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BL、生活、その他いろいろ

さよなら、界隈

先日、大学のときにセクシャルマイノリティ同士だということで知り合い、卒業するまでそこそこ付き合いのあった人と久し振りに連絡を取って、話をすることになった。

3年ぶりくらいに話したので、「こんにちは、久し振り。体調どう?」なんていう至極平凡な挨拶から始まり、至極平凡に会話は終わった。

お互いに、「めっちゃ丸くなったね」と言いながら。



わたしとその人が出会ったとき、その人は見た目で性別も年齢も分からなかった。わたしが見た目で人の情報を当てるのがすごく苦手であることを差し引いても分からなかった。ゲイが大半を占めるサークルにいたので、男性かと思ったけど、当時のその人は「FtX」だった。あとパンセクシャル(これはあとから聞いた)。わたしの当時の自認は「アセクシャル」もしくは「レズビアン」、または「男性嫌悪」であった。見た目は、人生のなかで一番フェミニンな時期だったから、わたしとその人は全然仲良くなれそうにないな、とわたしも、周りも思っていた。


しかし諸々あって付き合いが始まり、話をしてみると、とても楽しい相手だった。その人は自分のセクシュアリティに興味があり、本格的に調べていたし、わたしも「アセクシャル」として色々と活動をし始めた頃だったから、話題はもっぱらセクシュアリティのことだった。XとAce、全く違うようでいて、共通点がいくつか見付かった。それは、「自分を困らせるものを『あって当然のもの』だとしない限り、自分がどういう人間なのか、自分が何に困っていて、何に疑問を持っているかを話せない」というところだった。例えばその人は「男女二元論」が嫌いで仕方ないのに、Xの説明をするときには「男でも女でもない」という言い方をしなければならないことに悩んでいた。また、「自分のセクシュアリティを説明したところで、『主張』や『世間への要望』が出て来づらい」とか「完全に典型的な○○ではないから下手に名乗ると嘘つき呼ばわりされる」とかいう話もした。こちらの例としては、「『同性婚を認めて』とか、『愛は平等』とか、運動の目標が決めづらくキャッチコピーも作るのが難しい」「Xといっても、男性と付き合えば『やっぱりヘテロじゃん』と言われる」などが挙げられる。


出会ったとき、サークルのリーダーは積極的に活動するシスジェンダーのゲイで、その人の知り合いのゲイや活動家と話すことも多かったが、「特に主張がない」わたしたちは、なんとなくしらけた気持ちでいたのだと思う。

「わたしたち」というと大きな括りだが、先日の会話でこの言葉を使用したときに、「いや、分かるよ、いいよ」と言われたので、「わたしとあなた」という意味の「わたしたち」は、確かに存在したのだなあと思った。

しかし「わたしたち」はあまり知られていない存在で、知られていない存在同士の組み合わせで、どこに行っても説明を求められた。それってダルいし、「わたしたち」は結局は違うセクシュアリティだから、友だち作りや「自分作り」は専ら各自の「界隈」でやっていたのだった。



ところで、「界隈」とは何か、という話を挟まずに話を進めるのはなあ、と思うのでちょっと寄り道するが、「界隈」とは、辞書的には「あの辺」と地理的な場所を示す言葉である。しかしネットなどでは「属性」を示す言葉らしい。
例えば「セクマイ界隈」とかって言うと、「セクシャルマイノリティである人たちを示す」言葉となり、ときには「セクシャルマイノリティの人たちの集まり、コミュニティ」をみたいな意味で使う。と、理解して使ってきたので、ここでもそんなような意味で使う。



話を戻すと、「わたしたち」は、それぞれ「トランスジェンダー界隈」「Xジェンダー界隈」や、「アセクシャル界隈」「異性嫌悪界隈」「フェミニズム界隈」など、自分の属性と同じ属性を持つ人たちのゆるいコミュニティ、すなわち「界隈」に参加して、自己の属性を表す肩書きみたいなものを固めていたのだと思う。どう表現すればいいか分からないが、「界隈」特有の匂いというものがある。雰囲気といった方がしっくりくるだろうか。使用する言語や、ものの見方が「この人あの界隈っぽいな」ということをふんわり知らせてくる、何かがある。「界隈」に長く居れば居るほど、顕著になるあれ。

例に漏れず、わたしとその人も、「わたしたち」という括りでありながら、違う匂いを漂わせていて、その匂いが強くなってるときに、「ねえ今『そっち界隈』どうなってんの?」とか聞くと面白い話が聞けたりした。そうやって、「わたしたち」は「こっちの界隈」には今こんな話題があるよとか、こんな人がいるから会ってみる?とか言いながら、お互いの「界隈」を覗きあって過ごしてきたのである。



しかしそのひととの連絡は、大学を卒業してから途絶えた。会おう、という連絡はたまにしていたが、結局約束はお流れになってしまうとか、色々あって、会えないままいて、3年。いろんな人の安否が心配なこの頃、連絡を取ったらちゃんと返事が返ってきて、よかった、安心、じゃあ喋ろう、ってことになった。


そして卒業してから今までのことをつらつらと話したのであるが、そこには「わたしたち」という意識はあまりなかった。そして、「界隈」の匂いも消えていた。

聞いてみると、大学に居たときほど「界隈」に顔を出していないらしい。わたしもそうなので、今は自分が「界隈の人と比べてどうなのか」ということがあまり自分で分かっていない状態であった。

こう書くと、「わたしたち」はぼんやりとした存在になってしまったように思えるかもしれない。

でも実際はちょっと違う。

ぼんやりとしたところは、確かにぼんやりした。その部分というのは「界隈」で身に付ける価値観、言葉の使い方、仕草などである。そこはぼんやりとしてしまった。しかし、その価値観などは消えたのではなく、「自分」と融合していったのだ。

今まで、「家での自分」「この界隈での自分」「あちらの界隈での自分」といったように、ある程度の仕切りが存在していたのだと思う。
抽象的で申し訳ないが、「界隈」をプールみたいなものだと想像してほしい。「○○界隈」に行って仲間入りしたければ、プールまでいって、よろしくー!と言いながらそのプール特有の手続きを経て入水する。そして、自分と似たような人と、同じプールでぷかぷか漂って、触れたり離れたりしつつ、「界隈」で過ごす。「△△界隈」に行きたければ、またそちらへ行って、手続きを経てプールでぷかぷかする。たまに、「あっ、先ほどあちらの界隈でもお会いしましたね」とか言う人にも出会いつつ、ぷかぷかと浮かんで流れる。「界隈」に浸され、その匂いをまとう人間になる。


けど、今のわたしたちはほとんどプールには行っていない。生活の軸を、プールには置かなくなった。乾いた地面に足をつけて生きている。

その理由は、界隈に行く暇がなくなった、「生活」のなかで、セクシャルマイノリティである部分がウエイトを占めなくなった、とかそんな感じである。


「生活」とは、一つのことに集中できない暮らしだな、と思う。色んなことが並行して起きていって、何を優先的にやるのか、考えないといけない。手の届かないものも出てくる。
そういう「生活」と、「界隈」というのは相反する部分も多いのだと思う。「界隈」とは、「みんな」である。「生活」は、「自分」だ、という気がする。

「自分はどのような人間か」「今の自分は自由なのか」。そういったことをしっかり見つめて、考えないと、「生活」で優先すべきことが分からない。「みんな」が言うことに従っていたら幸せになれるような、そういう括りで生きていける時期が終わってしまったのだと思う。「界隈」が悪いというわけではない。「界隈」での「みんな」との経験を経て、「自分」を把握し、「規則(みんな)」と「自由(自分が出来ること)」の差を理解して、「自分の生活」に必要なものはなんなのか、を考える。

「みんな」と生きていける時間って、限られている。働くようになったりして、いわゆる「社会」に出たら色んな人がいるってことが分かるし、その人たちとも多かれ少なかれ付き合っていくことが求められる。そんな「社会」では、「みんな」は存在しない(実際は存在しなくもないけど、存在することに無批判だと、なんかきな臭くなってくる気がするのでここでは理想として「ない」ということにしておく)から、「自分」をちゃんと作り上げておかないと、プールなんかとは比にならない、大きな波に飲まれてどこかに行ってしまうのだと思う。ぷかぷか、ではすまない。気付いたら、ここどこ状態である。


それが分かってきたから、わたしたちは「界隈」からでて、「自分」を捉えに行ったのだろう。


わたしたちは、まだ「わたしたち」と言える仲だ。それはそれで嬉しい。しかし、その人とわたしはもう「わたしたち」でないところも多いし、「界隈」の人でもなくなった。「わたし」と「その人」の2人で話すことは、とても楽しい。あの頃、わたしとその人を隔てていた膜はどこかへ行き、全てがつながり、混ざり、だけど「あなたとわたしは違う」「生活」を送る人間同士になった。



ふーむなかなか悪くないですね。
「界隈」に助けられて生きてきた「わたしたち」が、「わたし」と「あなた」になって、生きていく。



さよなら、界隈。
もう、自分で立ってどこにでも行ける。
「みんな」と溶け合って出来た「自分たち」が、集まって溶け合って、混ざって、1つの「自分」になる。
そうして、「生活」していく。



「生活は人をつまらなくさせる」。
他人を楽しませることより、「自分」がどう善く生きるかを考えるようになるだけじゃないかな。
「自分」がしっかり出来上がった他人と話すのも、楽しいよ。

だから、さよなら。