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BL、生活、その他いろいろ

わたしがアライに求めること

ざっくり言えば、「代弁者」になってくれなくてもいいということです。


先日の記事で少し触れましたが、TRPの記事で、こんなものを読みました。
http://www.asahi.com/sp/and_M/articles/SDI2017050952061.html

ここで、ゲストとして参加された中島美嘉さんについてこのような記述がありました。少し引用しますね。

この記事では、
"「LGBTの方々って恋をしてもまずは『この方は自分を受け入れてくれるだろうか』から始まる。男女間なら、『好きです』というだけなのに」と当事者の気持ちを代弁し、「普通の恋ができない人たちがいっぱいいて、私もおかしいと思っている」と訴えた。今回のライブ出演については、「夢が叶った感じ」と笑顔をみせた。"
と書かれています。

これについて、まず、三つの違和感と不満が浮かびました。一つ目は、セクシャルマイノリティの問題を恋愛だけのものだと矮小化していること。二つ目に、セクシャルマイノリティには悲しい「恋愛ストーリー」があり、それに共感したという形でしか受け止められていないこと、最後に、「代弁」という表現が使われていたことです。

まず一つ目ですが、セクシャルマイノリティが直面している問題は、恋愛関係だけではありません。もっと身近な生活のなかで苦しい、困った、ということは沢山あります。そこを知らずして、恋愛だけにフォーカスを当てるのは、正直に言うと知識不足だなと感じました。よく、「自分はセクシャルマイノリティの友人がいるから、セクシャルマイノリティには理解がある」と言う人がいますが、中島さんもそういうタイプなのかな、というがっかり感がありました。
それと関連して、二つ目の問題として、「セクシャルマイノリティは恋愛において可哀想な人達だ」というような意識があるのかなと感じました。勝手に「可哀想な人達」という「ストーリー」を作らなければ、共感できないのでしょうか。
三番目については、一番の問題点であると感じます。「代弁」という言葉です。これについては、ご本人の発言ではなく、記事を書いた人が勝手に書いちゃったことかもしれないのですが、とにかく「代弁」ということにものすごい引っ掛かりをかんじました。

わたしはアライに「代弁」してもらうことを望んでいません。「代弁」してもらわなくては、自分の意見を自分の意見として表すことができない社会なんて、健全ではないと思っています。
わたしがアライに求めることは「代弁」ではなく、ありのままの自分として存在し、自分自身で意見を表明しても拒否されない、忌避されない社会にするために、支援してもらうことです。決して「代弁」など求めていません。
「代弁」されると、代弁者のバイアスがかかる。代弁者の都合のいいことだけをピックアップされる。代弁者の知識量が問われる(例えば中島さんはアセクシャルのことなんて知らないのでしょう)。
「マジョリティ」による「代弁」には、多くの問題があると思います。

しかし最近、アライは「代弁者」であると謳う人達が増えたのではないかと感じています。あからさまな例であれば、野村證券の取り組みです。この記事を見ると、野村證券における「アライ」というものは、「代弁者」だそうです。
これに関してはこの記事を読んでもらえばいいかなと感じます。
http://dentsu-ho.com/articles/3790
ちょっと引用するとこんな感じ。
"例えば商談の席で、部下について「30歳にもなって彼女もいなくて、このままだと“コッチ”になっちゃうぞと言ってるんですよ」と冗談で話したら、実は目の前のお客さんがLGBT当事者だったとか…。不快な思いをさせるだけでなく、野村はダイバーシティとか言いながら全然違う、と会社の信用も落としかねません。"
"アライは、LGBTに理解のない人に対するLGBTの代弁者のような役割もあるので、たとえば差別的な発言があったときにうまい切り返しをして注意を促すとか、非当事者だからできることをもう少し探りたいと思います。"


他にも色々突っ込みどころが多くてしんどいんですけど、とにかく野村證券における「アライ」は「代弁者」だそうです。「アライ」を増やすことで企業のロイヤリティが上がるとかもうあからさまにビジネス~ってかんじがしますけど(もっとあからさまな記事もあったんですけど、見つけられなかったです)。
ちなみに電通ダイバーシティをアピールするページとかはひどいことになってます。金だな、って直球で書いてます。こんなかんじ。
http://www.dentsu.co.jp/ddl/ 具体的にLGBTがどれだけ金になるかとかかいてます。

「アライ」として当事者を「代弁」する、というスタンスでお金を稼ごうとしている企業が増えています。個人単位でもそうです。「アライ」であると表明することでステータスを得ようと考えている人は結構います。

そういう人達は、当事者の権利を支援しているわけではないですよね。ただ「アライ」という言葉に乗っかって、消費者層を広げたいだけでしょ、と思います。不愉快ですね。実際、お金にならないセクシャルマイノリティへの配慮はないでしょ。

当事者の権利を無視して、恋愛に共感しましたとか、ビジネスにしようとか、そんなことを考えている人のことをわたしはアライとは呼びたくないです。

もちろん、アライの在り方というのは様々です。異性愛者だけどマイノリティについて調べて支援してくれる人もいますし、セクシャルマイノリティのパートナーとして、ある意味では当事者であるアライの方もおられます。
アライと当事者の関わり方、在り方というのは、個人によって違ってくると思います。当たり前ですよね、アライの中にもいろんな人がいるし、当事者の中にもいろんな人がいるわけですから、うまくいくこともあれば、対立することもあると思います。しかし、そういったことを体験してお互いを知っていく、そしてどう支援すればいいのか、どのような支援を受けたいのかが分かってくると思うんです。
そのために必要なことは、「代弁」ではありません。しっかりと話し合える、自分のことは自分で説明し、意見を表明できる場が必要だと思うのです。


わたしはアライに「代弁」してもらうことは望んでいません。ただ、自分の意見を自分の意見として表明できる社会を求めています。そのために、アライには支援をしてほしいと考えます。


それがわたしの望むことです。




余談
カミングアウト済みの高校生の弟に、もし自分がアライだったら何する?と聞いたところ、まず一人でできることではないと思うから、人と金を集める、との回答をもらいました。多分NPOとか国境なき医師団とかあのへんを意識しているのだと思います。じゃあ個人としてできそうなことは?と聞くと、老人ホームにボランティアで話聞くようなものがあるけど、そんな感じでやるくらいしかできない、と言っていました。まあ個人的な話なのであれなんですけど、アライと聞いて思い浮かべるのってその辺なんだな~と思いました。弟にはわたしのセクシュアリティ関係の話を聞いてもらっているので、弟が自分からアライを名乗らなくても、わたしのなかではとても信頼できる支援者だなと考えています。そういうちょっとしたことが嬉しいんですよね。