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BL、生活、その他いろいろ

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2020.5.3追記  

無断で、とあるアカウントのタイムラインに、そのアカウントとわたしが関係者であるように読める文章と共にこの記事がbotを利用してツイートされているのを確認しています。(2020.05.19 botから消されたのかな、相変わらず特に連絡はないので確定ではありませんが、botの運用を「皆様の意見によって」改訂したそうです。裏で、他人のブログを内容も含めて無断でツイートすることの是非を訊かれてバカにしてたの知ってますけど。とにかくあのアカウントや運営している人間とは全く関係ないですし、はっきり言えばあのアカウントと運営自身の発言には反対というか、倫理的にあり得ないと思うレベルですので、今後も関係したいと思っていません。わたしのブログは、「わたしが思って、考えて、書いたこと」としてお読みください。そして、直接のご意見はコメントにどうぞ。感想はどこででも書いてもらえるのはありがたいです。)

前回の追記ではぼかして書きましたが、最初から無断で使われていたことは把握しており、追記により無断での記事拡散は止まるかと思いましたが止まりませんでした。

そのアカウントは、複数の人間が運営に関わっているそうですが一向に誰が関わっているのか明確にせず、主語が大きく、「~な人もいます」という話法を多用し、他人のブログを無断で使用し、単語説明ツイートを頻繁にしていますが、その情報の根拠や出典が明確ではありません。また、最近では他アカウントのRTがタイムラインを占めているようです。

全く軸のないアカウントに見えますが、たまに運営者の個人的な思想がアセクシャルと結びつけられてこっそりツイートされている、そういうアカウントの、うすっぺらなアイデンティティを補強するために、わたしが今まで「しおり」という名前で書いてきたブログから、一つのタイトルと、一文を抜き出して使用されていることに、怒りを禁じ得ません。失礼にもほどがあります。

 

あまりに失礼ですが、運営者の内の一人を特定した際、関わりたくないと思ったので、抗議するよりはこの記事自体を消してしまおうかとも思いました。ですが、そのアカウントの意図とは別に、純粋にこの記事を読んでくださる方もおられるだろうと思い、消しはしません。その代わり追記することにしました。心当たりがある方は、これを読んだならわたしの記事をbotで流すのは止め、また過去のツイートも消してください。

ご自身のnoteでは月々、または記事ごとにお金をとっているみたいですから、文章を書くことの手間と価値をご存知だと思います。その上で、わたしのブログは無断で、無料で、わたしの意図とは関係ないところで使用してもいいと思われたのでしょうか。手動ですらなく、botに登録して自動で流せるようなものだと思われたのでしょうか。

あまりに不愉快。舐めた態度で、敬意も払わず、自分勝手に、わたしが積み重ねてきたブログというものの、大切な一部を切り貼りするような人間と、同じ「コミュニティ」にいられる訳がないでしょう。ふざけるのもいい加減にしてくださいね。

 

 

2020.4.14追記

この記事の拡散およびアクセスが最近多いようなので3年ぶりに追記します。

本文の出だしに明確に書いていますが、これは「わたしはこう思った」という話であり、「アセクシャルの人たちはこう思っています」「アセクシャルである"わたしたち"はこうである」という話ではありません。この記事に共感していただいたり、なるほどと思ってもらったり、いや違うでしょうと思ってもらったり、反応いただけると嬉しいですが、あくまでもこれは「わたしの意見」です、ということを理解していただいた上で読んでもらえると幸いです。

基本的にこのブログの記事は「わたしはね、」というスタンスで書いています。他の記事でもそう書いていることが多いです。誰かの依頼で記事を書くこともありません。

 

あと日付も見てもらいたいんですが、これは2017年5月の記事になります。わたしの中での意見は変わりませんが、2020年現在から3年も前のものであることはご了承ください。

 

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 「レインボー」と「LGBT」が苦手だ

 

 

 わたしは「レインボー」が苦手です。また、「LGBT」という言葉も苦手で、どちらにも強烈な違和感や不信感を持っています、という話をしたいと思います。

 

それにあたって、ひとつわかってほしいのは、わたしは決してレインボーカラーやLGBTという言葉の歴史を否定しているわけではないということです。レインボーフラッグやLGBTという言葉を用いて、運動を行い、セクシャルマイノリティの権利を獲得しようとしてきた先人の方々のことを否定したいわけではないのです。わたしも、先人の方々が行ってきた運動の恩恵を受けています。ですから、否定したいわけでもないですし、蔑ろにしたいわけでもないのです。

 

 ここで話したいのは、「今までの活動を否定し、後退したいわけではなく、進みたいのだ」ということです(この言葉は、このテーマにてついて相談に乗ってもらった方がおっしゃったことです。とてもしっくりきたのでここでも書かせてもらいますね)。

 

 そのことを前提として、現状、「レインボー」や「LGBT」という言葉が用いられている活動に対して感じている違和感について話したいと思います。

 

 まず、違和感を持ったきっかけは、TRPの写真と、新聞社の記事を見たことです。今までも違和感はありましたが、写真をみて一気にその違和感が大きくなったのです。

 

 LGBTという言葉は、セクシュアリティの多様性を認め、表すものだと思っていました。しかし、現状、LGBTという言葉は、その表記のまま、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーだけのものになっているように感じました。「LGBT」という言葉が、性愛者に独占されているように思えたのです。TRPに参加したことはないので、偏見も含んでいるということも踏まえて言いたいのですが、「LGBT」という言葉は、四つのセクシュアリティを表すものだけになっており、また、「レインボー」という色は、その四つセクシュアリティの権利を表現するのもになってしまっているのではないか、というのが写真を見て感じた印象でした。

沢山の写真を見ました。しかしそこで映されていたのは、「レインボーフラッグ」を掲げ、「LGBT」の権利を主張する人々でした。同性婚の成立を望む人、好きな人に好きだと言いたい人、ゲイであることを誇りに思っている人....彼らは一様にして「レインボー」を掲げていました。そして、自分が性愛者であることを表し、性愛者の権利を求めていました。

 

 レインボーカラーは、多様性を表すもので、セクシャルマイノリティの団結に繋がるものだと思っていました。LGBTは、すべてのセクシャルマイノリティを表す言葉だと思っていました。しかし、団結していたのは「LGBT」の人達だけであり、「LGBT」として団結するために、「レインボー」が掲げられているように感じました。多様性などないのではないか。団結というものは排除と似ているけれども、それがセクシャルマイノリティの中でも起きてしまっているのではないか。そう感じたのです。

 

 その違和感を表してくれていたのが、まきむぅさん(牧村朝子さん)のツイートでした。

LGBTって言葉が広まり、近頃「虹色」という一色の色ができてしまったように感じるの。でももともと、虹ってね、みんなバラバラなまま共にあるって象徴じゃない?自分はLGBTなのか確信がない人も、シブヤ系にキラキラできないって人も、虹に染まんなくたって、いいと思うのよ。

— まきむぅ(牧村朝子) (@makimuuuuuu) 2017年5月6日

 そのとおりだと思いました。レインボーカラーは、「レインボーカラー」として多様性を失い、ただのアイコンになってしまったのだとおもったのです。そしてそのアイコンが発するメッセージは、「LGBT」の団結と、権利を主張するだけのものになったのだと感じました。

 

 わたしはアセクシャルです。色々な場面で、「LGBT」から排除されていると感じた経験はとても多いです。それは当事者以外の人達からの扱いであることが多いですが、当事者の間でも、排除が行われているということはショックでした。

 

 このことをブログに書くにあたって、とても悩みました。わたしはアセクシャルであり、「恋愛は必要ない」と主張することは、「愛は普遍的だ」として「LGBT」を異性愛者というマジョリティにメッセージを発する運動の足を引っ張ることになるのではないかと思ったからです。水をさすことになるのではないか、それから、レインボーカラーの持つ歴史を否定することになるのではないか。躊躇いました。しかし、わたしのなかの違和感は消えません。マイノリティの中のマジョリティである「LGBT」の人達が、「レインボーカラー」をもちいて、異性愛者というマジョリティに迎合していく。「LGBT」に包括されなかった、団結の輪から排除されたセクシュアリティの人達は、さらなるマイノリティとして取り残される。そういう未来を想像してしまいます。被害妄想かもしれません。でも不安は消せないのです。

 

 「レインボーカラー」を持つことは、「LGBT」の権利を支持することだ。「愛」というものを支持することだ。そういうコンセンサスが出来てしまっているように思います。でも、そうすると「LGBT」以外のセクシュアリティの存在が埋もれてしまう。「レインボー」の中ではそういった人々の存在はなかったことにされる。そうならないためには、個々のセクシュアリティのフラッグを掲げなければならない。「レインボーカラー」では、もはや多様性を表現することはできないのではないでしょうか。

 

 ビジネスの面から考えても、「LGBT」というものはLとG(とBとT)を消費者として取り込むためのキーワードになってしまっていると思っています。そして「LGBT」は、消費者になるために、ビジネス面でも「お客さん」として扱われるために、「LGBT」というワードを強調していってしまっている、マジョリティになることに腐心している(という言い方は嫌な感じで申し訳ないんですけど)のではないか。

 

 少し話は変わりますが、LGBT以外のセクシャルマイノリティに配慮した表現ができていますよね。LGBTQIA....とか、LGBTsとか、LGBT+とか。でも結局それって、LGBTという言葉を四つのセクシュアリティを表すものとすることになるだけで、多様性は感じられません。マイノリティの中のマジョリティである「LGBT」の隣に並ぶことが出来るのは誰だ競争みたいなものになっているのではないか。そしてその競争の基準を作るのは、マジョリティである「LGBT」なんじゃないかって考えたことがあって、とても嫌な感じでした。

 

 そんな訳で、わたしは、最近の「レインボー」と「LGBT」という言葉に多様性を感じることは出来ませんし、苦手です。アセクシャルとして「LGBT」から排除される側であるから余計にそう思うのかもしれません。

 

 こういうことを言うのは、本当はやめておこうと思っていました。それはさっきも言ったように、活動に水をさすことになるのではないかとか、そういう風に思っていたからです。とても悩みました。でも、その躊躇いを越えて、わたしは敢えてここで言いたいです。今の「レインボー」と「LGBT」には多様性がないと感じています。アセクシャルであるわたしは、マイノリティの中のマイノリティとして取り残されていると感じています。

わたしは声を上げます。わたしは今の「レインボー」と「LGBT」が嫌いです。タイトルには苦手って書きましたけど、本当は嫌いなんです。

 

 マイノリティが声を上げていく時、マイノリティの中のマイノリティが取り残されてしまうということは、セクシュアリティの分野だけではなく、フェミニズムや、各種権利の主張の際にしばしば起こることです。そのときは、マイノリティの中のマイノリティは声を上げることが必要だと思っています。他の分野においてい、わたしは、マイノリティのなかのマジョリティであることが多かったので、あまり違和感を感じずに運動に参加していました。しかし、セクシュアリティの分野でマイノリティのなかのマイノリティになった今、とても怖いです。みんな、こんな恐怖の中できちんと意見を発していたのだなと思うと、わたしもわたしの考えを表すことが必要なのではないかと思いました。なのでブログに書いています。書きながらも怖いなと思っています。

的はずれな意見かもしれません。偏見や先入観による被害妄想かもしれません。でもわたしは今怖いと感じています。違和感を持っています。

そのことは、声を上げなければ気付いてもらえないと思いました。

 

 冒頭にも書きましたが、わたしはLGBTの運動を否定したいわけではありません。セクシャルマイノリティの歴史と、そこで蓄積されたものを、否定したいわけでもありません。進みたいのです。進んでいきたい。

 

 わたしは今、具体的な運動をしているわけでもないですし、パレードに参加してプラカードを掲げることも出来ません。まだ怖いです。でも、アセクシャルのオフ会を開いたり、違和感を発していくこともひとつのアプローチではないか、と相談にのってもらった方に言っていただきました。嬉しかったです。

その嬉しさを糧に、ブログを書きました。誰かに理解してもらえるといいなと思って。また、わたしと同じ違和感を持つ人がいたら、その人にわたしもそうだよと伝えたくて。

 

 

 わたしは「レインボー」と「LGBT」というアイコン、言葉が嫌いです。

 

 

 

追記

また詳しく書きますが、この記事の中で、中島美嘉さんがおっしゃっている内容が、わたしの不安であり、恐れている未来のひとつです。

http://www.asahi.com/sp/and_M/articles/SDI2017050952061.html

→書きました  http://si0r1.hatenablog.com/entry/2017/05/14/011033

 

追記②

このブログを読んでくださった方の感想が、それだ!というものだったので引用させてもらいました。

 

「レインボー」と「LGBT」が苦手だ - 333 https://t.co/M40xeN4BP6
某パレードに馴染めなかったのは、この方が書いている内容に似た事を私も感じたからなのだろうな、と。あそこは性愛者の為の場で、そうじゃない私にとっては地雷原を歩く様なものだと感じてしまう

— 羽月 (@haduki176) 2017年5月10日

聞きたくもない色恋話を逃げ場のない場所で聞かされているような気分になる。ほとんどの人が、我々は性愛者であると主張している場に見えたから、あぁ、お呼びじゃありませんでしたね。了解です。帰らせていただきます。と怯んでしまう。

— 羽月 (@haduki176) 2017年5月10日

AやNonな方も参加して、我々もいるぞ!と主張されているのも知っているし、非常の心強く思えるのだけれども、視界に映る光景のほとんどが暴力的なまでの性愛性愛性愛ずくめ。普段歩いてたってそうそうお目にかかれないまでに性愛的な価値観が溢れていて、胸焼けを起こすというか。

— 羽月 (@haduki176) 2017年5月10日

 

 わたしもそうなんです。 性愛者の人達に囲まれているということが驚きというか、怖いというか、とにかく好きではないです。わたし、電車に乗っているときに、サラリーマンの人が結婚指輪してたり、カップルが話していたりするのを見ると、ああこの空間、この車両の中にいる人はほぼ性愛者なんだなと感じて、鳥肌が立つのです。性愛者が苦手というわけではありませんが、性愛者が自身を性愛者だと主張するなにかを身に着けていたりするのが苦手なのです。そんなわたしにとって、セクシャルマイノリティのイベントに行くことは結構苦痛でした。 

 パレードとかって、こういう性愛者もいるんだよ、ということを表明する場ですから、色んな人達が色んなセクシュアリティを持つことを表現していることは何らおかしなものではないというか、そういう自由が得られる場所ではあると思うのですが、非性愛者であるわたしにとっては、暴力的なまでの「愛」「性愛」で殴られたような気になるのです、というと大げさかもしれませんが。

しかし上記のように、「レインボー」と「LGBT」がLとGとBとTという性愛者(トランスの方の中には非性愛者の方もおられるかもしれませんが)を団結させようというものだと捉えた場合、「レインボー」や「LGBT」は非性愛者を排除するものになっていると考えてしまいます。圧倒的な性愛者の数に押され、肩身が狭い思いをしているというのが正直なところです。あと怖いですし、嫌な気持ちにもなります。恋愛賛美には賛同できないからです(この話もいつか書きます)。

 

そんな感じで、わたしがブログで書かなかったこと、表せなかったことをすっきりと文字にしてくださった方いたので、わー分かる!とおもって追記にしました。