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BL、生活、その他いろいろ

かわいい人には「かわいい」って言っちゃうんだけど

 わいい人が好きだ。かわいいの基準は色々あるけども、見目がいいとか、しぐさが愛らしいとか、性格が魅力的だとか、とにかく私のこころにきゅーんとくるものがあれば、「かわいい!」と言ってしまう。アイドルも好きだし、身近な人でかわいい人がいればそういう人たちも好きだ。自分の感じたことは素直に表現していこうと思っているので、「かわいい」とか「きれい」だとかいうこともすぐに口に出して言っている。かわいい人にかわいいと言うのは、かわいい服や花にかわいいと言ったり、天気が良い日に天気がいいなと喜んだりだとかと同じかんじでただ感動し感想を述べているだけというか、自分的にはあまり気負いや違和感はない。きれいだな、かわいいなと思ったらそれがするっと口から出るし、そうやってストレートにものを表して人に伝えるというのはいいことな気がする。

 

 と、思っていたんだけど、最近、花や服や天気について「いい」と言うこととおなじような気軽さで、人に「かわいい」と言ってしまっていいのか、と疑問を持つようになった。きっかけは、「かわいい・綺麗と言われることに抵抗がある、嫌な気持ちになる、怖くなる人がいて、その理由・背景は様々だ」ということを知ったのと、「自分の気持ちを表す」ということに対して、今までとは違う方向から考える機会があったからだ。

 

 今までも、かわいいと言われるのがいやだという人がいるのは知っていたし、「外見で人を『評価』すること」についても良く思っていなかった。「ルッキズム」、すなわち外見至上主義だとか人の見た目で差別をすることには嫌悪感を持っていた。「ただしイケメンに限る」とか、「綺麗な女は得をする」とか、そんな失礼で馬鹿な話はない。それから、見た目のよさを性的な価値に結びつける視線も嫌いだ。自分よりかよわい存在という意味の「かわいい」もきらい。でも、ただ単に綺麗なものを好きになったり、綺麗なものに綺麗だと思うことや口にすること自体は悪いことだとは思っていなかった。何を綺麗だと思うかというのは人それぞれということもあるし、外見も一つの個性だと思うから、誰かのある部分について、それぞれなにかしら思うことは別によくないことじゃない。なにか一つの基準を絶対的なものとして、他人の価値や優劣を決めるのでなければ自由だと思う。

私やっている、誰かを「かわいい」と思い、口にだすことは、人を怖がらせることだったり、ルッキズムだったりには当てはまらないと思っていた。その人を可愛いと思っていたからといって、悪意はないし、その気持ちがその人との関係の結び方や状態に影響することはないし、ほかの人と比べてどうこうということもないからだ。そもそも私の「かわいい」は見た目だけのことではない。それから、わたしのなかでかわいさと、性的なものやかよわさの程度というのは結びついてもいない。

 

 わたしの「かわいい」という気持ち。ルッキズムとも、性的な視線とも結びついていないけども、結びついてなければなんの問題もないんだろうか。ルッキズムに結びついていない「かわいい」であれば、言われた人は嫌な気持ちにはならないだろうかと考えてみたんだけど、いや、そうでもなくない?なんか違う気がする、と思った。

 「かわいいと言うこと」を、「誰かの見た目や状態について本人に指摘すること・感想を述べること」という風に捉えてみると、それ自体がそもそも相手にとっては気持ちの良いものではないんじゃない?

 

 そういえば、私は「自分の状態について指摘される」のがものすごく嫌いだ。体調の良し悪しを悟られて、口を出されたり気遣われるのがいやだし、メイクとか髪型とか、そういう日々の変化を見られるのも抵抗がある。指摘されることも好まない。何が嫌なのかいまいちよくわからないけども、いちいち煩いなとか、だからなんなんだよ放っておいてよと思ってしまう。顔色悪い自覚はあるよ、メイクも今日はしてないよ。たしかに事実だ。でもなんでわざわざ言うのさ、というような。誰に対してもそう思うわけではなくて、例えば家族に体調について言われるのは平気だ。ただ心配されているんだと分かるし、私の体調によって日々色々と対応してもらっているので、それに対して家族が敏感になっているんだろうということも分かっているから。でも、特に親しい訳でも、私の体調不良の理由を知っているわけでもない人に、体調について指摘されるのはなんだか居心地が悪いし、いらっとするときもある。すっぴんブスとか言われてももちろんふざけんなよってなるけど、今日は体調よさそうだね、すっぴんもいいね、と褒められてるような場合であってもなんかもやっいらっとする。その指摘がどういう意味を持っているのかわからないと疑心暗鬼になる。私が体調が不安定だということにコンプレックスがあり、それについてよく知らない他人に指摘されることを許容できないというのもある。

 それから、心配されているということや、その気持に毎回応えなければならないということって、ものすごく負担になる。私の体調不良は、他の人みたいにたまに起きるというようなものではない。常にどこかしらなにかしら具合が悪い。顔色も良くない。もう私にとっては具合悪いのが当たり前になっていて、いちいち心配することでもないんだけど、他の人からしたら多分そうではないんだと思う。だから気になったり、心配になったりして、声をかけてくれたりするんだけど、私にとって日常であることをわざわざ取り立てられて指摘されるのってうっとうしいし、それに対してありがとうと言ったり、気を使わないといけないのも割りとめんどうだ。体調悪いときって人に気を遣うだけの力がない。心配されたって体調が良くなるわけでもないし。気持ちはありがたい。ありがたいとは思うんだけど。

 

 つまり、自分の状態や見た目について、他人に指摘されるというのは、相手の意図が見えない場合はなんだか居心地が悪いし、たとえ善意で言われていた場合でも、煩わしい時がある。指摘された部分が、自分にとっては当たり前で、常に変わらない部分であればなおさら、そこを特別取り立てられて、意味を持たされて毎回同じようなことを言われるのは面倒だろうと思う。

私の場合と「かわいい」を一緒にしていいのか分からないけど、見た目について言われるという部分で同じであるなら、私と同じように感じている人もいる可能性があるのではないかと想像してみた。言う側にしてみればなんということもない発言だとしても、言われる側からすれば居心地が悪かったり鬱陶しかったりするのではないだろうか。

私が普段接していて、「かわいい」と伝えるような相手は、「かわいい」存在であるアイドルでもないし、意志のない花でも天気でもないんだから、きっと何か感じてると思う。嬉しいと思ってる人もいるかもしれないし、なんでわざわざかわいいかわいいって言われなきゃならんのだと思っている人もいるかもしれない。感じなくなるくらい言われてるかもしれない。いやわかんないけど。とにかく相手にも気持ちがあって、そう感じるようになった背景がそれぞれにある。

 

 それから思ったんだけど、そういう言葉を、単純に善意やプラスの気持ちから言われたとしても、その善意を読み取って受け取る義務って別にない。性的な目線や憐れみからの気持ちであっても同じで、相手の意図を汲みとってあげたり、受け取ってあげたり、許してあげたり、相手の満足のいくような対応をしてあげる必要なんてない。相手がどう思ってようが知ったこっちゃないと言えば知ったこっちゃないじゃん。

 気持ちを表すということ自体は無害に思える。その気持ちに悪意がなければなおさら問題ないように思えてしまう。しかし、その気持ちをを受け取るよう、相手に求めるのはどうなのだろう。これは見た目についての指摘についてだけではなく、「表現する」ということ全体に言えることかもしれない。相手の表現を理解しようとすることって、結構労力を要する。表現には「表」だけでなく「裏」もある。この人は善意で言っているのだろうか、それとも何か見返りを求めているのだろうか、素直に受け取ってしまって危険はないのだろうか、どういう対応をすればいいのだろうかと、色々考えなければならない「言葉」というものがある。言う人の背景によって意味の変わってくる「言葉」がある。例えば「かわいい」という言葉がそう。わたしはかわいいという言葉を悪意なく使ってるんです、下心もないし見返りも求めてないんです、と思っていても、口に出して説明したとしても、それが相手にしっかり伝わる保障はない。いろんな言葉や感情が、ずれることなくしっかり伝わるような関係性が築けていればいいけど、そうでなければ非常に危うくストレスフルな言葉になってしまうかも。そもそも、私の気持ちをきちんと受け取ってくださいと、相手に強いてまで伝えるべき言葉なのだろうか。伝えたいと思う関係なのだろうか。

どのような言葉も、感情も、すべての人に無制限に無償で受け取ってもらうのが当たり前だと、私は無意識に思ってしまっているのではないだろうか。そしてその姿勢は、自己中心的で暴力的ではないか?

かわいいんだから、わたしの「かわいい」という気持ちを受け取ってね、否定しないでね、悪意はないから許してねって、そういうのって結構図々しい(悪意や下心があれば尚めんどう)。

 

 

 相手に気を使わなくてはならないとか、必要ないことは言わないほうがいいだろうとかいうことではない。自分の感じるまま感じることも、表したいことを表すのも大事なことだし、やっていきたいと思う。良好なコミュニケーションのためにそれらを必要とする人間関係もある。ただ、表現するときには、それが善意のものであれ、それぞれ相手がいるということ、それから、表現することとそれを受け取ってもらうことは別物だということを自覚しておきたいと思った。ただそれだけのことなんだけど、書いてみると当たり前のことだったんだけど、それがすっかり頭のなかから抜け落ちてしまう場面があったと気づいた。それが私にとっては「誰かにかわいいと言うとき」だった。