わたしは昔、「変な子」と呼ばれていた。今も言われるけど、昔はもっと言われていた。特に幼稚園〜中学校の間わたしはとても「変な子」だった。

なんでこんなことを思い出したかというと、小学校から高校まで同じ学校に通っていた、Tちゃんの夢を見たからである。彼女は、可愛くて、運動ができて、勉強もできる、いわゆるスクールカースト上位の女の子だった。彼女は、わたしがAB型であるということから、わたしのことを「天才と変人って紙一重だよね」とからかってきた一人だった(当時、血液型で性格を占うのが流行っており、AB型は天才型、もしくは変人と言われていた)。でも、わたしはその子にいじめられてたわけじゃなかった。むしろ、「変人」として疎外されたり、バカにされたりしていたわたしに対して、すごくフラットに接してくれていた。なのでわたしはその子のことが好きだった(余談だけど、実はその子もAB型だった)。

AB型だから、といってからかわれていた時期は長かったけど、思い返してみると、というか当時から薄々気付いてたけど、わたしが周囲から「変な子」と言われていた原因は、わたしがAB型だからではない。AB型だから変だという理屈で疎外されていたなら、Tちゃんも疎外されていたはずだが、彼女は前述の通り、常にスクールカーストの上位にいた。では、なにが原因だったのかというと、多分、「周りの子と共通点がなさすぎる」という部分が大きかったと思う。家庭環境とか、流行してるコンテンツについて話せるかとか、そういうことも重要だったと思うけど、そういうのはある程度「人それぞれだよね」みたいなところがあったし、実際、観察してても、あんまりみんなの間に共通する趣味みたいなものはなかったので、そういう話ではない。もしそういうことが重要なら、家のことについてはあんまり話さないとか、テレビを見て流行りを勉強するとか、そういう対策がとれたんだけど、そう簡単にはいかなかった。

みんなが共通して持っていたもの、それは、「どんな人が変人か」という価値観だった。わたしはそれが分かっていなかったから、「変人」と呼ばれていた。そして、誰かを「変人」だとからかうこともできなかったから(だってどんな人が変人か分からない)、「変人」から抜け出して、「みんな」と一緒になることができなかった。のだと思う。

思い返してみれば、「しおりちゃんって変!!」って周りがひときわ盛り上がる時って、わたしが「なんで今わたしが変って言われたのか分からないんだけど……」と言ったときであった。「どこが変か分からないところが真の変人なんだよ」というクラスメイトたちの言葉は今も胸に残っている。

中学校にあがると、「変な子」はいじめの対象になったので、ちょっと工夫して過ごしていた。いわゆる「ピエロ」を演じていたのである。あまり楽しくない話だからここでは触れないでおく。

でも、結局中学校でも「変な子」と言われるロジックは変わってなくて、「変な子」と言う側になるか/言われる側になるかというところが大切であったのだと思う。中学校にあがってすぐの頃、わたしが既に「変な子」であることを知らないグループの子たちから、「ねえ、○○ちゃんって、『変』だよね?」と、「言う側」になるチャンス(?)をもらったことがあるのだが、その時のわたしはこのロジックには気づけていなかったし、やっぱり誰が「変」なのか(誰のことなら「変」だと言っていいのか)の判断も付かなかったので、自分の価値観で、「いや別に変とは思わないけど……」と言っちゃって、そのグループからめちゃくちゃシカトされることになった。ちなみにわたしをジャッジする踏み絵にされてた子は、わたしを「変わっている」と言ったらしいので、シカトされることはなく、そのグループの一員となることが許されたようだった。なんでやねん。

まあそんなかんじでいじめを経験し、「ピエロ」になる方法も身に着け、なんとなく生き延びてきたけど、実は未だに「変な子」と「そうじゃない子」の区別はつかない。


「好き/嫌い」はとてもはっきりしている性格だし、「わたしと同じ/似てる/違う」「わたしと考え方が同じ/違う」というところもけっこうびしっと決めてしまうタイプなのだが、どーーーーーしても「変/普通」の区別がつかない。

そもそも自分が「変/普通」なのかわからないのに、他の人のことをジャッジすることなんてできない。「わたしから見たら変な人だと思うけど、おそらく『変』だと判断する側の前提として『普通である』ことが求められているだろうから、自分が変か普通かわからない状態で他人をジャッジできない」「そもそも人を変と普通の2つに分けて接しようという考えが変なのでは?」「……という考え方は変なのか普通なのか?そもそも普通とは何なのか???」

ずっとぐるぐる考えていることだが、まあ答えは出ない。

でも幼稚園の頃に比べたら「変」の度合いは下がってきているのではないだろうかと思う。中学校のときに仲良くしていた子が、わたしが「変」なことをしたとき、「今の△△で変だった」と個別具体的にわたしの変なところを指摘してくれたので、その部分に関しては改善してある。ただしその友人も「普通」なのか「変」なのかと問われれば、正直分からない。でも、小学校のときのように、「変だ〜!」というだけ言っておいて、どこが変なのか教えてくれないまま放置され、悶々とすることがなかった分、その友達には感謝している。

そんなわけで、「変人であること」もしくは「『変』っていうのが何か分からないこと」は1つのコンプレックスというか、社会に混じって生きていく上でわりと問題ではあったのだが、別に悪い面だけではなかったんだよという話をして終わろうと思う。

類は友を呼ぶ。
今のわたしには、おそらく「普通」の友達はいない。だけど、とても楽しく生きているし、お互いがお互いを「変だね」と思っているから、赦し合えるし、受け入れることもできるし、まだ見ぬ「変」を探しに行こう、世界は広い!という気持ちになれるのである。

だからわたしは「変」でよかったのかもしれない。