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BL、生活、その他いろいろ

セクシュアリティのゆらぎとわたし

 わたしはいま、アセクシャルを名乗っています。

 だけど、実は自分が「アセクシャルであることに確信は持っていません。「アセクシャルだと言い切ることはできません。ただわたしのセクシュアリティを表すときに一番近いから、アセクシャルを名乗っています。そしてそのことに違和感や罪悪感はあんまり持っていません。

 なぜ自分を「アセクシャル」だと言い切れないかというと、わたしのセクシュアリティには「ゆらぎ」があるからです。なのになぜアセクシャルだと名乗ることに違和感がないかというとセクシュアリティに「ロールモデル」を求めていないからです。

 

 長くなりますが、わたしが今の自認に至るまでのプロセスは以下のようなものです。
 わたしは、中学生までは、自分を異性愛者だと思って生きていました。まず異性愛者以外のセクシュアリティを知らなかったということもありますが、男の子を好きになっていたし、それに疑問を持ったこともありませんでした。ただ、女の子のことも好きで、一番親しい女友達とは結婚したいと思っていました。そう思うことが「変わっている」、と知ったのは、中学を卒業するときでした。友人に指摘されたのです。でも、それを知っても、わたしは自分が異性愛者であると思うことに全く疑問を持ちませんでした。

 「おかしい」と思うようになったのは、高校を卒業した辺りでした。高校在学中、わたしは男性を好きにならなかったんです。でもそれは、そのときうつ病の治療中だったんですけど、そのせいで高校での三年間自分の体調のことで精一杯だったから、恋愛なんてしていられなかったからじゃない?元気になったらきっと恋人とか作ったりするでしょ。そう思っていたのですが、高校を卒業して、浪人していたとき、わたしは恋愛をしないどころか、男性のことをとても嫌に感じている、ということに気づきました。男性がいやだ、全然好きじゃない。そのころ、わたしは人生で初めて変質者っぽい男性に遭遇して怯えていたので、それが原因で男性嫌いになったのではないか、ということも考えました。でも、男性みんなが変質者なわけないし、この男性やあの男性はとてもいい人なんだから、嫌に思うなんて失礼でしょと、自分に言い聞かせてもどうにもなりませんでした。男性がいやでいやで仕方がなかった。このころから、自分は「普通じゃない」のではないかと考え始めたのです。

 そして、「男性嫌悪」「レズビアン」「アセクシャルという単語を知ったのも、ちょうどこの頃でした。

 

 混乱しました。わたしは一体なんなんだろう、中学生までは男の子が好きだったのに、いまじゃ男性のすべてがこわいし嫌だ。ぎりぎり二次性徴以前の男の子なら怖くない、だったらわたしはショタコンなの?いやいや、男性と付き合ったことがないから分からないだけで、ほんとは異性愛者かも、でも中学のとき女友達と結婚したかった、じゃあわたしはレズビアン?恋愛しないのも、病気の治療に手一杯で、自分以外の人間に目が向けられないだけじゃない?イケメンが好きすぎて一般男性の顔ではぴんとこないだけかも、とかいろいろ。

 浪人時代から大学二回生くらいまで悩んで、悩んでもわからなくて、一人のままでは解決できないと思って、セクシャルマイノリティ当事者のサークルに入ることにしました。そこで他のセクシャルマイノリティの人と比較したり色々あって、わたしは男性嫌いなんだ、ということは分かりました。ジェンダーロールに強烈な違和感と憎しみを持っていたことにも気づきました。それから、やっぱり恋愛に興味がないことにも気づきました。超どうでもいい。したいと思わない。それは分かった。

  じゃあわたしは「アセクシャル」を名乗るべきなのか?サークルに入ったことで、自分のセクシュアリティについて名乗ったり、説明したりする機会が多くなったんです。わたしは他の人にどういう風に捉えられたいんだろう。自分のことをどう説明すればいいんだろう。他の人は自分のセクシュアリティについてはっきりしていて、堂々と名乗っている中で、わたしはどういうセクシュアリティを持つ人間としてその場にいるべきなんだろう。

 

 それについて、かなり悩みました。最終的にそのサークルのなかで、わたしはクエスチョニングです、ではなく、「アセクシャル」です、と名乗るようになりました。恋愛をしない、性的欲求が他人に向かないという部分では「アセクシャル」なんだろうな。なのでその部分については「アセクシャル」だと言ってもよいだろうし、他人から見ても分かりやすいだろう。

 だけどわたしのパーソナリティは、「アセクシャル」っぽくないみたいなんですよね。わたしが恋愛やセックスのある作品が見られないことや、やっぱり女性の方が好きなこと、性嫌悪はないこと、BL(性的な表現を含む作品)は読めること、イケメン海外俳優がすきなこと、女性アイドルが好きなことを、「アセクシャル」であることと相反するものだと捕らえる人もいます。「それって『アセクシャル』じゃないんじゃない?」とか「恋愛したことないだけかも」「変わってるね」「よく分からない」と言われたりします(今も言われます)。

 

 わたしは「アセクシャルじゃないのかも。他の人からみても「アセクシャルじゃないのかも。「アセクシャル」だと名乗っている間も、わたしは「アセクシャルってなんだろう」「アセクシャルを名乗るべきなのか」「アセクシャルの条件を満たしてないのではないか」ということを考えていました。

 そうやってずーっと悩んで、そして出た答えは、「セクシュアリティって人それぞれで違うに決まってるのに、限られたいくつかの名前で区別するなんて無理だよね」ということと、「セクシュアリティって変化したり、ゆらいだりするものなんだ」「『アセクシャル』という枠にきっちりはまれなくてもいいんだ」ということです。同じアセクシャルであっても、その中には色んなアセクシャルがいるはず。わたしはわたしとしてアセクシャルだと名乗っていこう。自信をもって、それで大丈夫。分かりやすい「アセクシャル」である必要はない。自分が、アセクシャルだと思ったなら、アセクシャルを名乗っていい。あるべき「アセクシャル」として振る舞う必要もないし、アセクシャルな部分も持つわたし、として色々お話したり、人と出会ったりすればいい。

 分からないところは分からないままでいいです。典型的な「アセクシャル」になる必要もない。周りの人になんと言われようと、わたしはわたしなので、「あるべき」セクシュアリティを求める必要もないし、他の人から勝手に求められてもこまります。

 

 自認っていうくらいだから、自分で自分がなんなのかを認めてあげればそれでいい。なんとなくでも、アセクシャルという言葉がしっくりくるなら、使えばいい。しっくりこないなら無理に「アセクシャル」という枠にはまらなくても大丈夫。セクシュアリティロールモデルなんてないし、必要ない。違和感があれば、またそのとき考えよう。そのときに合ったわたしであること、それを大事にしたい。変わりゆく自分を、そのまま認めて、必要なら名前をつけてあげたり、言葉で説明してみたりしたらいい。

今はそんな風に思います。
 ていうかマイノリティって言ってんのにそこに典型的マジョリティを求めないでくれる?性はグラデーションとか建前かよ~そんなだからもうめんどくさいし「アセクシャル」だとしか言わないわ、まあ好きに思ってくれていいですけど~みたいな、きれ気味な気持ちもありつつ頑固にアセクシャルを名乗ってるって面もありますけど。でもそんなにピリピリしなくても、のんびりアセクシャルとして暮らしたらいいし、ちゃんとわかってくれる人もいるし大丈夫だと、今のわたしは知っています。

 

 ゆらいでてもおっけーって、なんだかすごく大雑把なところに落ち着いてしまいましたが、これでも今に至るまで数年かかりました。○○でなければならない、という考え方から抜け出せなかったんです。アセクシャルってなんなんだろう。恋ってなに?愛ってなに?悩みだすと長い。しかもその答えは一つじゃない。多分正解もないです。アセクシャルになった原因とかあるのかな、わたしはおかしいのかな、とかネガティブな気持ちになる時も未だにあります。

 

 アセクシャルかも、という人とお話するとき、クエスチョニングなんです、アセクとノンセクの間で迷っていて、でも自分にはアセクシャルっぽくないこういう性質もあるから、自分がどちらなのか分からない、アセクとかノンセクとかって名乗る資格がないかもしれない、というような悩みを持っている人に、結構出会ったりします。

そういうのを聞くと、「セクシャルマイノリティ」ってハードル高いんだなって思うんです。ロールモデルに当てはまらなければセクシャルマイノリティ当事者として名乗る「資格」がない。当事者とそれ以外を分け隔てる壁が厚い。同じセクシャルマイノリティでも、その種類を分ける壁は厚い。ゆらぎを、許さない人もいます。例えば、アセクシャルと名乗っているのに恋人作って結婚したな、バイセクシャルって言ったのに結局異性と付き合ってるんだ、この裏切り者って言われることだってあります。でもそんなこと言われたって困るし、傷つきます。誰かを「裏切らない」ように、わたしはずーっと「アセクシャル」のままでいなければ、その枠からでないように生きていかなければいけないのでしょうか。それはいやだなあ

 

 ゆらぎがある、という選択肢もあるんじゃないかなと、わたしは思うんです。それは裏切りでも何でもなく、自分が自分のことをどう捉えるか、人生をどうやって歩んでいくかということだと思うんです。

 ゆらぎがあるという考え方がもっと広まれば、ちょっと気が楽になる人がいるんじゃないかな、とも思います。そして、ロールモデルなんてないし、そういう壁や枠を作らないで欲しいということも思ったりします。

 

 

 自分が感じたまま自分を表してみて、しっくり来たらそれでいいと思います。しっくりこなければまたふら~っとしてみたらいいし、新しい、自分を表すものを作ってもいいかも。

そんなかんじでぼんやりアセクシャルとして過ごすのも、悪くないです。オフ会とか楽しいこともして、色んな人と色んなお話をして、分かってくれる人もいて。そうやっていく中で、また自分を見つめなおすということに、苦しさや悲しさを感じることは少なくなりました。

 悩んでる人がいたら、セクシュアリティで迷ってる人がいたら、それは悪いことでもおかしなことでもないし、これこそがセクシャルマイノリティだ、なんて誰かにジャッジされるものでもないんだよって、言えるようになれたらいいなと思うんです。

 わたしみたいにざっくりぼんやりアセクシャルもいるよと伝えられるような、そういう自分でいたいな、というのが今のところの目標です。

  

 追記

少し前に、アセクシャル寄りのクエスチョニングの方から、「しおりさんみたいな人がアセクシャルだと思っていた(恋愛ものの作品が観られない、フェミニンな格好を好む、とか色々)」「わたしはしおりさんとは違うから、アセクシャルじゃないのかもって思ってました」というようなことを言われたんですが、わたしはアセクシャルの「見本」とか「お手本」じゃないんです。ないのに、自分の言動が「アセクシャル」の「見本」として周りの人に捉えられていたということがショックだったし、すごく申し訳ない気持ちになりました。わたしは本当に見本じゃないです。わたしはアセクシャルを名乗っているけど、アセクシャルの中の一人でしかないんです。だけど、わたしを見本にして苦しんでいた人がいた、ということに未だに後悔しているというか、申し訳なくて、だから、わたしはゆらいでいる、ロールモデルはない、と言っていきたいし、言っていかなければならないのかもしれない、と思ったのです。

 

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アセクシャルであることに原因はあるのか問題(仮)

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