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BL、生活、その他いろいろ

「オープン」な社会ってどういうことだろう

  

r25.jp

 

 こういう記事を読んだ。今までであれば利用できなかった制度や、働きづらかった環境が、企業の取組によって「LGBT」でも利用できるようになってきた、という記事である。たしかに最近、LGBT向けの制度やプランが出てきているなという感じはしていて、よいことだと思う。

 

 でもこれを読んだ時の一番の感想は、ちょっと待って、「オープン」な社会ってなんだろう。なにが「オープン」なんだろう、というもので、私はすごくもやっとした。

 

 今まで、異性愛者たちの世界からLGBTを排除し、区別するように閉ざされていた扉を「オープン」してもらうのだろうか。

 それとも、LGBTであることを「オープン」しても異性愛者と同じように扱ってくれるようになるってことなんだろうか。

 

 どっちにたって失礼な話ではないか、だって結局異性愛者中心であることは変わりない。前者の意味での「オープン」であれば、異性愛者からの理解によって、今まで異性愛者が閉ざしてきた扉を開けてあげるよ、ってことにならないだろうか。そうであれば、その扉を閉ざしてきたのは異性愛者の方じゃないか、と思う。LGBTが入れてって主張しても、なかなかその扉を空けなかったのは異性愛者だ。なのにいきなりいい人みたいな顔して「オープンな社会に」とか言っちゃって、それってなんかむかつく!とわたしは思った。感情的すぎって言われるかもしれないけど、こんなの上から目線じゃない?ってすごくいらっとした。

 後者の意味での「オープン」であっても、このいらっとした気持ちは変わらない。今の社会では、黙っていれば「異性愛者」とみなされる。異性愛者は、特別名乗らなくても「異性愛者」として扱ってもらえるし、異性愛者のための制度も使える。でも、LGBTは、わざわざセクシュアリティを「オープン」にしなければ、LGBTとして扱ってもらえないし、制度も使えない。そんなの、なんというか、ずるい!結局社会の中心、メインストリームは異性愛者のままだ。

 

 「オープン」というのは、どういう意味なんだろうか。誰が何をオープンするんだろう。どちらか一方が「オープン」するだけなら、今の不公平な社会構造、権力構造は変わらないままだ。少数者は少数者として生きていかなければならないんじゃない?

 現状、このような動きが出てきたことは喜ばしいことではある。しかし、こんな「オープン」な社会に満足できるはずはない。こうやって、異性愛者からの「恩恵」を受けて生きていかなければならないんだろうか。いや、これらの動きを「理解」が進んでいるということも出来るのは分かっているし、実際そうなんだとおもう。これらの制度が充実することによって、LGBTが社会に出ていくためのハードルが下がること、それによってさらなる理解が進むんだろうな、とも思っている。だけど、わたしはそのことをプラスの意味で読み取ることは出来なかった。やっぱりもやっとする。「オープン」ってなんなんだろうって。

 

 個人的な話だが、わたしは、周囲の人にカミングアウトする気はない。カミングアウトして、どうなりたいか決まらないからだ。「LGBTのみなさんは、どのような社会を望みますか?」「こういう制度があればいいなと思うことを教えて下さい」と言われても、なにも思いつかない。同性婚が出来るようになってもわたしには関係ない。パートナーに保険がおりたり、公的扶助が受けられるような制度ができても、わたしには関係ない。欲しいのは制度ではない。「どう生きてもいいよ」という合意のある社会に生きたい。それは異性愛者でも性的少数者でもかわりなく、「どうあっても人それぞれだ」「それなりに幸せに生きていける」社会がほしい。そのために必要になってくる制度もあるだろう。しかし、対象も効果も限定的になるような、異性愛者中心の「オープン」な社会はいらない。それは、あらたな区別を作るだけではないか。「オープン」な社会は、何を変えていくのだろうか。誰がどうなるためのものなんだろうか。わたしはこの「オープンな社会」というのを、素直に受け取って喜ぶことは出来ない。

 

 あと、LGBT(性的マイノリティー)って言ったって、LとGとBとTしか含んでないやつばっかりじゃないかよと、いつものごとく思うのであった。