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BL、生活、その他いろいろ

「アロマ・アセクの今日の装い」記録はじめました

しずかなインターネットで、月ごとのわたしの装いを記録することを始めた。記事のタイトルは、「アロマ・アセクの今日の装い」。

sizu.me

この記事の冒頭でもちょっと書いているのだが、こういう記録をつけ始めた理由には、アロマンティックやアセクシュアルは、服装は地味で禁欲的なものだけ着るはずと思っている人がいるのかも?と思ったからだ。もう少し具体的にいうと、モテ服や、セクシーな服、派手な服などを着ないはず、という思い込みがある人がいるように思われる。

もちろん、禁欲的だったり、シンプルな服装が好きなアロマンティック・アセクシュアルもいるし、セクシュアリティと服装に関係はないと分かっている人もいると思う。ただ、自分が過去に言われたことや、SNSでセクシーな服装をしているアセクシュアルの人が中傷をされているのを見て、このまま黙っているのはいやだな、と思った。

山内尚さんという漫画家さんが、ノンバイナリーとして服装をSNSにアップしていて、「ノンバイナリースタイルブック」も近く刊行されるんだけど、それを知って、自分も、セクシュアリティと服装に関連はなく、好きな格好をすればいいよ、と思える一因になれるように、発信してみたいな、と思った。

 

前置きは長くなったが、そんな感じで服装を記録しているので、興味があればしずかなインターネットでチェックして欲しい。

それから、こうやって服装は多様だよと伝えることを手伝ってくれる人がいるなら、どんな形でもいいので(写真でも、文章でも、絵でも)、発信してみませんか?ということも言いにきた。「アロマ・アセク(もしくは任意のセクシュアリティ)の今日の装い」という文字列を使ってもらってもいいし、コメント欄にやってるよ〜と残してもらったら見に行きます。よかったら一緒にやりましょう。

太ってから着てる服のこと

太ってから着られる服が少なくなりました。大体店舗で売ってる服は着られないので、ネット通販で探しては買って着ています。

そこでですね、わたしが最近使ってる通販でおすすめのところの紹介をしたいと思います。もし体型のことで困ってる人がいたら参考にしてみてください!


◎ニッセン(スマイルランド)
https://www.nissen.co.jp/
◎RyuRyumall
https://ryuryumall.jp
大きいサイズ(3L~)コーナーがあります。安い。
フェミニンもあればカジュアルもあり、なかなかの品揃え。ベーシックなアイテムが多いので普段着やオフィスカジュアルにもってこい。下着やドレス、靴などもかわいいものが多くあります。
欠点は「大きいサイズの服」ではなくて「小さいサイズから大きいサイズまで展開が広い」というところで、つまり試着モデルさんは細かったり、デザインが小さいサイズで映えるように設計されてたりするので、届いて着てみたときに、ちょっとイメージと違ったなということがあります。


◎オシャレウォーカー
https://www.osharewalker.co.jp
LL~3Lのサイズがあります。また全体的にゆったりめのデザインが多いです。
独特なオシャレ感なので、オフィスカジュアルにはできないものも多いですが、晴れ着にしたりおしゃれをしたいときの勝負着にしたりするのにはいいとおもいます。
ニッセンとかよりはワンピースなどがちょっとお値段高めになっているので、そこが気になるポイントかも。でもかわいいです。


◎clette
https://www.clette.jp
3L、4L、5L展開の服が買えるお店です。完全に大きいサイズのための服屋さんで、モデルさんもプラスサイズモデルさんです。なので届く前のイメージと実際自分で着てみたときの印象にさほど差がなく、満足感があります。
また、デザインも日本人向けのフェミニンなものが多く、カジュアルすぎないのでわたしの好みでした。お値段も3,000円前後でお安いです。あと下着も売ってます。


◎DHOLIC
https://m.dholic.co.jp/
基本的にやせてる人向けの韓国ファッション通販サイトなんですが、たまにバストが110以上あるものがあったり、ウエスト総ゴムのスカートがあったりするので、韓国ファッションが好きな方は要チェックです。わたしはああいうデザインが大好きなので小まめにチェックしています。


追記
◎Re-J&SUPURE
https://palemoba.com/re-j/
まだ利用したことはないんですがその内買い物をしてみたいと思っているサイト。こちらもモデルさん、スタッフさんがプラスサイズで自分が着たときのことが想像しやすいです。オフィスカジュアルに向いてそう。
→使ってみたので追記
デザインがとても可愛くてサイズも豊富なのでわくわくします。ただ価格が上記のサイトよりはちょっと高め(普通のアパレルブランドのことを思えば普通価格だけど)。
おしゃれができる!という希望を持たせてくれるお店だと思います。


以上です!ここ最近で一番満足したのはcletteさんですね。可愛いし安いしイメージ通りだし。
夏に向けて新しい服を買いたい季節ですから、楽しく服選びが出来るといいですよね。参考になれば幸いです!

何もないところで「着飾る」のは難しい

とある記事を読んだ。自分のために着飾ることに関する、とてもエンパワメントされるいい記事だったと思う。

ただ、着飾るためのものが「手に届くところにある」のと、「まったくなにもない」状態とでは、同じような心境に至れるまでに大分違う道を辿るだろうな、と、所謂「都市部と地方の差」問題みたいなものをかんじてしまった。


田舎にはデパートもなければ素敵な古着屋とかもほぼないので、イオンやしまむらで(子供の頃なら西松屋で)同級生とかぶらないようにというそれだけを気にして洋服を買っていた。それでも被るときは被るし、UNIQLOやGUで買い物をすれば絶対被る。というかUNIQLOが近くにあるだけでありがたいことだから、もはやそこは諦めねばならない。

おしゃれな子はおしゃれだが、そういう子は親がファッション(というか子の持ち物)に気を配れるタイプで、親が県外まで買い物につれていってくれたり、お金も全額だしてくれたり、というパターンが多い。

そんななかで田舎の中流階級以下の子たちが自由に「美意識」というものをもつのは難しい。

「かわいい服がほしい」「靴がほしい」、そう言う度にからかわれたり、バカにされたり拒絶されたりしていれば(しかし小綺麗でいることも求められるので厄介だ)、「着飾る」ことについて内向的にもなる。


服は、自分の好みで選ぶものではないという意識をわたしはずっと捨てられないでいた。体に合うものを探すだけ。周囲にまぎれるために探すだけ。だるいときは親任せ。どちらにせよ選択肢がない。サイズ展開もほぼない。


小さいときからそんな調子であったが、「たくさんある中から選ぶ」ということの楽しさと、「選べる」ということから自尊心が保たれる感覚を知ったのは大学に入って都市部に通うようになってからだ。洋服だけではない。靴下まで選べる。ブラジャーの色柄も選べる!
全部選べるのである。なんと買うものの価格も選べる。すごいことである。


この感覚が分かるだろうか。
いまはネットショッピングもメジャーだが、小さいときには本当に地元で、親が車でつれていってくれる範囲にあるもので、親がお金を出してくれるものしか手に入らなかった。もっと早くから選択肢があったらな、と思う。


正直、最初に言及した記事を読んで思ったのは「選べるって羨ましい」「選べることが羨ましがられることだと気づいてなさそうなのが羨ましい」とかだった。

「何もない」場所に生まれたのはわたしのせいではない。いや、あらゆるものがないわけではない。都会に比べて「豊富にある」ものもある。しかし、「着飾ること」に関しては「ない」と言わざるを得ず、その差を埋めるのは難しい。

わたしも結構いい歳になって、出来ることも増えてきたし、選択肢があることも知っているが、地元でスマホをただ触りながらごろごろして、着飾って自尊心を上げている素敵な女性たちを指をくわえて見ているだけ、ってことしかできないときも、未だにある。

そのとき生まれるのはやっぱり嫉妬心だったり、劣等感だったりする。
記事を読んで、こういう気持ちを抱いたときに、うわーわたしって心が狭い!と思ったんだけど、しばらくこのことについて考えたりした結果、羨む気持ちがわいたのは事実だし、劣等感も刺激された。エンパワメントされた!だけの感想じゃわたしの本心ではないと思ったので、メモとしてブログに残しておこうと思う。どの記事を読んだのかは特に記すことはしない。ただ、「選ぶことのたのしさ」や「自由」をあたりまえに得られる場所がある一方で、「何もない」「選べない」場所というのは息苦しくつまらなく不満も多い場所もあるということが言いたかったのと、知ってもらいたかった。

「かわいい服」と「毛の生えたからだ」との境界線

ムダ毛の処理が嫌いだ。単純にだるいし、ちくちくする。わたしは毛量が多く、濃いので、一回剃ると、その後伸びてきたときにすごく目立つから、剃り続けてつるつるの状態を保たないといけない。でも肌がそこまで強くはないので、よくトラブルが起きる。

なので、毛を剃るのは嫌いだ。夏以外の季節は大体毛なんて剃らずに放ってある。毛自体は嫌いではないし。なんなら夏でも必要がなければ生やしっぱなしである。

必要に応じて剃るときもあるが、いつも不思議に思うのは、「毛を剃る必要」って、どこからやってくるのだろう、ということだ。



「あ~毛を剃らなきゃ」
と思うときは、「社会に見られている」と感じる場所に行くときである。ここでいう「社会」とは、単に「家の外」とか、「人が集まるところ」ではない。例えば近所に配りものに行くときは毛は剃らない。近所というのも社会の1つだが、近所の人は別にわたしの手足に毛が生えているかを何かのジャッジの基準にはしない。例えば、礼儀正しさや愛想のよさ、声の大きさなんかがわたしのイメージを左右する。
それから、銭湯もしくは温泉。銭湯に行くから毛を剃らねばと思ったこともあまりない。他人がたくさんいる場所で、全裸になるけども、「人の体をじろじろみない」ことが共通認識になっているからだ(と思うんだけどどうですか)。銭湯はいいなあとおもう。体型がどうであれ気にするところはそこではなくて、お湯がいかに気持ちいいかというところが大事。ハァ~と日々の疲れを取ってくれるそこには、毛がどうとかは関係ないのである。

ということで、どこでもかしこでも「毛を剃る必要がある」わけではないこと、それから、露出が多いか少ないかが、「毛を剃る必要」に繋がるわけではないことは分かっている。


ではどこでその必要性を感じるかというと、「毛を『人の美醜や怠惰さをジャッジするもの』とみなす」人々が多いところに行くときに、「毛を剃らなくては」と思ってしまうのである。
でなければ、「わたしは劣ったものと見なされてしまう恐怖」が心のそこに、まだある。

いくらかわいい服を着ていても、きちんとムダ毛の処理をしていなければ、袖までは「かわいい」、しかしその先に伸びる腕は「みっともない」。裾までは「かわいい」、その先の毛の生えた足は「みっともない」。
わたしからすれば、服は自分で選んで買って、選んで着ているものなのだから、その日のわたしの一部であり、服とわたしの境界線はないのだが、「毛が生えている」ということになれば、「かわいい」服と、「みっともない」肌の間に「境界線」が生まれてしまうようだ。「境界線」は、痛い。レーザーのように、ビリビリと肌を焼かれる感覚に陥るくらい、その「境界線」ははっきりとしていて、痛いのだ。
だから、チクチクしてても毛を剃る。



……いや本当は剃りたくない。本当に面倒だし、自然と生えてるのになんで剃らなきゃならないんだろう?
そういえば、毛を剃るようになった理由って、実は知らない。それが「当たり前だから」「みんなやってるから」「CMですごく宣伝してるから」以外の理由を聞いたことがない。「脱毛=美」となっている、その背景を知らないんだけど、わたしも周囲の人も、「女の子が毛を剃るのは当たり前」だと思っているのは、なぜだろう。

なぜ?と思うくらい理由が分からないのに、従わなければ「世間の目」というレーザービームで肌を焼かれる。

「かわいい服を着るなら毛の処理くらいしなよ」「毛の処理してないの?だらしない」などなど、別に悪意があるわけではなく、剃るのが普通だから言われるだけ。

今のわたしなら、「なぜ……だるい……」と思うし、剃らないという選択をすることもできるようにはなってきたけど、小中高くらい、思春期の頃は夏でも冬でも毛の処理をしないと恥ずかしいという意識があった。家の方針で処理してはいけないということになっていて、毛の処理をしてないことを隠さなければならなかったことも、恥ずかしいという意識を加速させる原因だったと思う。
あの頃は、「なぜ?」と思うレベルにもなくて、ただただ「毛は剃るものだ」「毛が濃いのは恥ずかしいことだ」という意識だけがあった。

しかし、あの頃の意識がどこから来ていたものか、今振り返っても分からない。



学生服を着たり、フェミニンな格好をするとき。つまり、見た目が「女らしい」状態であるときほど、それらの衣服と肌の「女らしさ」のコントラストがはっきりする。女と男をはっきりと分ける、学生服。女であるわたしは、「女子学生」の制服を着るから、着ている部分は「女」である。だから、肌も「毛を剃って」、「女」にしておかないとちぐはぐだ。このちぐはぐさが、「恥ずかしいもの」とされているのかな?家や近所でユニセックスな服装をしてだらだらしているときも、わたしは女であるが、肌を「女」にしておく必要は感じていない。清潔ならそれで良いし、毛が生えてるかどうかは清潔さとはあまり関係がない。


ユニセックスな格好でだらだらとしているとき、わたしは女らしいとかそうでないとか考えていない。さあ、でかけるか、とかわいいワンピースを出してきて、着替える前にムダ毛処理をしているとき、「あれ、なんでわたしは今これをしているのかな?」と思う。「面倒だなあ」と思う。だけど、「まあ最低限は……」と服からでていて見えるところの毛は剃る。そして服を着て、服と融合する。「女らしい」に向かって繋がってゆく。「あーからだと服と繋がったな」と思い、敗北感というか、ちょっとげんなりしながら、社会に出ていく。
面倒くさがりで全部の毛は剃らないから、実は服に隠れて見えないところに境界線は残っている。その境界線がばれぬよう、そーっと過ごす一日は、あまり楽しくはない。


わたしのからだには境界線などないはずである。
服はある種、社会と繋がるための手段だったり、勇気を与えてくれるものだったりする。
だけど、服を着た瞬間に、からだに境界線が現れ、からだが社会からはじかれるようになってしまう時がある。その時の要因の一つとして「ムダ毛」があると思う。
そんなにムダ毛ってダメなものなのだろうか?理由がやはり分からない。分からないけど剃らないとなあと思ってしまう自分が、ちょっと怖い。
「絶対にムダ毛を剃らない!」という考えではないが、「絶対にムダ毛を剃らなければならない!」という考え方は全くしていないので、どうしたものか、と思う最近です。

もう夏だから、露出も増える頃だし、余計に考えてしまうね。

「かわいい」、だからどうした

「かわいい」について、このブログでは過去にも幾つかの記事があり、わたしのなかで長~く考え続けているトピックであるが、ここのところ、また「かわいい」について考え直している。

きっかけは、中国で放送中の、アイドル選抜サバイバル番組「青春有你2」を観たことだ。レッスンの先生に、KPOPアイドルのBLACKPINKリサが参加すると聞き、興味を持っていたら、練習生として、DREAMCATCHERのハンドンとNATUREのオーロラも参戦するとのことで、推しが言語の壁によるハンデなしのステージにチャレンジするぞ!!と興奮して、ネットを介して観た(公式にYouTubeチャンネルがあるのだ)。最初の方だけだけど。

観るのをやめた理由は、「サバイバル」という形式と、「人間の生活を隅々までエンタメとして見せる&観る」のが楽しすぎて怖くなってしんどくなったからだ。実はPRODUCEシリーズも同じ理由でドキュメント部分は全く観ていない。グループ単独の「リアリティー番組」とかも観てない。


まあそれはさておき、でも最初の方は観ていたわけで、そこで頭も心も価値観も、全てをガツンと殴られるような出来事があった。

青春有你2では、所属や経歴、見た目で、放送前から既に話題になっていた人たちがいた。その人たちはそれぞれ、「既存のかわいい」「若い」「アイドル」とは違っていた。なので非常に多様な人々が、多様なアプローチでサバイバルを繰り広げるのかな、と思っていた。
で、事務所別の最初のレベル評価が終わったあと。練習生のなかでも、一際目立つ「イロモノ」組がいた。リーダーシップを取ったのは、frank shangguan。
参考(サムネの人ではないからイントロだけ再生してもらいたい)
youtu.be
ベリーショートで、ばさばさと横に長い睫毛、細い眉、赤いリップ。正直ちょっと怖い。そんな人が、グループのメンバーに語ったのが、「女の子には必ずそれぞれのかわいさがある」「かわいさはひとつではない」「わたしたちがどんな姿であれ、かわいくできる」「かわいさを諦める必要はない」(超意訳)ということだった。自分達に、自分達の「かわいさ」に自信を持てていなかったメンバーは、その言葉にエンパワメントされ、笑顔で練習を始めたのである。frank shangguanさんの強い意思と言葉は、見た目では対極にある他のメンバーの心を動かし、笑顔にした。素晴らしいことである。
しかし、それに対してyu zhangというメンバーは「かわいい?いやいや」みたいなことを言っていた。なんか何を言ってたか忘れちゃったんだけど、忘れるくらいあっさりと「ない」みたいなことを言っていた。

それがびっくりした。そして思った、この人は「かわいい」の枠に入れてもらって、他の「かわいい女の子」と一緒の土俵に上がって評価されることを求めているわけではないんだと。


yu zhangさんは、番組が始まる前、参加が公表されたときに犬みたいって言われたらしい。髪の毛は細かいパーマでもふもふ、化粧っけもなく、目が大きいわけでもない、「かわいいアイドル」とは無縁そうな人だった。
参考 
youtu.be


なんでこの人が「アイドル」に?
と思った。そうして、そこで思い至った。

「かわいいは作れるってわたしは思ってきたけど、かわいいを作ったそのさきに待っているのは『地獄のジャッジ大会』だったよな。かわいいを作らず、『かわいい女の子』と戦う(もしくは連帯する)というのは、どういうことだろうか?そもそも、『かわいいを作る』というのは、全ての人にとってのエンパワメントとして正しかったのだろうか??」



この前ブログで書いたけど、わたしは今「かわいい」から降りかけていて、自由だ。かわいい服は好きだし、身に付けるけど、わたし自身が「かわいい」ではなくなっているようだ。とてもすがすがしい。デブって言われるのがちょっと嬉しいこの頃だ。
しかしだからといって、他の人たちにまで「デブ!」と言っているわけではない。わたしにとっては解放のひとつであった「デブ」という言葉は、一般的には罵詈雑言であり、人を深く傷つける言葉だということは知っている。身に染みて知っているから絶対に言わない。じゃあなんて言うかというと、「かわいい~!!」である。

いや「かわいい~!!!」って、おまえ今、ちょうど今それを言われなくなって嬉しいんだろうよ、なにを思って人に自分が言われたくなくなった言葉をかけているのよと思う。思うがしかし、「デブ」より「かわいい」の方が喜んでくれる人がいる。比較して「かわいい」の方がましかな、とかではなく、「かわいい」が本当に嬉しいとか、そもそも「誉められること」がない、なので比較的毎日工夫しているところ=ルックスを誉めてもらうと嬉しい、という場合があるのだ。

ちょっと前のわたしはそのタイプだった。別に心底から「世界的スーパーモデルになれるくらい身体のどのパーツも整っていてバランスがよく美しいわたし!!!」なんて思ってもいなかったし、なんならコンプレックスだらけであるが、あえて自分を自分で「かわいい」と「誉め直してあげる」「誉めてほしいと他人にも要求する」ことが、自尊心の建て直しや、消化しきれていない幼い頃からの鬱屈、物事に対して消極的にしかなれない自分を「自慢の自分」ぐらいまで持ち上げてあげることに繋がるのだと思っていたから、せっせせっせと自分誉めをしていた。これはこれで楽しいのであるが、次に立ちはだかるのが、「かわいくないとダメなのか」「『かわいい』の定義を広げるということは、血塗れの戦いが繰り広げられている土俵の領域を広げるということでは?」「土俵が広がれば広がるほど、降りられないのでは???」ということだった。



先日も書いたが、わたしは早く「若い女」の土俵から降りたい。デブでいいです。でも楽しく生きてはいきたいし、人生デブなときもあれば痩せてる時もあるのが当たり前だと思うが、その体重の上下に合わせて土俵に乗ったり降りたりを無理矢理させられるのはダルすぎる。はやいとこ楽しく自由にデブでも痩せててもかわいくてもそうでなくても暗示を用いても用いなくても生きていけねえかなあと思っていたのだった。


そんなことをつらつら考えているときに現れたのが、yu zhangさんだ。「かわいい」が評価される土俵に現れた、「かわいい」を求めない、「かわいい」ではない人。他人にも「かわいい」を求めない人。

そしてこの記事にもであってしまった。
高島鈴さんの連載第六回「笑う流浪者、あるいはルッキズムに抗うための破壊」である。
http://www.ele-king.net/columns/regulars/alternatives/006924/

まさに、わたしの考えていた救いと苦しみとの拮抗が表されていた。読んでちょっと泣いた。

で、ここで少し後半を引用したい(引用するが、面白いから全文読んでほしい)。

"見た目が泥でもそれはただの選択肢のうちの一つだ。あなたが存在することに誰一人けちはつけない、誰もが「よい/悪い」のベクトルに進んで乗らねばならないいわれはないのである。"
"汚い格好をしろという意味では全くない。強く切実な覚悟を持って美の世界に身を置く人を否定するものでもない。この社会で生きている限り身の内に溜め込まざるを得ない見た目にまつわる規範と批評とベクトルを、きちんと捨てたいということだ。"


それからぐさっときたのは、能「蝉丸」で、蝉丸の姉である逆髪という「狂った女」を、"理解はしているのだ、ただそこに迎合せず"と表しているところだった。


そう、わたしは、そして周囲の人たちは、「理解はしている」のだと思う。「かわいい」姿であることの、気高さと、惨めさと、苦しさとを。

だからわたしはわたしに「かわいいねこのデブ!」と思うし、自己肯定感アップさせるパーソンとして「○○さん今日もかわいい!!」と言ったりしている。

それがエンパワメントになっている人もいるし、余計な縛りになっている人、逆に誉められたからこそ惨めだったり、コンプレックスになってしまう人もいるだろう。その区別を付けて、わたしは「かわいい!」と言うか言うまいか決めているが、そう、ここでの大きな問題、というか今日のブログの本題ですが、「なんでおまえがかわいいと言う/言わないのジャッジをしてるんだ、何目線?何様???」ということである。


いやもうほんとに、わたしは何様なのか。
わたしに誉められたら嬉しいだろうなって何様なんだ、クソじゃん…でもわたしが素直にかわいいと思ったものをかわいいと口に出すだけで、救われてくれている人がいるなら、わたしが存在する意味もある、が、自分の存在価値を他人のそういった安心や喜びに立脚させてしまっていいのか、他人を揺るがす部分にどっかり座り込んでいいのか、等と思い始めると止まらない。


どうしたらいいのだろうか。
frank shangguanさんならどう言うだろうか。yu zhangさんならどう考えるだろうか。高島鈴さんなら?お三方の年齢は調べてなくて分からないのだが、恐らく20代ではないかと思うので、同じように20数年生きてきて、全く違うスタンスを取った二人と、それを観ていたわたし。20年以上かけてもまだ未熟なこの気持ちを、どう扱えばいいのだろうか。どう扱われたいのだろうか。



「かわいい」、だからどうした。
社会が多様になってきているなかで、ひとつの単語のみでエンパワメントできるはずはない。だからといって、社会の多様性に合わせて言葉の意味を無限に広げていくのも、よくない気がする。どこまで行っても何をしても、ひとつの言葉にからめとられて包み込まれるのもいやだろう。エンパワメントのもとになる言葉を細分化して、沢山作ってみたらどうだろうか?比較できないジャンルから、色んなものをひっぱりだしてきて。

うーん。



ここのところ、悩んでいることである。ほんと。
そしてわたしは何目線?何様なの?というところを非常に気にしていかねばならないと思う。自戒。何かしらの考えが浮かんだらまた書きます。じゃ