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BL、生活、その他いろいろ

にきび

 きびが出来ました。口の横っちょに、白い膿がぷくっと溜まる、典型的なにきびがぽつんと。

 

 にきびが出来た時、鏡を見ながら思い出すのは中学生時代のことです。その年齢の頃って、みんな多かれ少なかれにきびに苦しむ時期ですが、わたしも鼻の横とか、おでことかにぽつんとできることもありました。友達の中で一番にきびが多い子は、常に顔に白い膿の塊が3つくらいあって、痛そうだなあと思っていた記憶があります。わたしはにきびをすぐ潰しちゃうんだけど、その子は潰さずに、きちんと毎日薬を塗ったり化粧水で保湿したりして、膿が自然ところんと取れるまで丁寧にケアしてる子でした。顔には出来立てのにきびも治りかけのにきびもあって、一つ治ったら次のにきび、一つひどくなっても他のは綺麗に治る、みたいに繰り返していました。

 

 その子ってにきび以外のことについてもそうで、じっくりケアすることができるし、それをそっと置いておくことも出来るみたいなイメージのある子でした。出来る、というか、ケアしたりそっと置いておくことが当たり前だし、それにリソースを割ける。周りの人も当たり前のようにそうやっていて、お互い支あいながら出来る環境にいる子って言ったほうがいいかもしれません。あの子はそういう環境で育ってる子なんだな、いいな~と中学生の時から思ったりしていたのでした。

 

 わたしはそれは顔にぽちっとしたのが存在するのがいやで、見つけ次第なくしてしまいたいし、多少痛くても気にせず、潰したほうがらくちんだし、わざわざ薬探しに行って買うものなんかやだし、もし将来跡が残ったらファンデーションとかで隠してしまえばいいかな、と思うのですが、なんとなく、それがわたしで、そしてあの子との違いなのかもしれない、とぼんやり思うのでした。

 

 

追記

さっきお風呂に行ったら、えっこんなとこにもにきびって出来るの!?みたいな変なとこにもにきびができててびっくりしました。みんなもこういうとこににきびが出来たりするのかな、もしあの子も同じ所ににきびができたことがあるなら、なんか親近感わくな、と思いながら潰しました。

Perfumeのライブに初めて行ってきた!

 日、Perfume10周年記念ライブの最終日に参加してきた。わたしは基本家で曲を聞いたり動画を見たり情報を追いかけたりする、いわゆる在宅ヲタで、ライブに行くのはハードルが高いなあと思うタイプだったのだが、ありがたいことに知り合いの方に声をかけてもらい、思い切って参加してきた。

 

 感想としては、めちゃくちゃ良かった!!!に尽きる。めちゃくちゃよかった!!!!!

ライブ当日までもかなりうきうきそわそわしていたのだが、会場についてからライブ開始までの40分くらいの間ももう恥ずかしいくらいあわあわしていて、ああリアルタイムでライブに参加するというのはこんなにドキドキするのだなと思った。ライブ開始後、舞台に登場した3人を見た瞬間は非常に興奮したのだけど、特にかしゆかちゃんの髪の毛の一房一房が光にすかされてくっきり見えた瞬間、なんて神々しい!こんなものをこんなに近くでくっきりと見ているなんて!!なんてすごいものを見ているんだ!!とおそろしいほどの感動に心臓が痛くなり、もう死ぬかもしれないだめだ帰りたい、と思った。いや帰らないんだけど。

在宅ヲタ的に一番驚いたのは、モニターで見るよりも肉眼で見るほうが画質が良かったということだ。席が舞台から50mほどの距離といういいかんじの場所だったこともあるけども、肉眼!肉眼ってすごい!!ととにかく感動した。

ライブに行ったら、絶対泣くと思ったんだけど、実際行ってみたら、泣いている暇なんかなかった。動画や画像とは違い、ライブは巻き戻しも一時停止も出来ない。一瞬でも目をそらしたらなにかとても素敵な瞬間を見逃してしまうかもしれない。そう思うと、泣いて視界を曇らせることなんて出来なかった。最初から最後まで、うるっときても気合で涙を引っ込めて目を凝らして3人を見ていた。それから終わった後にちょっと泣いた。

 

 私は普段Perfumeを女神さま.....!!と拝み倒しているのだけど、ライブに行って、ああ3人は生きているんだなあと思った。女神のように美しいという認識は変わっていない。むしろ、生きて私の前に存在しているということが更に尊さを感じさせ信仰を深めることになったようにも思う。ライブ中も気づいたら胸の前で手を組んで拝んでいた。胸が苦しすぎて祈るしかない...!って瞬間も多かった。

ただ、私がどれだけ3人を女神と奉っていても、神聖化してコンテンツ化していても、3人は人間なんだなあと思った。

 

 10周年ということで、ライブの最後に、あーちゃんが今までの活動を振り返ってコメントするというシーンがあった。インディーズ時代も含めPerfumeというアイドルは15年間活動している。「自分たちがしたいことができるようになるまで」やり続けてきた、疑問に思いながらやった仕事もあった、というようなこと

Perfume、地元広島で10DAYS完走「ほんまにもう幸せ」 - 音楽ナタリー

を言っているのを見て、私はとても嬉しくて、苦しかった。

(追記 後からゆうりさんという方のエントリを読んだのですが、こちらのほうが詳しかったのと、ほんとにそうですよね....って思ったので貼っておきます。)

pa2mceb.hatenablog.com

 

 Perfumeが、まだ「アイドル」でいてくれることが、まず嬉しかった。最近のPerfumeは、「テクノポップユニット」と言われることが多く、パフォーマンスのクオリティの高さや、最新技術を使ったステージ、大人っぽくスタイリッシュな衣装なんかを売りにしていて、「アイドル」というものとは一線を画している、というイメージが強かった。それは少し残念だったが、アイドルが26、27歳まで活動しようと思ったら、「アイドル」から抜け出すことが必要なんだろう、という諦めがあった。

 

 「女性アイドル」の地位は低い。年齢が低いということもあるのだろうか、テレビなんかではいつまでたっても添え物扱いだったり、見た目だけのバカで変な女の子という扱いから抜け出せなかったりする。ゲストとして迎えられているはずなのに、嫌な弄られ方をしたり、司会を喜ばせなければならなかったりする。仕事も結構きつい。水着や露出の多い衣装で胸や足を強調したグラビアを撮ったりするのも普通だし、パフォーマンスでは大人と同じようにプロであることを求められる一方で、制服を着たり幼さや無知さなどの「若さ」を提供しなければならない。ばかみたいな仕事も笑顔でやっている。そして、「若さ」がなくなったころ、彼女たちは「アイドル」を卒業する。卒業しなければならないという「常識」ができてしまっている。

 そういった今の「アイドル」としての現状を打開し、長く続けていくには、「アイドル」から抜け出す必要があるのだろうな、と常に思っていた。逆に言えば、「アイドル」でいつづけるかぎり、「アイドル」という縛りから自由になれず狭い世界で活動していくしかないんだろうな、とも思っていた。だから、Perfumeが「アイドル」から「ダンスユニット」になっていって、曲調がかわいい感じのものから大人っぽくかっこいいものばかりになっていっても、仕方ないと思っていた。

 

 だけど、Perfumeの3人は、アイドルでいてくれた。そしてアイドルとして活動しはじめて15年、10周年を迎え、今後も活動していくという意志を表明してくれた。それがものすごく嬉しかった。これはものすごく貴重なことなのだ。10周年ライブの、最終日に参加し、そういう言葉を聞けたことはものすごく素晴らしいことだった。あーちゃんが泣いているのを見て、めちゃくちゃ胸が苦しかった。ライブ中は耐えたけど終わった後じわっときて泣いた。Perfumeの将来と、アイドルの将来を思ってほんとうに嬉しくて痛かった。

 

 アイドルがアイドルとして10年以上活動するというのは本当に稀なことである。「アイドル」であった頃を恥じることなく、その時のかわいさもあり、現在の大人っぽさもあり、古参から新規まで幅広いファンを楽しませてくれるというのはものすごいことだ。若さだけを売りにしてない。体を売りにしてない。ダンスと、歌と、笑顔で15年。ほんとうにすごい、ありがとうとしか言えない。

私はアイドルの活動期間や成人したアイドルについて語るとき、Berryz工房の「普通、アイドル10年やってらんないでしょ!?」を思い出す。正直リアルにつらい。詳しくは動画を見てね。

www.youtube.com

Berryz工房は今年の3月で、11年の活動に幕を閉じた(追記 幕を閉じたと書いたが、「無期限活動停止」であり解散ではない。メンバーの熊井友理奈ちゃんが最近王様のブランチのリポーターになったのだが、その際「Berryz工房熊井友理奈」という自己紹介で、テロップでもそのように出ていたらしく私は嬉しい)。ハロプロメンバー入りのときから数えれば13年である。そのあと、ももちこと嗣永桃子ちゃんは、新ユニットのカントリーガールズに移籍して今も活動してるんだけど、カントリーガールズとして10歳年下の子と活動する中で、年齢のこと(もう若くないんだということ)、「アイドルの賞味期限」について度々言及している。若くないって言ったってまだ23歳である。23歳!若いよ!それでも、アイドルといえば中高生というイメージだし、一番美味しい時期は「17歳」とか言われてるし、18歳のメンバーたちも既に将来に不安を持っているということを考えると、「アイドル」業界で「23歳」という年齢は厳しいものなのだろうと思う。

 

 若干話はそれたが、そう考えると、26、27歳の3人が今までアイドルとして、そしてこれからもアイドルとして活動していくということがものすごいことなんだと思う。「アイドル」ファンは、自分の推しがいつ卒業してしまうのか、常に不安を持っている。来年だろうか、いやもしかしたら今日かもしれない。恋愛とかがスキャンダルとして取り上げられてしまえばもう次はないかもしれない。非常に不安定で、シビアな世界だ。応援したくても、応援できなくなる日が来るかもしれない。年齢なんて、恋愛なんて全然気にしてないのに。大人になる君たちを、歌って踊る君たちを見ていたかっただけなのに。脱がなくてもいい、バカを装わなくてもいい。周りに気を使わず自信を持って堂々としているだけの実力があるのに。変な衣装を着せられて変な台詞を言わされなくてもいい。一番魅力的にみえる姿にしてくれるスタッフや環境でのびのびやっていてほしい。

 

 そういうファンの願いまでも、叶えてくれるのが今のPerfumeだった。すごく貴重なのだ。すごく素敵なのだ。魅力的で、笑顔が可愛くて、ダンスが上手で衣装が可愛い。スタッフも凄腕ばかりで、常に本人たちのよさを引き出すプロモーションが出てきている。努力して、成長して、そういう風になっていく姿を見ていけた。正直、そういう過程まで含めてコンテンツとして楽しむことに罪悪感はある(この話はまた後日改めてしようと思う)。しかし3人はそういう私の勝手な罪悪感をも吹き飛ばすくらいのしっかりとした経験や努力を積み重ねてきていて、強く、輝いていた。そんなアイドルのファンでいれて、本当にうれしい!!!!!と改めて実感した一日だった。超楽しかった。

 

 

追記 

あまりにもライブの様子をレポートしていなかったが、セトリはもちろん、「すごろく」も面白かったし、なにより照明やレーザービームの演出がすごかった。これに関しては私が文字で説明するよりも映像で見たほうが絶対にいいと思うので、DVD見てください。WOWOWでの放送もあるよ。一つだけ言うとしたら、Seventh Heavenの時に、レーザービームので星空のようなものが三人の足元に広がるという演出があったんだけど、それが息を呑むほど美しかった。これが映像になるとしたら、きっと上からのアングルで撮った、3人が星空の上に立っているように見える映像になると思うんだけど、私はアリーナのコート?の方にいて、舞台の上の三人を見上げる形でいたので、自分の頭上に広がるレーザービームの星空を下から見ていて、そしてその美しい星空越しにPerfumeの3人を見るというものすごく幻想的なシーンを見ることが出来た。まさに天国へ....って感じで、そこが私の中での一番の演出だった。

Seventh Heavenに限らず全体を通してもうほんと幻想的すぎて、終わった後も、えっ終わったの...えっ3時間も経ってるの!?嘘だここだけ時空ゆがんでるんじゃないのって思ったし、アリーナを出て「ご飯どうします?」って聞かれた時に、あっそういえば私ご飯食べないと死んじゃうんだった現実を生きてるんだったわ、みたいなかんじで、人間として日々活動してる現実を忘れてたくらい茫然自失というか、もう夢見心地で、ホテルでこってりカップラーメン食べたあたりで、やっとあっそうそう私こういうごはん好きな俗物でしたわ...って思いだしたくらい、もうほんと余韻もすごくて今思い出してもあれが現実だったのかちょっと自信ない。ていうくらいすごかったです。

かわいい人には「かわいい」って言っちゃうんだけど

 わいい人が好きだ。かわいいの基準は色々あるけども、見目がいいとか、しぐさが愛らしいとか、性格が魅力的だとか、とにかく私のこころにきゅーんとくるものがあれば、「かわいい!」と言ってしまう。アイドルも好きだし、身近な人でかわいい人がいればそういう人たちも好きだ。自分の感じたことは素直に表現していこうと思っているので、「かわいい」とか「きれい」だとかいうこともすぐに口に出して言っている。かわいい人にかわいいと言うのは、かわいい服や花にかわいいと言ったり、天気が良い日に天気がいいなと喜んだりだとかと同じかんじでただ感動し感想を述べているだけというか、自分的にはあまり気負いや違和感はない。きれいだな、かわいいなと思ったらそれがするっと口から出るし、そうやってストレートにものを表して人に伝えるというのはいいことな気がする。

 

 と、思っていたんだけど、最近、花や服や天気について「いい」と言うこととおなじような気軽さで、人に「かわいい」と言ってしまっていいのか、と疑問を持つようになった。きっかけは、「かわいい・綺麗と言われることに抵抗がある、嫌な気持ちになる、怖くなる人がいて、その理由・背景は様々だ」ということを知ったのと、「自分の気持ちを表す」ということに対して、今までとは違う方向から考える機会があったからだ。

 

 今までも、かわいいと言われるのがいやだという人がいるのは知っていたし、「外見で人を『評価』すること」についても良く思っていなかった。「ルッキズム」、すなわち外見至上主義だとか人の見た目で差別をすることには嫌悪感を持っていた。「ただしイケメンに限る」とか、「綺麗な女は得をする」とか、そんな失礼で馬鹿な話はない。それから、見た目のよさを性的な価値に結びつける視線も嫌いだ。自分よりかよわい存在という意味の「かわいい」もきらい。でも、ただ単に綺麗なものを好きになったり、綺麗なものに綺麗だと思うことや口にすること自体は悪いことだとは思っていなかった。何を綺麗だと思うかというのは人それぞれということもあるし、外見も一つの個性だと思うから、誰かのある部分について、それぞれなにかしら思うことは別によくないことじゃない。なにか一つの基準を絶対的なものとして、他人の価値や優劣を決めるのでなければ自由だと思う。

私やっている、誰かを「かわいい」と思い、口にだすことは、人を怖がらせることだったり、ルッキズムだったりには当てはまらないと思っていた。その人を可愛いと思っていたからといって、悪意はないし、その気持ちがその人との関係の結び方や状態に影響することはないし、ほかの人と比べてどうこうということもないからだ。そもそも私の「かわいい」は見た目だけのことではない。それから、わたしのなかでかわいさと、性的なものやかよわさの程度というのは結びついてもいない。

 

 わたしの「かわいい」という気持ち。ルッキズムとも、性的な視線とも結びついていないけども、結びついてなければなんの問題もないんだろうか。ルッキズムに結びついていない「かわいい」であれば、言われた人は嫌な気持ちにはならないだろうかと考えてみたんだけど、いや、そうでもなくない?なんか違う気がする、と思った。

 「かわいいと言うこと」を、「誰かの見た目や状態について本人に指摘すること・感想を述べること」という風に捉えてみると、それ自体がそもそも相手にとっては気持ちの良いものではないんじゃない?

 

 そういえば、私は「自分の状態について指摘される」のがものすごく嫌いだ。体調の良し悪しを悟られて、口を出されたり気遣われるのがいやだし、メイクとか髪型とか、そういう日々の変化を見られるのも抵抗がある。指摘されることも好まない。何が嫌なのかいまいちよくわからないけども、いちいち煩いなとか、だからなんなんだよ放っておいてよと思ってしまう。顔色悪い自覚はあるよ、メイクも今日はしてないよ。たしかに事実だ。でもなんでわざわざ言うのさ、というような。誰に対してもそう思うわけではなくて、例えば家族に体調について言われるのは平気だ。ただ心配されているんだと分かるし、私の体調によって日々色々と対応してもらっているので、それに対して家族が敏感になっているんだろうということも分かっているから。でも、特に親しい訳でも、私の体調不良の理由を知っているわけでもない人に、体調について指摘されるのはなんだか居心地が悪いし、いらっとするときもある。すっぴんブスとか言われてももちろんふざけんなよってなるけど、今日は体調よさそうだね、すっぴんもいいね、と褒められてるような場合であってもなんかもやっいらっとする。その指摘がどういう意味を持っているのかわからないと疑心暗鬼になる。私が体調が不安定だということにコンプレックスがあり、それについてよく知らない他人に指摘されることを許容できないというのもある。

 それから、心配されているということや、その気持に毎回応えなければならないということって、ものすごく負担になる。私の体調不良は、他の人みたいにたまに起きるというようなものではない。常にどこかしらなにかしら具合が悪い。顔色も良くない。もう私にとっては具合悪いのが当たり前になっていて、いちいち心配することでもないんだけど、他の人からしたら多分そうではないんだと思う。だから気になったり、心配になったりして、声をかけてくれたりするんだけど、私にとって日常であることをわざわざ取り立てられて指摘されるのってうっとうしいし、それに対してありがとうと言ったり、気を使わないといけないのも割りとめんどうだ。体調悪いときって人に気を遣うだけの力がない。心配されたって体調が良くなるわけでもないし。気持ちはありがたい。ありがたいとは思うんだけど。

 

 つまり、自分の状態や見た目について、他人に指摘されるというのは、相手の意図が見えない場合はなんだか居心地が悪いし、たとえ善意で言われていた場合でも、煩わしい時がある。指摘された部分が、自分にとっては当たり前で、常に変わらない部分であればなおさら、そこを特別取り立てられて、意味を持たされて毎回同じようなことを言われるのは面倒だろうと思う。

私の場合と「かわいい」を一緒にしていいのか分からないけど、見た目について言われるという部分で同じであるなら、私と同じように感じている人もいる可能性があるのではないかと想像してみた。言う側にしてみればなんということもない発言だとしても、言われる側からすれば居心地が悪かったり鬱陶しかったりするのではないだろうか。

私が普段接していて、「かわいい」と伝えるような相手は、「かわいい」存在であるアイドルでもないし、意志のない花でも天気でもないんだから、きっと何か感じてると思う。嬉しいと思ってる人もいるかもしれないし、なんでわざわざかわいいかわいいって言われなきゃならんのだと思っている人もいるかもしれない。感じなくなるくらい言われてるかもしれない。いやわかんないけど。とにかく相手にも気持ちがあって、そう感じるようになった背景がそれぞれにある。

 

 それから思ったんだけど、そういう言葉を、単純に善意やプラスの気持ちから言われたとしても、その善意を読み取って受け取る義務って別にない。性的な目線や憐れみからの気持ちであっても同じで、相手の意図を汲みとってあげたり、受け取ってあげたり、許してあげたり、相手の満足のいくような対応をしてあげる必要なんてない。相手がどう思ってようが知ったこっちゃないと言えば知ったこっちゃないじゃん。

 気持ちを表すということ自体は無害に思える。その気持ちに悪意がなければなおさら問題ないように思えてしまう。しかし、その気持ちをを受け取るよう、相手に求めるのはどうなのだろう。これは見た目についての指摘についてだけではなく、「表現する」ということ全体に言えることかもしれない。相手の表現を理解しようとすることって、結構労力を要する。表現には「表」だけでなく「裏」もある。この人は善意で言っているのだろうか、それとも何か見返りを求めているのだろうか、素直に受け取ってしまって危険はないのだろうか、どういう対応をすればいいのだろうかと、色々考えなければならない「言葉」というものがある。言う人の背景によって意味の変わってくる「言葉」がある。例えば「かわいい」という言葉がそう。わたしはかわいいという言葉を悪意なく使ってるんです、下心もないし見返りも求めてないんです、と思っていても、口に出して説明したとしても、それが相手にしっかり伝わる保障はない。いろんな言葉や感情が、ずれることなくしっかり伝わるような関係性が築けていればいいけど、そうでなければ非常に危うくストレスフルな言葉になってしまうかも。そもそも、私の気持ちをきちんと受け取ってくださいと、相手に強いてまで伝えるべき言葉なのだろうか。伝えたいと思う関係なのだろうか。

どのような言葉も、感情も、すべての人に無制限に無償で受け取ってもらうのが当たり前だと、私は無意識に思ってしまっているのではないだろうか。そしてその姿勢は、自己中心的で暴力的ではないか?

かわいいんだから、わたしの「かわいい」という気持ちを受け取ってね、否定しないでね、悪意はないから許してねって、そういうのって結構図々しい(悪意や下心があれば尚めんどう)。

 

 

 相手に気を使わなくてはならないとか、必要ないことは言わないほうがいいだろうとかいうことではない。自分の感じるまま感じることも、表したいことを表すのも大事なことだし、やっていきたいと思う。良好なコミュニケーションのためにそれらを必要とする人間関係もある。ただ、表現するときには、それが善意のものであれ、それぞれ相手がいるということ、それから、表現することとそれを受け取ってもらうことは別物だということを自覚しておきたいと思った。ただそれだけのことなんだけど、書いてみると当たり前のことだったんだけど、それがすっかり頭のなかから抜け落ちてしまう場面があったと気づいた。それが私にとっては「誰かにかわいいと言うとき」だった。

 

 

ふりふりの服を処分してしまった

 近シンプルな服を着ることが多くなったので、数年前に買ったふりふりのワンピースとかがタンスの肥やしになっていた。とても好きな服だったし、自分にとって少し値段の高いものを頑張って買ったという思い出のある服ばかりだったら、捨てるのも嫌だなあと思いながらも、結局ずっと着ないままだったので、思い切って人にもらってもらうことにした。

 

 新品というわけでもないから、気軽な仲の女の子にもらってもらうのがいいかなと思って親戚をあたってみたけど、年下の従姉妹たちはふりふりが好きではなかったので、母に頼んで、知り合いの方の娘さんとかで服を引き取ってくれる人がいないか探してもらった。

 

 そしたら、母の同僚の女性がもらってくれるということになった。

ちょっと驚いたのは、その方が母と同い年かそれより上の方だったということだった。私の服は、高校生とか大学生向けのブランドの、ふりふりレースだったり、ロリイタちっくなものだったし、きっともらってくれる人は高校生くらいの人だろうなと思っていたので、予想外の方から声をかけてもらってびっくりした。

その方は、以前から母の話によく出てくる人で、自分と同じ年代なのに若い格好をしていていて、だけどそれが無理なく似合う、おしゃれな人だと聞いていたので、だからもらってもらえたのかと納得もしつつ、若い格好ってそんなにまで若い格好だったのかー!と驚きつつ、とにかく引き取ってくれる人が見つかってよかったなーと思いながら服をお渡しした。母によると、渡した中に普段好んで着ておられるブランドのものがあったようで、とても喜んでもらえたらしい。

 

 わたしが今回引き取ってもらったような服を着なくなったのは、年齢的にどうなのかなあという気持ちが芽生えてきたからだった。ふりふりした服を着ていた時期も、老け顔のわたしにはあんまり似合ってないんだろうなあと感じていたし、歳を経るごとにそういった違和感は増していって、服と年齢のギャップを埋める努力するのも面倒だな、もう無理があるんだなと諦めて、人に譲ろうと決めた。今の歳でもこんなに違和感を感じるのだから、手放しちゃったらもうこの先着ることはないだろうと思うと残念で、ずっと躊躇っていたけどあげてしまった。

 

 だけど、服をもらってくれた方が年上の方で、年齢とか関係なく、好きな服を着ているのを見て、私もまた将来、こういう服を着るときがあるのかもしれないなと思ったら、なんだか楽しくなってきた。トレンドも移り変わっていくし、すべての年代の人がレースもりもりの服を着るときがくるかもしれない。そうでなくても、自分が好きな服があったら、その時の自分が好きなように着ればいいのかな、自分にあった着方をすればいいのかなと思った。若い人向けだからといって、若い着方をしなくてもいいんだし。

 

 そういえばこの前、久しぶりにSHOW-YAを見た。それで、わたしは昔SHOW-YAにあこがれていたんだったということを思い出した。職業だからとはいえ、時が経ってもずっと変わらないファッションをしているのがとてもかっこいいと思っていて、わたしもそうなりたいと思ってたんだった。知らないうちに、年齢が...とかって後ろめたさのようなものを感じるようになってしまっていたな、いつからそういう風に考えるようになったのかな、と不思議になった。

 同年代の人たちが、家庭が、子どもが、仕事がどうこうという話をしはじめるようになって、なんだか時間と年齢に追われているような気持ちになっていたのかもしれない。私も早く、年相応にならなくては、人並みに追いつかなければならない、という気持ちに。周りの人が当たり前のようにクリアしていっている人生のステップを、わたしは後から遅れてたどっているので、それをコンプレックスに思い、なんだかひどく焦ったりせかされたりする時がある。

私だけじゃなくて、きっと殆どの人がなにかしらに追われて急かされて生きているんだと思うんだけど、ただでさえそういう世界なんだから、服装とか、自分の好きなことくらいに関しては、ゆっくり自分のペースで、行ったり来たりもしつつ、やっていけたらいいなと思った。

 

 その人に服をもらってもらえてよかったと思う。

最近のわたしはジェンダーを脱いでフェミニンを着られているのかという話

 最近、GUで買ったボーダーのカップ付きシャツに、通販で買った赤のカーディガン、昔ユニクロで買ったダメージ加工ジーンズ、足元はキャンバス地のとんがりぺたんこ靴、という服装をよくしています。一年前から考えるとありえないくらいカジュアルで安上がりで楽ちんな服装になりました。

 

 数年前からのフェミニン好きは今も変わりませんが、一年前ほど前までは、過度なフェミニンファッションというか、ちょっとどこかに行くのでも、デート着とか言われるようなふりふりかっちりお値段もそこそこ、手洗いかクリーングのみ可、みたいな服装をしていたんです。ジーンズとかヒールのない靴とか絶対身につけない、ファストファッション?安くて大量生産で若い子がよく着ていてトレンドに乗っかりすぎててどれもこれも似通ってるじゃん!みたいな服がすごく嫌、という感じで、寒くても暑くても、足が痛くても肩が凝っても動きにくくても手入れが面倒で気を使うものでも、きっちりした格好がいい、と思っていたのですが、ここのところそのこだわりというか、気持ち的な縛りみたいなものが弱まってきていて、出来るだけ楽なのがいい、ブラしなくていいならしないし、すっぴんでも気にしない、というふうになってきました。

 

 今もフェミニンな格好は好きだし、それなりに好みとかこだわりとかはあって、例えばトップスはコンパクトなやつがいいとか、ウエストマークがあって、スカートは裾幅広くて布が多いふわっとしたやつがいいとか、この柄は好きじゃないから着ないとか、ヒールは7cm以上が好きとかそういうのはありますが、前よりは選択幅も広がったし、多少雑に着ても大丈夫なお手軽価格、洗濯もできるし着心地もそこそこ、というものが選べるようになりました(選ぶようになった、というより選べるようになった、という方が正しいです)。好きなものを着るのが体調的精神的にしんどい日は、着ない、装わないということができるようにもなりました。

 

 女らしく在りたくなくて、だけど可愛いものが好きで、可愛いものを身につけることを女らしさに気軽に結び付けられたくない、という中でどうにか可愛いものを身につけるために、わたしが可愛いものを身につけた状態は「世間で一般的な日常で許される・すべきとされるかわいさ」の枠の外に位置づけられているんだという風に考えたくて、過度なフェミニンさ、というものを選びとっていたのかな、と考えています。ジェンダー規範から逃れたかったけど、その規範に入らない、ということを一番に考えていると結局規範を意識して逃れられていなかったのかな(当時もこのことは薄々気づいてたんですけど、過度な装いをやめる、というところまで至りませんでした)今は規範云々より、どれが着心地いいかな、おさいふの中身的にどれがいいかな、ということも大事にしつつ、自分が可愛いと思うものを着ているのでいい感じです。無理せず、しんどい思いもせず、だけど可愛いと感じる気持ちはないがしろにせずという状態で安定しているし、気軽で身の丈にあってる感じがしてここちよいです。

 

 私の意識が変わったからといって、周りの意識が変わるわけではないので、そこはもう今すぐにはどうしようもないですが、周りが女らしい・女らしくないというジェンダー規範に私を当てはめてくるのも、かわいいとかブスとか、おしゃれとかそうでないとか言ってくるのも、周りの価値観がそうだからであって、私のせいではないもーんごちゃごちゃうるさいなあってかんじで、別にどうでもいいです。私は好きに服を着るし、だけど何言われてもいいってわけじゃないから、言われて不愉快だったことは不愉快だと言えばいいし、言えなかったとしてもその気持ちを否定する必要もないし、というふうに思います。

 

 

追記

 前なにかのエントリでも書いたかもしれないんですが、服装とジェンダーについては、女だからこういう格好をすべき、という基準があり、その基準に基づいて人をジャッジしたりする風潮がアカン、ということであって、フェミニンを着ることも、フェミニンを嫌うことも、悪いことではないでしょう。フェミニンでなければ女扱いされないとかいうのも、そんな単純な話ではないし、結局それは女=フェミニンという価値観の裏返しなので、そのあたりの基準をきにせず、それぞれがぞれぞれの価値観に従って好きなもの着たり着なかったりしたらいいと思います。

 

追記2

 ジェンダー規範から逃れたければスカートと化粧やめてジーンズはいて「ブス」になればいい、というツイートが発端となって起きた議論を見たのですが、装わない=ジェンダー規範から逃れる=「ブス」という考えがそれなりに浸透していること、結局それって貶められてるだけでジャッジから逃げられてないじゃんということに嫌な気持ちになる一方で、わたしと同じように考えている人も沢山いるみたい、ということにちょっと嬉しくなったりしました。分かってくれる人は多分分かってくれるので、そこに希望を持って装ったり装わなかったり、自分の好きに自由に生きていきたいものです。

 

 装わない、女性らしい格好をしないということについて、私の二つ下の従姉妹はその「装わない人」で、ずっとスポーツをやっていて筋肉あってごついし、髪も短くて焼けていてすごく健康的だし、化粧っけもなくいつもジーンズにシャツ、もしくはジャージという格好なんですけど、じゃあ女らしさから逃れて自由に生きてるかといえば全然そんなことなくて、「女らしくない」「いい年の女のくせにいつまでもそんなんで大丈夫か」「(私)ちゃんはきれいな格好してるのに」「男ウケ悪い、結婚できるのか」と散々言われているし、就活の時は殊更苦労していたので、「女らしさ」という規範による抑圧は、一見その枠に入って見える私よりもきついと思います。本人は特に女らしさを否定するつもりもないのに、周りからは女らしく(ありたく)ないとジャッジされるのも、女らしさ規範の裏返しということだと思います。

 芋ジャージばっかり着ている女性がイマドキのかわいい女の子に変身★というようなテレビ企画もありますけど、慣れないヒール、短いスカートを履かされて浮かない顔をしている娘、感動してむせび泣く母親とか見てると、うわっこれはきつい、と暗澹とした気持ちになります。

 装わなければとか、そんな簡単な話じゃないです。装い一つでジェンダーとかそれに基づくジャッジから逃げられたらこんなにみんな苦労してない。

 

追記3

 男性の装いについても同じように抑圧があると思っていて、男性だと逆に装いすぎることが恥ずかしい、キメすぎてちょっと、みたいなことを言われるというのがあるかなと思います。ラフな格好だったり地味な格好が普通の装いだとされていて、それは女性の装わねばならないという規範とは逆のベクトルで見えづらいけれども、自由な装いが出来ないとか、他者の無遠慮なジャッジに晒されるというところでは同じだと思います。

そういえばこのまえ、Twitter「男子の理想像」という、何かの雑誌の特集の画像が回っていたんですが、そこに「乾燥肌でなく、若干オイリー寄りの肌質がマスト」みたいな事が書いてあって、男性って化粧もできないし、スキンケアをするのもあまり浸透してないみたいなのに、そこまで要求されて大変だなあと思った記憶があります。男らしくないから化粧はするな、と言われたりバカにされたりするのに、モテる男としての理想の肌を掲げられて、これは流石に無茶でしょうー。これが載ってたのがどんな種類の雑誌かわからないので、信憑性も分かんないですけど、記事になるくらいにはネタにされる部分なんだと思います。男性も装いに関しては縛りがあって抑圧があって、その一方で無茶な要求をされていて、それは従来の男らしさというジェンダー感に基づく無茶だ、という部分は共通している。

装うことは女のものだ、女とは女らしい装いをしたものだ、という規範から逃れようとしても、装わない女性にも男性にもその他の人にも何だかんだ規範があって抑圧がある、つまり枠の中にいる・外にでるなんて個人の単純な 行動ではなかなか解決できない問題で、そもそも枠自体をなくすか、枠に過度な価値を与えないことが必要なのではないかと考えます。