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BL、生活、その他いろいろ

「恋いぞこないのサンバ」

 さっき、Twitterで見かけて、読んだ漫画の話です。
タイトルは「恋いぞこないのサンバ」、作者はイシデ電という方です。

ツリー形式で漫画が進むのですが、一番目のページはとてもありきたりな始まりで、あまり期待はしていなかったのですが、「アロマンティック」「アセクシャル」を自認しておられる方で、個人的に信頼している方がリツイートしていたものだし、読んでみようかな……と、9ツイート分の作品を読みました。

言葉に表せられない、わたしは未熟だったからこの表現はできなかった〜〜!!!でも分かる〜〜〜!!!わ!か!る〜〜〜〜!!!!

つらい、つらいがしかしそれは新たな始まり。
世の中ほんとに愛だの恋だのそればかりで、なんかちがう連帯はないの!?!!!?!

みたいな気持ちになった時にまた読もうと思いました。


★こちらがその漫画の始まりになります

https://twitter.com/ishideden/status/1197148932393979905?s=19

(8ツイート目に間違いがあるそうなので、ツリーの最後までご確認ください)

死なないと決めた日

今年でうつ(のちに双極性障害に変更)の診断がおりて、ちょうど10年になる。長いねえ……と感傷に浸り、10年で失ったものを悔やみ、10年で手に入れたものに感謝をすることが多かった年だった。まあつまり、情緒不安定ってやつ。ちょっとしたことで大泣きしていた年だった。

で。
10年前、うつだと診断されてから、死にたいと思わない日はなかった。誇張ではない。起きていれば死にたかった。寝ていれば悪夢を見た。副作用の吐き気で立てなくなったり、トイレにこもってずっと泣いていた日もあった。意識があることがつらかった。一日中夢も見ずに寝ていられるくらいの薬をもらって、朝と夜の2回だけ、飲み物と食べ物を無理やり飲み込んで薬を飲み、また寝る。そんな生活を送っていたときもあった。

でも、わたしは生きている。
正直さっさと死にたかったのだが、わたしは小さい時、わたしの中で決めごとをしたから、死なないでいる。

その決めごととは、「母より先に死なない」である。



母方の祖母は、母を産んだときに大量に血が出てしまったので、輸血(増血剤の投与かも)をし、C型肝炎になった。それからずっと入退院を繰り返し、わたしが6歳の時、肺炎で亡くなった。

わたしは祖母が大好きだった。外孫だし、入院していることも多かったので、あまり会えなかったけど、とても優しかったし、なんでもできる人で、お花の生け方を習ったり、編み物を習ったりした。わたしと弟の幼稚園のカバンは、祖母の手作りの革細工で作られたものだったし、ピアノの発表会に着ていったドレスの胸元のキラキラした刺繍は祖母が病院でちくちくと縫ってくれたものだった。

体調が良いときは祖母は祖父と海外旅行に行くことも多かったそうで、とてもおしゃれな人だったから、写真を見るとわくわくした。

わたしからしてみたら、母方の祖母というのは本当に女神様みたいな、すごい人だった。比べてしまって申し訳ないが、度々ブログでも言及する父方の祖母や、近所の嘘つきババアとは全く違う、優しくて、わたしの頑張りを後押ししてくれて、褒めてくれて、いつもニコニコ笑っている人だった。

病気らしいけど、治るよね!小さかったから、祖母の病気のことはよく分かっていなかった。だから、すごく良い人である祖母は、絶対元気になって長生きすると思っていた。だって世の中ってそういうハッピーエンドにあふれているじゃん?

でも、祖母は亡くなった。その時、わたしは世界ががらっとかわってしまったように思ったし、世界はもっと、希望にあふれているんじゃなかったの?と思った。ハッピーエンドの約束を守らなかった世界が憎かった。それ以降ハッピーエンドは信じていない。



母方の祖母の容態が急変したのは、夏のことだった。いつもなら、わたしがお見舞いに行くと起き上がって迎えてくれるのに、その時は酸素マスクをつけていて、わたしが来ていることも分からないみたいだった。母がずっとそばにいて手を握っていて、わたしも握らせてもらったけど、なんだかそれが怖かったように思う。母は祖母の側に残ると言ったので、父と一緒に帰った。何故か分からないけど、すごく怖いことが起きる気がして、それがわたしのせいなんじゃないかと思ってパニックを起こし、父に怒られた。

怖くて仕方ないまま寝て、起きたら、祖母は亡くなっていた。わたしの誕生日の1日前のことだった。

次に祖母に会えたのは、祖母が病院から祖母の家に帰ってきたときだった。花が敷き詰められた棺に納まった祖母は、お化粧もしてもらっていて、なにが悪くて亡くなってしまったのか全然分からないくらいだった。でももう手は握れなかった。頬も、ふくよかで血が通っていそうなのに、もしかしたら生きてるかもと思ったから確かめたかったのに、何故か触れなかった。
雰囲気がいつもと違ったからかもしれない。

わたしは黒い服なんて滅多に着ないのに、そういう服を着ていて、普段はジャージ族の叔父も喪服を着ていた。田舎の葬式で、家でやるとなると、本当に人が沢山来る。知っている人も、知らない人も。一人の人が死んで、それがわたしの大好きな祖母なのに、お葬式に来る人は、悲痛な顔をする人もいたけど、最後には笑って挨拶をして帰っていった。

よくわからなかった。

わたしはずっと泣いていて、棺の近くにも怖くて寄れなかった。母は、祖母が亡くなったあとから本当にやつれてしまっていたし、夜にすごく泣いていたけど、葬式に来る人のもてなしやなにやらですごく忙しそうにしていて、一緒にはいられなかった。

夏のことだったから、お葬式から焼却場へは早かった。ちゃんと祖母の顔も直視できず、自分の中の気持ちばかりを見て、ちゃんとお別れできなかったことは、今でも悔やんでいる。

すべてが終わって、また小学校に通うようになったけど、世の中って理不尽なんだなってずっと考えていた。あの子、あの先生、父方の祖母、嘘つきババア。世の中には、(わたしから見て)ひどい人間がたくさんいる。だけどそういう人に限ってのうのうと生きていて、ねえ、なんでとても良い人だった母方の祖母は死ななきゃならなかったの?
ずっと病気で苦しんでいた祖母。わたしだったら投げ出したくなるだろうに、ちゃんと寿命まで生きて、人生を楽しむことも諦めず、そして病気になったきっかけである母のことも、絶対に責めなかったという。

なぜ死ななければならなかったのか。
あんなに沢山の人に惜しまれる人が。
なぜわたしみたいにどうでもいい子どもは生きているのか?祖母の代わりになれたら、きっとその方がみんな喜んだんじゃないか。


母は毎日泣いていた。それを見てわたしも泣いた。好きだった人が去る、ということの重さがずっとのしかかってくるような日々だった。

本当に母はやつれた。父はいつまでも落ち込む母に厳しかった。父方の祖母も、無神経な人なので、頼れなかった。
多分、そのとき母が後追いをしなかったのは、わたしたち子どもがいたからだと思う。最近になって、あのときはね〜って話を聞くと、実際子どもがいることを支えにしていたらしいが、そんなことわざわざ言われなくても、幼心に「いまわたしがしっかりしてお母さんを励まして、支えないと、今度はお母さんがどこかにいってしまう」という感覚はあった。

それからわたしは、図書館に行ったらかならず神話とか、海外の伝説の本(?)とかを借りるようになった。元々本は好きで、なんでも読んでたけど、生きる・死ぬことに関する本を沢山読んだ。「○○って国の△△地方では、死んだ人はこういう風にあの世で暮らすらしいよ。おばあちゃんは絶対このきれいなところに行けたんだよ」とか、「泣いてたら、死んだ人が悲しくなってなかなか綺麗な場所にはいけないから、泣き止んで」とか、そういう風に、母を励ますための知識だった。
でも同時に、自分の中の、「なんでわたしは生きているんだろう?」というどうしようもない疑問と不安の答えを探していたという面もある。

人は何故生きるんだろう。



祖母が亡くなって一年くらいたった頃のことだと思う。初めて飼ったペットで、すごくかわいがっていたハムスターが死んだ。
初めて飼った子だったけど、一生懸命お世話をしたら懐いてくれたし、本当に好きだった。確か、祖母とわたしと弟とハムちゃんの写真があったと思う。よく、頭の上に乗せてたりしてた、ハムちゃん。ある日起きて、ハムちゃんのお水を変えようと思ったら、ハムちゃんの目が変な色に腫れているのを見つけた。慌てて病院に連れて行ったら、ガンだった。おそらく既に脳に転移しているから、早ければ明日には死ぬと言われた。

そして本当に、次の日ハムちゃんは死んでしまった。お家の中で丸まって死んでいた。ぱっと見全然分からなかったけど、抱き上げてみたら、体がかちんこちんに固まっていて、冷たくて、小動物特有の脈の速さも全然感じられなかった。冬ではなかったと思うし、毛はふわふわなままだったのに、本当に冷たかった。

そのときに、生き物って、死んだらこんなに冷たくなるんだ、と思った。祖母が亡くなった時には知ることができなかった、「もう取り戻せない」という感覚が、その冷たさから伝わってきた。

めちゃくちゃ泣いて、泣きながら庭に穴をほって、そこにハムちゃんと、ハムちゃんが好きだった綿と餌をちょっとだけ埋めて、お墓にした。
土をかけるときが一番つらかった。ハムちゃんが死んだことを、認めざるを得なかったからだ。

ハムちゃんは、死んで、きっと祖母のところに行ったんだなと思った。わたしはもうお世話してあげられないけど、祖母がハムちゃんを見つけて、一緒に、どこかからわたしたちを見守ってくれて、待ってくれているんだな、とわたしは思うようにした。

祖母とハムちゃんが待っている世界。きっとお花とかも沢山はえてるし、ハムちゃんの好きなひまわりも沢山あるんだろうなと思ったら、その世界がすごく魅力的に思えた。

小学生の頃は、別にうつとかではなかったけど、生きるのがつらかった時期ではあった。わたしに無条件で優しくしてくれる人というのがいなかったし、色んなことが出来なくてはならないのと同時に、してはいけないことや、環境的に絶対出来ないこともあって、その線引きを見極めて諦めたり、努力したりして生きていかないと本当にきつかったし、なんのために頑張ってるのか分からないときもあった。

だから、大好きな祖母とハムちゃんとずっと一緒にいられる世界はすごく魅力的だった。度々、その世界に思いを馳せて、わたしも早くそこに行きたいな、と思っていた。行くためにやるべきことは分かっていた。「死ぬ」ことである。

でも、その世界の魅力に惹かれ、どこかへいきそうなわたしをこの世にとどめていられるくらい、わたしの中では母が錨みたいな役割をしていた。
母がいる間は、死なないでおかなきゃという意識が、まだそこにあったし、祖母がいる世界に行きたいのは母も同じだろうに、わたしが先に行くのは、なんか抜け駆けみたいで申し訳ないなあという気もしていた。



高校に上がった頃、わたしはうつになった。もうその頃には、心の底から「あの世」を信じてはいなくて、あったらいいのにな、ってくらいだった。
「あの世」のこととか考える余裕がないくらい、とにかく現実がつらすぎた。気持ちの問題とかではなく、身体症状がきつすぎて、ポジティブに考えてみよう☆とかいう話では済まなかった。もうどうなってもいいから、死んで楽になるなら、なんでもするから、この苦しみから抜け出したいという気持ちしかなかった。自殺を考えるようになった。でも、今まで「死なない」ことを誓って(?)きた身として、あんまり死に方のバリエーションが思いつかなかった。ビルからの飛び降り?線路への飛び込み?風呂場でリストカットして失血死?首吊り?溶解炉に飛び込む?
なんかいろいろ考えたけど、田舎なので高いビルもなく、駅を通過する電車もないし、家においてある包丁は切れ味が悪かった。首吊りもどこに縄をかけたら良いのか分からなかったし、溶解炉に至ってはもはやターミネーター2でしか見たことなかった。
失敗するのが一番嫌だよな……とか考えていたら、今度は母方の祖父が亡くなった。



祖父は、祖母が亡くなって2年たった頃くらいに、脳梗塞で一度倒れて、半身不随になっていた。ずっとリハビリをしていたんだけど、わたしが高校に上がった頃にまた倒れて、入院して治療を受けていた。祖母は綺麗で新しい病院にいたけど、祖父の時はなぜか、コンクリ打ちっぱなしの陰気臭い病院に入院させられていて、しかもなんか、どうも末期患者、もしくは意思疎通が出来ないような患者が多い棟にいた。

祖父は二度目に倒れたときに、気管?がだめになってしまったので、酸素のチューブと、流動食を流し込むための管をつなぐために、喉のあたりを切開していた。だから、言葉を発することは出来なかった。
でも意識はあって、わたしがお見舞いに行くとアイコンタクトで挨拶してくれたし、手がガサガサだからと母が持ってきていたハンドクリームを塗り込んでいるときも、わたしが左側にいたら左を見てくれたし、右側にいたら右を見てくれた。
高校に上がって、祖父が買ってくれた自転車と、辞書を持って学校に通っているよ、という話とかをすると、唸り声だけど、返事もしてくれていた。

死ねないなあ、と思った。祖母も沢山の人から慕われていた人だったけど、祖父も立派な人だった。ガタイも良い人だったし、厳しくて怖くて、でも賢くて優しくて、尊敬していた。そんな祖父が、まさか倒れるとは思っていなかったし、こんなにやつれて、唸り声しか上げられなくなって、環境が悪そうな部屋にずっといて、他の患者の唸り声や叫び声を聞いていなくちゃならないのも、なんだかわたしとしては納得がいかなかった。祖父がどう思っていたかは知らないが、人間の尊厳ってなんだろうなと思った。もうしゃべれないから、祖父がどう思っていたのかも、なにもかもわたしは分からないが、祖父はひとまず、生きるために頑張っていた。そんなときに、「死にたいから死ぬ」みたいな死に方をするのは、わたしの中ではわりとハードルが高かった。

結局、祖父はわたしが高校2年生の冬に亡くなった。祖父の時は、亡くなった直後に、病院で会うことが出来た。いつもハンドクリームを塗っていた手は、まだ温かかったけど、もう動かなくて、多分、これから冷たくなってしまうんだろうと思った。
延命も出来たらしい。ただ、もう意識は戻らないし、それまで以上に管をつなげなくてはならないということだったから、母と叔父とで相談して、延命はやめたのだという。

車の中で母の話を聞きながら、つらいなと思った。意識もなくて、話せない父親の命を託されて、延命したにしろ、しなかったにしろ、後悔するに決まっている。誰の気持ちを一番に考えて選択すれば良いのか、わたしには分からなかった。それでも選ばなければならなかった母や叔父の立場が辛かった。



話は長くなったが、タイトルに戻ろうと思う。
「死なないことを決めた日」。幼い頃に決めた、「母より先に死なない」という約束を、もっと意識的に考えたのは、焼却所で祖父の遺骨を見たときだと思う。
祖母の時は、小さかったから見せてもらえなかったけど、祖父の時はわたしも遺骨を拾った。肉体は失われていて、面影とかも分からないけど、焼かれてなお、すごくしっかりした骨格だなあ、祖父っぽい、と思った。祖母も、ハムちゃんも、こうやって骨になって、どこかに行ってしまったんだなあと思った。

好きだった人の顔がもう見られないって、結構つらいことだ。もし延命治療をしていたら、意識はなくても、肉体は生きているわけだから、顔を見たいときに見られる。でももう祖父は焼かれてしまったから、顔は見られない。拾われた骨以外の部分がどこにやられるのかは知らないが、捨てられるのかな?とにかく頭蓋骨とか、なんとなく人間であったことを思い出せるような部分も、納骨には必要ないから残しておけない(頭蓋骨を残しておいて故人を偲ぶというのもあまり馴染みがないことではあるが……)。

祖父の葬式は、全ての過程に参加した。そして、亡くなった人と別れる作業ってこういうものなのかと思った。大きくなってから体験した葬式は、悲しみもあったけど、「別れ」の感情をきれいに整理してくれるものなんだなという驚きのほうが強かった。なるほど儀式とはこういうものか……という驚き。でも、儀式を通してでも浮かばれない気持ちというのはある。亡くなるまでに、もっとこうしておけばよかった、とかそういう気持ち。老衰とかで亡くなったなら、仕方ないと思えるのかもしれないが、わたしが今までに体験した「死」は、全て病気が原因だし、祖母に至っては薬害によるものである。

これ以上、母に「どうしようもない気持ちを残す死」というものを体験させたくないな、と思った。わたしが死ぬとしたら、病気によるバグ=尋常じゃない死にたさが原因になると思う。別に誰かが悪いわけではない。病気になっちゃったのが悪い、しかも運が悪いという話なのだが、わたしが死んだら、母は自分を責めるのではないかと思う。母は悪くないんだけど、という遺書を残したところで責めると思う。
あと、死に方にも迷いが出てきた。勢いで死のうとして、失敗して、祖父のときのように生死を母に託すようなことになったら、申し訳なさ過ぎてわたしが浮かばれない。あと線路への飛び込みとか、肉体の原型が残らないような死に方も、「儀式」がスムーズに進まなくなるからやめておきたい。
双極性障害って治らない病気だし、今も別に元気なわけでもなく、こんな辛気臭い文章を泣きながら打ってる時点でまあ結構やばい状態なのだが、死にはしないでおこうと思う。治らないだろうな、と思っても、口にはしない。

「希望」はあるのだ。
と、母が言うからわたしもそう思っておいている。祖母がかかっていた病気、C型肝炎だが、あのあと薬害訴訟が起き、被害者側が勝訴した。謝罪もなされ、賠償金も請求すれば支払われた。そして今ではもう、不治の病ではない。
母は、「おばあちゃんがもう少し長生き出来ていたら、治せていたかもしれないね。医療の進歩はすごいね。あなたの病気も、もう少ししたら治せるようになるかもね」と言う。なのでわたしは、死にたくなっても、「もう少し長生きする」ことを頑張るようにしている。
そして、せめて、わたしが母に見送られる側になるのではなく、わたしが母を見送る側になりたいと思う。

正直、現状は甘くない。
今も死にたいし、今後お金とかどうすんの?って思う。セクシャリティのことは母には話してないから、最近結婚に対する圧が強い。ぶっちゃけ母としては見送られたいとかよりも、わたしが早く結婚して孫が抱ければ思い残すことはないくらいに思ってそうではある。でもごめんよそれは出来ないのだ。
親不孝を重ねに重ねまくったわたしが、今のところ出来るのは「死なない」ことぐらいなのかな?まだもっと頑張れるところはある気もするけど、ちょっと今はそっとしておいてほしい。

ちなみに、今まで分かりやすく自分を傷つけるような自傷はしていない(過食とかドタキャンとか地味に自分が削られていくタイプの自傷をしている)。自殺未遂もしたことない。
でも別にこの文章は自傷や未遂を非難したり責めるものではないことをご了承いただきたい。
わたしも「死」、もしくは鮮やかな「生」に憧れてはいるのだ。自傷をする人の気持ちが分かる、なんてことは言えないが、惹かれる気持ちはわたしにもある。ただ血が嫌いなので、まじで血が無理なので切り刻む系のことができないだけです。

祖母が亡くなった時、わたしは何度も母に、「人が生きる意味がわからない」と言ったらしい。落ち込んでいる母にとってはきつい言葉だったろうな、と反省しているが、それはさておき、その問いかけの答えとしていつも返ってきたのは、「おばあちゃんは、幸せを見つけるために人は生きるんだといつも言っていたよ」だった。
小さい時は意味が分からなかったし、正直今でもよく分かっていない。むしろ健康だったときより、祖母と同じように、病気になってからもっと訳が分からなくなった。
「幸せ」ってなんだろう。そもそも今ぜんぜん幸せじゃないんですけど?楽しいことはあるし、嬉しいこともある。しかし、人生を総合的に見てみた時、今のところはまだ健康であった時間のほうが長いにもかかわらず、幸せか幸せでないかと言われたら、うーん、幸せとは言えない……恵まれてはいるのかもしれないけど。
祖母は、何に「幸せ」を見出していたのだろう。



「幸せ」とか、「生きる」とか「死ぬ」とか、そういうものの本質(?)はいまだ分かっていない。わたしが未熟だからだろうか。とにかく「生きて」いれば分かるときが来るかもしれない。分かるまでに死んだら、分からないままだろうから、まあ分かるまでは生きるか……という気分である。
自殺もしようとは思わないが、自殺についての考え方が最近少し変わったように思う。前は、「みんなが困るから」自殺をしない、という「みんな」重視の考え方だった。でも、自殺をする人って、究極に、かつ極端に言えば、「自分」をとても大切にしている人なのかもしれない。「みんな」と「自分」をはかりにかけたときに、自分の苦しみを無視したりしない人もいるんだろうな、と。わたしはまだ「自分」と「母」をはかりにかけたら、母のほうが重いので、死なないというだけかもしれない。母がどう思っているかは関係なく、わたしが「母」という存在を重りにしているだけのことなんだけど。自分が自分に勝手にかけた縛りである。

そしてその縛りを自分にかけたのは、祖父が亡くなった時。まあ大体10年前であるから、実はうつだと診断されたときと同時期なのである。

おどろくほどの「死にたい」気持ちと、幼い頃から持ち続けていた「死なないでおこう」という気持ち。この2つがせめぎ合って、10年経った。今わたしは、生きている。せめぎ合いはこれからも続くだろう。「死にたい」と「死なない」は逆方向を向いているけど、結局は生死にまつわる苦しみを伴っている。そのせめぎ合いによって、更なる苦しみが生まれているのも事実だ。10年経った今、一番しんどいのは、実は「せめぎ合い」から生まれる諸々の感情であったりする。生きていればいい時期は終わった。死なないでいればいい時期も終わった。大人として、社会で生きていかなければならない時が、目前に迫っている。というか普通は多分もっと早くに「社会人」になっていなければならなかったのだろうが、まあそこは大目に見てほしい。人と比べても仕方ない。わたしの中で、「せめぎ合い」を抱えたまま、社会に出なければならない時が来た、ということなのだと思う。「母」という存在も、わたしが大人になるにつれ、非常に社会性を持った存在になった気がする。だから多分、自立して、母との距離をちゃんと考えないと、「母より先には死なない」という縛りがあまり意味のないものになるだろう。
別に生きていくための方法が、その縛りに縛られることだけではないと思うし、もっと自由に生きることを前向きに考える方法があるならそれを見つけたい。そのためにはやはり、外に出ないといけないのかもしれない。

非常に面倒くさい。今わたしは家から出ることが出来ないレベルで体調が悪いので、もう家から出るとか自立とか考えただけでも死にたい。でもせめぎ合いに苦しむことにも飽きてきた。なんか打開したい。死ぬこと以外の方法で。

ぼんやりそんなことを考えていたら、今年ももうあと2ヶ月ほどになっていた。時が過ぎるのは早い。わたしはまた来年歳をとる。母もとる。父もとる。なんか最近肌がカスカスである。母の手も、ハリがない。みんな老いたな……

そうやって歳を重ねて、母を見送った時、分かることもあるのだろう。自分が見送られる側になったときに、分かることもあるのだろう。

でも今はまだわからない。分からなくてもいいのかもしれないけど。人間死ぬのは一回だけだ。泣いても笑っても一回。
できたら平和に死にたいね。



オチはあるのかって?
そんなものはない。あったらこんなにぐちゃぐちゃ考えてなんかないよパターンの話だ。
この文章、泣きながら5日くらいかけて書いたものなのに、本当にオチもまとまりもない。でも多分これが今のわたしの死生観であり、その先が見えないというところにわたしの思考の限界が見えているのだと思ったから書くことにした。ハムちゃんのくだりは自分で書いておきながら、何回読んでも泣ける。
今は体調が悪いので厳しいけど、少しましになったら、バイトをしたり、本を読んだり、もう少し気軽に人と遊んだりしたいと思う。そんなことすら出来ないくらい、わたしは今何も出来ない。

何も出来ないけど、「死なない」ということだけはきちんとやっている。しょうもないことだと思われるかな?

でも、それがわたしに出来る最大限の頑張りで、未来につながる、「希望」になることを祈っている。



(追記)
バイトをしたり〜というくだりをなんの説明もなく書いてしまったが、ここでわたしにとって重要なのは、「一般人と同じことをする」ことではなく、「自分の体験に基づいて想像力を磨いていく」ことである。死にたくなる時、わたしは本当に追い込まれている。死ぬしか解決法がないのだと思い込んで、苦しみながら涙を流し、わたしが死ねそうなものが置いてある場所に行ってしまわないよう、足を抱えて布団に潜り込む……という行動以外を、死にたくなったときに思いつければいいのでは?と思ったのだ。いまのわたしは、幸せとは一体何なのか「想像がつかない」、これからどう生きていくかのビジョンが「想像がつかない」、もしまた誰かが死んだときにどう対処するのか「想像がつかない」、というないない尽くしで生きている。そりゃ不安になるだろとは思った。将来の見当がつかないのに、目標を立てたり準備したりなんてことは無理。将来に明るい何かがあると思うことすら出来なければ無理。むりむり。
なので、あくまで「想像力」を養いたいという話である。人の話を聞いたり、昔の思想を学んだり、世の中の理不尽に怒ってみたり、そういうことが今必要なのかなと思った。

「変な子」と呼ばれていた頃

わたしは昔、「変な子」と呼ばれていた。今も言われるけど、昔はもっと言われていた。特に幼稚園〜中学校の間わたしはとても「変な子」だった。

なんでこんなことを思い出したかというと、小学校から高校まで同じ学校に通っていた、Tちゃんの夢を見たからである。彼女は、可愛くて、運動ができて、勉強もできる、いわゆるスクールカースト上位の女の子だった。彼女は、わたしがAB型であるということから、わたしのことを「天才と変人って紙一重だよね」とからかってきた一人だった(当時、血液型で性格を占うのが流行っており、AB型は天才型、もしくは変人と言われていた)。でも、わたしはその子にいじめられてたわけじゃなかった。むしろ、「変人」として疎外されたり、バカにされたりしていたわたしに対して、すごくフラットに接してくれていた。なのでわたしはその子のことが好きだった(余談だけど、実はその子もAB型だった)。

AB型だから、といってからかわれていた時期は長かったけど、思い返してみると、というか当時から薄々気付いてたけど、わたしが周囲から「変な子」と言われていた原因は、わたしがAB型だからではない。AB型だから変だという理屈で疎外されていたなら、Tちゃんも疎外されていたはずだが、彼女は前述の通り、常にスクールカーストの上位にいた。では、なにが原因だったのかというと、多分、「周りの子と共通点がなさすぎる」という部分が大きかったと思う。家庭環境とか、流行してるコンテンツについて話せるかとか、そういうことも重要だったと思うけど、そういうのはある程度「人それぞれだよね」みたいなところがあったし、実際、観察してても、あんまりみんなの間に共通する趣味みたいなものはなかったので、そういう話ではない。もしそういうことが重要なら、家のことについてはあんまり話さないとか、テレビを見て流行りを勉強するとか、そういう対策がとれたんだけど、そう簡単にはいかなかった。

みんなが共通して持っていたもの、それは、「どんな人が変人か」という価値観だった。わたしはそれが分かっていなかったから、「変人」と呼ばれていた。そして、誰かを「変人」だとからかうこともできなかったから(だってどんな人が変人か分からない)、「変人」から抜け出して、「みんな」と一緒になることができなかった。のだと思う。

思い返してみれば、「しおりちゃんって変!!」って周りがひときわ盛り上がる時って、わたしが「なんで今わたしが変って言われたのか分からないんだけど……」と言ったときであった。「どこが変か分からないところが真の変人なんだよ」というクラスメイトたちの言葉は今も胸に残っている。

中学校にあがると、「変な子」はいじめの対象になったので、ちょっと工夫して過ごしていた。いわゆる「ピエロ」を演じていたのである。あまり楽しくない話だからここでは触れないでおく。

でも、結局中学校でも「変な子」と言われるロジックは変わってなくて、「変な子」と言う側になるか/言われる側になるかというところが大切であったのだと思う。中学校にあがってすぐの頃、わたしが既に「変な子」であることを知らないグループの子たちから、「ねえ、○○ちゃんって、『変』だよね?」と、「言う側」になるチャンス(?)をもらったことがあるのだが、その時のわたしはこのロジックには気づけていなかったし、やっぱり誰が「変」なのか(誰のことなら「変」だと言っていいのか)の判断も付かなかったので、自分の価値観で、「いや別に変とは思わないけど……」と言っちゃって、そのグループからめちゃくちゃシカトされることになった。ちなみにわたしをジャッジする踏み絵にされてた子は、わたしを「変わっている」と言ったらしいので、シカトされることはなく、そのグループの一員となることが許されたようだった。なんでやねん。

まあそんなかんじでいじめを経験し、「ピエロ」になる方法も身に着け、なんとなく生き延びてきたけど、実は未だに「変な子」と「そうじゃない子」の区別はつかない。


「好き/嫌い」はとてもはっきりしている性格だし、「わたしと同じ/似てる/違う」「わたしと考え方が同じ/違う」というところもけっこうびしっと決めてしまうタイプなのだが、どーーーーーしても「変/普通」の区別がつかない。

そもそも自分が「変/普通」なのかわからないのに、他の人のことをジャッジすることなんてできない。「わたしから見たら変な人だと思うけど、おそらく『変』だと判断する側の前提として『普通である』ことが求められているだろうから、自分が変か普通かわからない状態で他人をジャッジできない」「そもそも人を変と普通の2つに分けて接しようという考えが変なのでは?」「……という考え方は変なのか普通なのか?そもそも普通とは何なのか???」

ずっとぐるぐる考えていることだが、まあ答えは出ない。

でも幼稚園の頃に比べたら「変」の度合いは下がってきているのではないだろうかと思う。中学校のときに仲良くしていた子が、わたしが「変」なことをしたとき、「今の△△で変だった」と個別具体的にわたしの変なところを指摘してくれたので、その部分に関しては改善してある。ただしその友人も「普通」なのか「変」なのかと問われれば、正直分からない。でも、小学校のときのように、「変だ〜!」というだけ言っておいて、どこが変なのか教えてくれないまま放置され、悶々とすることがなかった分、その友達には感謝している。

そんなわけで、「変人であること」もしくは「『変』っていうのが何か分からないこと」は1つのコンプレックスというか、社会に混じって生きていく上でわりと問題ではあったのだが、別に悪い面だけではなかったんだよという話をして終わろうと思う。

類は友を呼ぶ。
今のわたしには、おそらく「普通」の友達はいない。だけど、とても楽しく生きているし、お互いがお互いを「変だね」と思っているから、赦し合えるし、受け入れることもできるし、まだ見ぬ「変」を探しに行こう、世界は広い!という気持ちになれるのである。

だからわたしは「変」でよかったのかもしれない。

髪の毛をばっさり切ったら27年間手に入らなかったものが手に入って大泣きした話

昔書いた記事でも言ってたような気がするが、わたしは隣に住む父方の祖母にあまり褒められたことがない。
というかむしろ、悪口を言われる方が多かったと思う。


近所に、Aさんというおばあさんが住んでいるのだが、そこのお孫さんがわたしと同い年の女の子だったので、小学校に上がる前までくらいはその子とよく一緒に過ごしていた。この子のことはAちゃんと呼ぶことにする。

かなり多くの時間をその子と過ごしたが、わたしはその子のことは大嫌いだった。何故なら、わたしはいつもその子と比べられ、貶されるからである。

小学生になるまでの、Aちゃんと顔を会わせていた時期も、AちゃんやAさんの前で、「うちの孫はAちゃんと違って愛想もなくてかわいくない」などと言われていたが、違う小学校に通うようになり、わたしとAちゃんが会わなくなってからも、Aさんが祖母に、「うちの子は二重跳びができるようになった」と言えば、祖母はわたしに向かって「Aちゃんは二重跳びができるようになったのにお前はできない。やっぱりAちゃんはすごい」と言うし、はたまたAさんが「Aちゃんはもてる」と言えば、祖母はわたしに「やっぱり女は愛嬌だ、Aちゃんにはそれがあるけどお前にはない。かわいくない」と言う。

まあね、実際AちゃんがAさんや祖母の言うとおりの「できる子」なら、わたしだってよーし頑張って追い付くぞ!とか思うけど、Aさん、超嘘つきなんですよね。すぐバレるような嘘も、人を傷つける嘘も、平気で言うババアだったのだ。Aちゃん、ほんとは別にかわいくないしもててないし二重跳びも出来ない。
かわいいかわいくないの判断は人それぞれなので置いておくとして、「二重跳びができる」に関しては完全にうそだし、なんならわたしの方が縄跳び得意だった。二重跳びどころかつばめ返しとかも出来た。そのことをアピールするために、祖母が庭に水を撒きにいく時間帯を狙ってこれ見よがしに二重跳びをしてみたこともあるが、「砂利が飛んで家の壁や車に傷がつくから庭で縄跳びするのはやめろ」と言われて終わった。

そんなかんじで、中学生くらいまでいろんな分野で「わたしも頑張ってますよ!いい孫ですよ!」アピールをしてみたりしていたのだが、どれだけやっても「Aちゃん」という「模範生」を越えることが出来なかった。何故か知らないのだが、祖母はAさんのことがめちゃくちゃ好きで、Aさんの言うことは全て鵜呑みにしているくらいだった。さらに、祖母は一回思い込むとそれが祖母の中での「絶対的事実」になるので、Aさんがどう考えても嘘だろうというような「Aちゃんアゲ話」をし、祖母がそれを信じてしまえば、いくらわたしが目の前で二重跳びをしようが学校でのいい成績や何かの賞をとったことを報告しようが、わたしは祖母の中ではAちゃんに劣るかわいくない存在だった。

ところが高校にあがると、進学した学校の偏差値においてわたしがAちゃんよりはるかに勝ることになった。また、20歳になったころ、わたしは痩せ、色んなかわいい服を着るようになった。

それを見て、Aさんは、「しおりちゃんは賢いね」とか「しゅっとした美人さんになったね」とか言ってくるようになったので(まあ明らかに本心ではないだろうなというかんじであったが)、祖母はAさんの意見には全て同意するんだから、「Aさんが褒めるわたし」のことを褒めてくれるのでは!?と期待したのだが、特にコメントはなかった。

わたしが、大学にあがるまでおしゃれに対して消極的だった、その根底には、Aちゃんと比べられて「かわいくない」と言われていたことがあった。そんな長年のコンプレックスをどうにかこうにか乗り越えて、身につけたワンピース。塗った赤リップ。
しかしそれらも、祖母から見れば気にくわなかったようで、「そんな格好をしているから男の人がムラムラとしてしまい痴漢をしてしまうんだ。そんな格好の女が悪い」とか言ってくるので、なんかも~~~~祖母にはもう一生褒められないわ!分かった分かった!!ハ~~~~~~!!!!ってかんじだったんですけど。


先週髪の毛を切った。
27年間生きてきたなかで、わたしは大半の時間をロングヘアで過ごしてきた。髪質とかの関係でロングの方が扱いやすかったとか、セーラームーンに憧れてたとか、まあ理由は様々だけど、肩より短くしたことはほぼなかったくらい、長い髪の毛と付き合ってきた。
でも最近、髪質が改善されたり、ロングの手入れが重荷になってきたりして、ここらでショートにしたほうがいいな、と思うようになったから、ばっさり切った。30~40センチくらい?もう襟足とかほぼないみたいな、ショートのなかでもかなりのショートに。

で、みんな驚くだろうな~ショートにするって家族にも言わずに美容院行ったし、ほんとにこんなに短くするの初めてだからな~びっくりさせてやろうヒヒヒ、くらいの気持ちで帰宅して、祖母と同居している叔母と母と弟をびっくりさせた、その次の日。

祖母にも見せてやろ~びっくりするだろうな~と思って、回覧板まわしついでに顔見せに行ったら、一言目が「かわいいね」だった。


「かわいい」って、物心ついてから祖母に一回も言われたことのない褒め言葉だった。ちなみに、物心ついてから一番言われてきた悪口は「かわいくない」である。

そんな訳なので、なんか5回くらいかわいいって言われて褒められたことに逆にこっちがびっくりして、しどろもどろになりながら家に帰り、えっ?初「かわいい」をそんな気軽に連発する?ってかんじで、えっ?のままその日は過ごして、次の日も昨日のあれはなんだった???という気持ちで、数日混乱しながら過ごし、そんで昨日。

祖母の家を覗きに行ったら、また髪の毛について褒められた。「かわいい、かわいい」と。そしたら叔母もやってきて、祖母がずーっと「ショートかわいかった」って言ってたんだよ、と教えてくれた。



この衝撃伝わりますか?
わたしにとってはすごい衝撃というか、なんていうか、幼い頃求めていた言葉、なにやっても褒められなかったのに、髪の毛切った、それだけのことでこんなに簡単に得られてしまいましたけど???27年間の努力、劣等感、諦め、忍耐は一体???

「かわいい」、その一言が欲しかった頃。
「かわいくない」の一言がもたらす無気力感。

大袈裟と言われるかもしれないけど、あの時、あの瞬間、「うちの孫もかわいい」と言ってくれていたら、人生変わってたよ、ほんと。

ほんとに変わってたと思う。
それくらいわたしにとって大きなことだったのに、カット&トリートメント6,500円で軽々ともらえちゃったよ、「かわいい」を。


褒められて嬉しくないことはないけど、褒められたらありがとうって言うけど、「かわいい」と祖母に言われる度に、幼かった頃の、昇華しきれずに抱え込んでたコンプレックスまみれのわたしが、今のわたしを妬んでくる。今のわたしは、幼い頃にこの「かわいい」が6,500円で手に入るものだと知っててくれたら、今こんな状態じゃなかったろうにな、と幼い頃のわたしを叱り飛ばしたくなる。



髪を切って数日。幼い自分と今の自分の喧嘩と、混乱がある程度おさまって、残ったのは虚無感と、今さら叶うはずのない期待や希望の残骸で、気付いたら大泣きしてた。


滑稽な話である。
泣きながら、泣いてるわたしも滑稽だなと思ったけど、涙は止まらなくて、27歳の「初めて」って結構きついなとおもいながら、まあ切った髪も戻らないし、ていうか自分でもショートの自分気に入ってるから切ったこと自体に後悔はないけど、なんというか、ままならねえな世の中は、みたいな感じで今日もショートヘアで生きていく。しかない。

友達ができた

昨日の夜、友達ができました。嬉しい。

お相手は関東の学生さんで、Twitterで相互フォローにはなってるけどあまり話したことはなかった、という人なんですが、ついこの間Twitterで友達募集しておられたのでこのチャンスは逃すまい!と立候補したところ、候補に入れてもらえたみたいだったので、これ幸い、そしてこういうのはスピード感が大事だ、と思い、Skypeでのおしゃべりの時間を設けてもらいました。それが昨日のことで、その通話のなかで、「友達になりましょう」と言ってもらえて、わーいうれしいなって浮かれている今です。


わたしは、大学時代から友達というものがほとんどおらず(正直0かもしれない) 、話す相手といえばサークルの「仲間」だけでした。
大学を卒業したらもう友達を作る機会もありません。
Twitterでよくしてくださる方や、オフ会に来てくださる方もいますけど、大人になってから「わたしとあなたは友達ね!」っていうことってそうないので、寂しいなーと思ってたんですけど、今回よい巡り合わせで友達と呼んでも違和感や罪悪感のない人ができました。

うれしいですねえ~!

もっと仲良くなれると嬉しいと思います。それから、明確に「ともだち」ではない方でも、よくしてくださる方は沢山いるので、そういう人たちに感謝し、大事にしていこうと思いました。