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BL、生活、その他いろいろ

何もないところで「着飾る」のは難しい

とある記事を読んだ。自分のために着飾ることに関する、とてもエンパワメントされるいい記事だったと思う。

ただ、着飾るためのものが「手に届くところにある」のと、「まったくなにもない」状態とでは、同じような心境に至れるまでに大分違う道を辿るだろうな、と、所謂「都市部と地方の差」問題みたいなものをかんじてしまった。


田舎にはデパートもなければ素敵な古着屋とかもほぼないので、イオンやしまむらで(子供の頃なら西松屋で)同級生とかぶらないようにというそれだけを気にして洋服を買っていた。それでも被るときは被るし、UNIQLOやGUで買い物をすれば絶対被る。というかUNIQLOが近くにあるだけでありがたいことだから、もはやそこは諦めねばならない。

おしゃれな子はおしゃれだが、そういう子は親がファッション(というか子の持ち物)に気を配れるタイプで、親が県外まで買い物につれていってくれたり、お金も全額だしてくれたり、というパターンが多い。

そんななかで田舎の中流階級以下の子たちが自由に「美意識」というものをもつのは難しい。

「かわいい服がほしい」「靴がほしい」、そう言う度にからかわれたり、バカにされたり拒絶されたりしていれば(しかし小綺麗でいることも求められるので厄介だ)、「着飾る」ことについて内向的にもなる。


服は、自分の好みで選ぶものではないという意識をわたしはずっと捨てられないでいた。体に合うものを探すだけ。周囲にまぎれるために探すだけ。だるいときは親任せ。どちらにせよ選択肢がない。サイズ展開もほぼない。


小さいときからそんな調子であったが、「たくさんある中から選ぶ」ということの楽しさと、「選べる」ということから自尊心が保たれる感覚を知ったのは大学に入って都市部に通うようになってからだ。洋服だけではない。靴下まで選べる。ブラジャーの色柄も選べる!
全部選べるのである。なんと買うものの価格も選べる。すごいことである。


この感覚が分かるだろうか。
いまはネットショッピングもメジャーだが、小さいときには本当に地元で、親が車でつれていってくれる範囲にあるもので、親がお金を出してくれるものしか手に入らなかった。もっと早くから選択肢があったらな、と思う。


正直、最初に言及した記事を読んで思ったのは「選べるって羨ましい」「選べることが羨ましがられることだと気づいてなさそうなのが羨ましい」とかだった。

「何もない」場所に生まれたのはわたしのせいではない。いや、あらゆるものがないわけではない。都会に比べて「豊富にある」ものもある。しかし、「着飾ること」に関しては「ない」と言わざるを得ず、その差を埋めるのは難しい。

わたしも結構いい歳になって、出来ることも増えてきたし、選択肢があることも知っているが、地元でスマホをただ触りながらごろごろして、着飾って自尊心を上げている素敵な女性たちを指をくわえて見ているだけ、ってことしかできないときも、未だにある。

そのとき生まれるのはやっぱり嫉妬心だったり、劣等感だったりする。
記事を読んで、こういう気持ちを抱いたときに、うわーわたしって心が狭い!と思ったんだけど、しばらくこのことについて考えたりした結果、羨む気持ちがわいたのは事実だし、劣等感も刺激された。エンパワメントされた!だけの感想じゃわたしの本心ではないと思ったので、メモとしてブログに残しておこうと思う。どの記事を読んだのかは特に記すことはしない。ただ、「選ぶことのたのしさ」や「自由」をあたりまえに得られる場所がある一方で、「何もない」「選べない」場所というのは息苦しくつまらなく不満も多い場所もあるということが言いたかったのと、知ってもらいたかった。