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BL、生活、その他いろいろ

最近できるようになったこと

 うとう、普通免許の卒検に受かりました!やった―!免許はまだなんですけど。教習期限最大限に使って、もうこれはダメかもと思ってたので卒業できることになってよかったです。事故もなく!怪我もなく!

 

 私は昔から、右と左の区別がパッと付けられなくて、右手あげて!って言われてもどっちの手をあげたらいいかすぐ判断できない、みたいなかんじで20数年生きてきていたので、教習所に通うことになった時も、自動車とか乗れるわけない、しぬかもしれない、ってずっと怖かったし、実際車に乗って練習をしたときも、教官の指示とは違う方向に指示器を出しては怒られ、というのを繰り返して怖い!ってびくびくしたんですけど、最近はそういう間違いもなくなってきて、人間訓練したらできるんだなあ!!って感動しています。

 

 小さい時から気をつけてても分かんなかったことがここにきて出来るようになったという感動!よろこび!安心感!!よかったよかった!!

 

 大人になるにつれてできることが増えるのって、まあ当たり前といえば当たり前なのかもしれないですけど、左右が分かるとか、チョウチョ結びが綺麗にできるとか、数学が分かるとか、そんなの◯◯歳で出来てなきゃだめでしょ、そこで躓いたらもう今後も無理でしょ、みたいなことも、大きくなってふとした瞬間に出来るようになったりするんだなあーって最近しみじみ感じています。みんなができてる時に自分だけできてないと焦るし、なんかもう今後夢も希望もねえみたいに思っちゃうけど、なんとかなるもんだ!やったねー!

前提の共有について

erikaede020.hatenablog.com

 

 のエントリ、私は「みんなが同じような人生を送ってきていて、同じ気持ちを持っていて、普通の人はみんな○○なはず、っていう前提のあるコミュニケーションとか仕事はしんどい」という話かな、と思って読みました。夜のお仕事をしている人や、看護の仕事をしている人にかぎらず、こういう「普通の人なら当たり前」っていう前提を持てていない、知らない、馴染めないことで苦労をしている人は少なくないんじゃないかなあ。

 

 この人は自分とは違う人生を歩んできていて、自分が当たり前に思っていることがあたりまえじゃないかもしれないし、逆に相手の当たり前が自分のあたりまえじゃないかも、嬉しいと思うことも嫌だと思うことも違うかも、って考えることって、結構重要なんじゃない、って思います。昔のことは知りませんけど、今って本当に色んな生き方をしている人がいるんだから。それに、今いろいろ問題になってるセクハラ・モラハラだって、相手と自分の間に線引が上手く出来てないからだと私はと思っています。うつのような病気とか、セクシュアルマイノリティとかそういう人たちのことも段々知られてきましたが、そういう、外見からはぱっと分からないけど、今まで「普通」と言われてきた人生とは違う人生を歩んできている人とか、今まで「普通」と言われてきたものに抑圧されてきて、そこから脱却したいと思ってる人って、よくよく見たら身の回りにいっぱいいると思うんですよ。こういう社会的な問題になるようなことじゃなくて、もっと身近な話、たとえば食べられるものと食べられないもの、感じ方、趣味とか、そういうのも人によって違うじゃないですか。

 

 特別の配慮をしてくれ、とまでは言いませんけど(してくれるならぜひぜひしてほしいんですけど)、違うかも、くらいでいいので、そういう気持ちを持って貰えればいいなあと思うし、自分と違うからといって、異質なもの扱いしたり仲間はずれにしたりしないでほしいなあとも思うのです。受け入れられないなら、むりやり距離を詰めないでほしい。

 

 前回コミュニケーションの話をした時、話題が合わないのがコンプレックスって書いたんですけど、これは、ただただ話題についていけないって言うこと以外に、感覚が全く合わなかったり、他の人が話せることが、私には話せなかったりするというのがとても困りものだった、ということでした。例えば、高校時代何してた?とか、恋人いる?タイプの人は?とか、そういうのは私には話せません。別に話してもいいけど、高校時代はうつで引きこもってたし、アセクシャルだから恋愛しないから恋人もいないし恋愛におけるタイプの人はいないけど家父長制や男尊女卑思想に浸ってない男性や女性がどちらかといえば好き!とか言ったら相手がうわってなるんですよ。変に気を使われたり、最悪あいつ変だって言って言いふらされたりする。人と違うっていうのは、結構ハンデになるというか、そもそも私が人とちょっと違う人生歩んでてちょっとセクシュアリティも違ったりするって想定されてないし、ちょっと違う、ということが私と周りを断絶してしまうことにもなりかねない。

はやりのファッションとか、タレントとか、そういうのは調べればなんとでもなりますけど、なにをどうしても得られない経験とか感覚とか、後悔しても時間が戻らない限り、私が私じゃなくならない限り手に入れるのは無理だなあってこともあるんです。

 

 今までの人生やこれからの人生が違えば、それにまつわる経験も、家族も、学歴も、お金や時間に対する感覚も、人付き合いの仕方も持ってるものも、いろんなことがぜんぜん違うと思うんですよね。多かれ少なかれ、みんな違いをもってると思う。それを、一緒にいるからといって、自分と同じだろうと思うのはものすごい勘違いだと思います。場合によっては迷惑だったり残酷だったりする。

自分自身を「普通」だと思って生きてきていると、その迷惑さとか残酷さとかを意識する瞬間っていうのがあんまりないのかもしれないけど、知らないだけで困ってるんだよって、気づいてもらえるといいな....と思いますが、難しいのかな。

インスタントコミュニケーションの訓練について

 回くらいのエントリで、私はコミュニケーションが苦手なので、努力して特訓してなんとか人並み程度になりました、という話をしました。この特訓、合ってるのか分かんないんですけど、書いておいたら誰かの参考になるかも、と思ったので、今回はその話をします。

ただしここでいうコミュニケーションは、知らない人と話すとき反射で話を合わせるときとか、つなぎに使うようなもので、大事な人と大事な話をするときはやらないほうがいいです。反射じゃなくて考えないとダメです。

 

 

 さて、私は小さい時からあまり社交的ではなく、少人数の友達と親密になってずっと一緒にいることが多かったので、大学に入って、大人数で浅く広くのコミュニケーションを求められた時、ものすごく困りました。また、その頃始めたバイトが、コミュニケーション力を非常に必要とする職種だったので、私の生活の中で一気にコミュニケーション力求められる場がものすごく増えたのです。

 そうはいっても、いきなり社交的でぺらぺらしゃべれる人間になれるはずもなく、毎日つらい!学校つらい!!バイトもどうしたら良いか分かんない!!という状態で、これはさすがにまずいぞ、どうにかしないと、と発起して、自分のコミュニケーションスキルの向上を図ろうと思い立ったのです。

 

そこで、まず私のコミュニケーションで良くないところや、困っているところを探しました。

1.まず人が怖いし苦手

2.表情が堅く、初対面の相手に威圧感やとっつきにくい印象を与える

3.声が通らないか、話してる内容を聞き取ってもらえない

4.なんか話してる途中でつまらなさそうな顔をされる

5.はやりの話題や単語を知らないので、話に詰まったり馴染めない

6.話にオチがなく、話し終わった後謎の無言状態が生まれる

7.盛り上がらなくて居心地悪い

この中で、一番コンプレックスだったのが、2と、5と、6でした。一番困っていた、というか、致命的だったのは1です。とにかく、このへんをどうにかしたい、少しでもましにしたいというのが当初の目的でした。

 

 

 いきなりうまく話すのは難しいです。勇気もなかったので、そういう状態でなにができるか、と考えたところ、相槌くらいなら私もうてるぞ!と思いつきました。

なので、特訓の第一段階は、なんとなくいいかんじに相槌が打てるようになること、と目標を立ててみたのです。

まず、自分が無理なくうてる相槌のレパートリーをいくつか用意します。私は、「なるほど~」「たしかに~」「そうなんですね~」の3つを選びました(語尾を伸ばすのがコツです。柔和さを演出できます。やり過ぎると馬鹿っぽいと思われて舐められるんですけど....)。どんな話題にも使えるのでオススメです。使い回ししてもわりとバレません。

誰かの発言に対して、肯定することは割りと簡単なんです。逆に、否定するのは難しい。否定した理由を聞かれることが多いからです。なので、コミュニケーションの上達、という目標の上では、肯定を優先するようにしました。といっても、あらゆる話題を肯定する必要はなくて、自分の主義主張と合わないものについては無言でいたらいいと思います。

それと、相槌を打つ時に気をつけていたのは、動作です。レパートリーや発言数が少ないと、表現できる幅も狭くなります。なので、動作でそのへんの不足をフォローするのです。例えば、すっごく分かる~~!というときは、大きくうんうんうんって頷いたり、ふーん、それでそれで?と話を促すときは小さくうんってやります。相槌が白々しくならないために、このへんも同時にやるといいかなと思ったのです。表情が硬くても、あなたの話を聞いてるよ、ということが示せれば、あんまり嫌われたりとかはないし、上手くいけばちょっと好感をもってもらえます。

 

この段階では、4~8人くらいの集団に紛れるほうがうまくいきます。誰かが喋ってるのを適当に黙って聞いていればいいので。そして、周りの人のコミュニケーションを観察して、技を盗みます。ああいう表情がいいのか、このノリが盛り上がるのか、とか。

(ただ、私は人が怖かったので、大人数に紛れるのがものすごく負担になりましたし、コミュ力の高い大学生というものにたいして非常に苦手意識を持っていたので、観察するのも疲れました。あんまりしたくなかったです。)

 

 そうやって相槌が打てるようになったら、こんどは自分の意見を聞いてもらうことにチャレンジです。これもまた、肯定から始めます。ここで使うのは「分かる~」「私も◯◯だった~」です。誰かの話に乗っかっていくんです。ここで気をつけないといけないのは、長々と話さない、難しい言葉は使わない、声は高めに、です。私はそれまで書き言葉に親しんできたので、話すときもついつい書き言葉調になりがちでした。けど、書き言葉って、耳で聞くのにはあまり向いてないことが多いのです。句点が多い文章、結論が最後に来る文章は、耳で聞いてもなかなか理解できないことも多いと思います。なんか途中でややこしくなってきちゃうんですよね。また、難しい言葉(というか、書き言葉でしか使わないような単語)も、耳がその発音に慣れてないので、聞きづらいです。なので、口で話すときは、結論をまず最初に持ってきます。それでそのあと、余裕があれば理由とかを付け足していきます。できるだけ平易な言葉で、言いたいことを短い一文に区切っておくといいかんじでした。

例をあげると、「私最近眠れないんだよね」という話題に乗っかるときは、「私も最近運動不足によるものなのかなにかしらのストレスが蓄積されているのかそのあたりはわからないけれども、とにかく睡眠を取ろうと横になっても眠れないんだ」みたいにいうとか、かたい!長い!!ってなるので、「分かる~私もそうだよ」と肯定してますよっていうのを先に伝えておいてから、「運動不足なのかも」「ストレスかな」と続けると良いです。これって、最近のインスタントメッセンジャー(LINEやTwitterみたいなやつ)でよく使われている話し方で、そういうやり取りに慣れた人も多くなってきていると思うし、そこに近づけていくイメージでやっています。あと、会話の最後に「あなたの不眠は何が原因なの?」「どうしたらいいだろう?」と質問や相談で終わるとその後相手が話を引き継いでくれるので楽ちんです。

 

 それから、声の高さですが、声って低いと相手に届きづらいです。特に周りの騒音が大きいところでは全く聞こえないので、地声が低い人は意識してすこし高めに出すといいです。高めに出すと、自然に声が張れるし、低い声よりも威圧感が減るので、そういう部分でもオススメです。あと話す前に息を吸い込んでおくと、話し出したとき自然に口がすこし大きめに開いて話し方がボソボソってなることが減ります。

この段階は、3~4人でやるといいです。自分の話をさせてくれる余裕のある人数でないと、途中で自分の話を遮られたり逆に自分の話に乗って来られて横取りされたりして、しょぼんってなるので。

 

 このへんまで来ると、なんとなく周囲の人間が好む話題の傾向や、テンションの高低が分かってきます。テンションを合わせて、相槌が打てれば、知らない話題が出ても怖くないです。知らないことがあるのはむしろラッキーで、質問返しという必殺技が使えるのです。質問返しは、あんまりしゃべらなくていいのに、積極的に会話に参加しているようにみえるお得な技です。

 

 ここまできて、課題「2.とっつきにくい」というのと5「.流行りにのれない」というのはまあまあクリア出来ました。「6.オチがない」についても、自分で落ちを付ける前に人にどう思う?あなたならどうする?みたいに振っちゃえばどうにかなることがおおいです。もしくはオチの付け方を誰かから盗むこともできなくはないです。「1.人が苦手」については苦手なまま付き合うしかないと割り切るようにしました。

あと、相手の目を見るのが苦手というのもありましたが、鼻とか眉間とかあごとかみてれば何とかなります。大人数に混じっていて相手との距離があるときとかは鎖骨でも問題無いです。 

 

 コミュニケーションって経験値による部分が多いのかなって私は感じました。いままで苦手意識を持っていたので、自然と話すことを避けてしまい、ますます経験値がたまらなかったんですけど、ちょっと交流するようになると、自分に向いているコミュニケーションの取り方とか、集団で話すときに自分にピッタリのポジション(まとめ役、盛り上げ役、相槌役とか)がわかってくるので、そこが分かると毎回毎回手探りで、ということは少なくなってきます。

コミュ力の高い人への苦手意識、コンプレックスもありましたが、よくよく観察すると彼らの言ってることって内容が薄いのではってイメージを持ちました。彼らは私にできないことをするし、すごいけど、別にすごくないんです。訓練したら彼らとの差も縮められるんじゃないかなって思っています。

 コミュニケーションにかぎらず、こういうコンプレックスを克服したり、軽減することも、コミュニケーションへの苦手意識改善につながっている気がします。自分に自身を持てると、話すときのおどおどさが減って、態度も口調も滑らかになったと思うから。

 

 現在の私の課題は、今まで肯定に重点を置いて訓練してきたからか、なんかすごい舐められる、ということです。とっつきにくさがコンプレックスだったために、穏やかさを演出する方に偏っていたけど、これからは威圧感や俺に触れたら怪我するぜ的な鋭さも追求していきたいところです。またこういうインスタントコミュニケーションのスキルだけでなく、しっかり自分の意見を言えるよう、自分の気持をちゃんと伝えられるよう、見せかけだけでない説得力を持たせられるような訓練もしないとなあって思います。 なにかいい方法とかアドバイスがあれば教えて下さい。

 

追記

オチの付け方について、私は関西圏だからか、結構身の回りでもきっちりオチをつけたり、笑いを取ったりする人は多く、笑いが取れれば好感も上がるので、他人任せにせず出来るようになったほうがいい、というのはあります。でもオチを付ける、笑いを取るというのはほんとに難しいです。最近のバラエティとかでも、笑い=誰かをいじること になっていることは多いな、私はしたくないしされたくないなって感じているのですが、笑いに対してそういう意識のある人の前で、誰かをいじらずにオチを付け笑いを取るのは難しいです。誰かを傷つけないようにと注意を払うのは、コミュニケーションそのものに慣れて、そちらに意識を集中させなくていいようになって余裕が出てからがいいと思います。

私はむかしから変わっていると言われてきたので(いい意味か悪い意味かは知りませんけど)、それを逆手に取って自分をいじったり、ちょっと変な言動をすることで笑いを取ることが多いのですが、プライドが高く打たれ弱いので、すべると相当ダメージが大きいです....。集団に馴染むことを目標にするなら、オチとか笑いとかは別になくても問題ないことだとは思います。

 

それは私の努力です

 

  れ、すっごくよく分かるんです。よく言われるんです。「やっぱり女の子は◯◯が得意だね」「女の子はすごいね」とか。これ、自分の努力、私個人の努力をなかったものにされた気がしてすっごく嫌なんですよ!!すごく腹が立つ!!!!!

 

 私は出来ないことや苦手なこと、したくないことが多いです。出来ないことは、努力でカバーしようと思って来ました。一方で、出来ることや得意なこともあります。それは私のいいところです。機会があれば積極的に自慢していきたいくらい。

そういう、何が出来て何が出来ないのか、どれが努力して得たスキルでどれが元々持っていたスキルなのか、というのは、ひとによって違うと思います。私は本を読んだり説明したりっていう文字に係ることがちょっと得意で、人の機嫌をうかがうのが割りと得意です。運動すること、人の気持ちを推し量ること、人と同じでいること、コミュニケーションを取ることが苦手です。あと計画立てたり努力するのも好きじゃないです。

 

 私の苦手なことって、苦手で出来ないままにしておくと社会に出た時わりと困ることが多いんです。コミュニケーションとか特に。なのでものすごく努力して、特訓しないと人並みにはできないと自分では思っているし、人とコミュニケーション取るときは体力と精神力を大量に消費してしまいます。話し方も表情も、仕草とか話の持って行き方も結構人のを見て勉強したりしました。今も、コミュニケーションスキルには自信がないので、つねに勉強しています。

 

 そうやってめちゃくちゃ頑張ってやってるんですよ、それを「女性だから気遣いができていいよね」「女性だから人の気持ちをくみとるのがうまいね」「女は共感力が高いってほんとだね」とかいわれるとてめえ!!!!!!!!!殴るぞ!!!!!!!!!!!!!!っておもうんですよー!!!!!!!

女だから、別に苦労もせず、生まれた時からそのスキルもってるんでしょ?みたいなことですよねこういう発言って。違うわ!努!力!!その努力だって努力してやひねり出したパワー使ってやってるんだよー!!!!

 

 コミュニケーションに関して言えば、練習すればある程度やり方は分かってくるんです。どんな雰囲気の話し方にしたいか、というのもある程度意識して調節できるようになるので、軽いノリの話し方か、しっかり繊細な話し方か、穏やかか威圧的か、そういうレパートリーも増えます。こういう話し方の違いって、どこに意識を向けて聞いたり話たりするのか、相手のどこに注目するかの違いだと思うんです。

なので、「女の人は繊細な話し方をするなあ(自分はちがうけど)」という男性とかがいた場合、それは!お前が!!繊細さへの意識を欠いてるから!!って思うんです!!!私だって最初から無意識に出来たわけじゃないわ!!怒る!!!!!

逆に、女の子なのに珍しいね、男勝りだね、とか言われることもありますが、そういわれるようなスキルを身につけたのも私の努力の結果だし、珍しいとか男性に勝ってるとか、わざわざ男性と比べて評価する必要あるのかよ、そんなの関係なく私のスキルは私のスキルだよってやっぱり怒ります。

 

 普通、人って出来ないことがあっても、努力とか工夫とかテクニックでどうにかカバーしてなんとなくやっていくじゃないですか。それを私もしてるんですよ。そこに女らしさとか男らしさとか関係ないはずなんだけど、なんでかそこに入り込んできて私のスキルとか努力にケチつけようとするんですよね。出来ないことがあったら、どうにか出来る範囲でやってみようかなとおもうところを、「らしさ」が関わると出来なくても異性がやることだしいっか、もしくは出来ないと性別的に無能だ、となってしまう。当たり前にできているように見えるけど、なにかしら努力があったかもしれない、と想像することが、「らしさ」が関わると出来なくなってしまう。おかしくないですか。普通に評価してほしいんですけど。

 

 私がもりもり努力していたのは、元々女らしさから逃げるためでした。私の育った環境では、男の子が優遇されていて、私は女だからって理由で理不尽な評価を受けたりいやな思いをしていたので、それが悔しくて、私も男の子に負けないようになろう、性別をこえるだけの力をつけよう、と思って努力したんです。なのにその結果得られたスキルをまた「女らしさ」に押し戻されてしまうのって、ものすごく虚しいですよ。ばかみたいだなと思うんです。自分の努力はなんなんだよって。

努力は人を裏切らないとか、努力は自信につながるとかあんなん嘘ですよ。私にとっては嘘になるんですよ。嘘になる環境があるんですよ。

 

 私の努力で得たスキルは私のものだって思えるようになるのは、結構難しいです。私は自信はなかったけど、プライドだけはとんでもなく高かったので、早い段階で私がすごいのは私がすごいからだ!!!私がお前より出来るのは私がすごいから!!!女だからじゃない!!!!って切れちゃったんですけど、そこから変なプライドで防御しなくても自分の努力とか能力を認めて、褒めてあげられるようになったのって結構最近です。

 

 「おんならしさ」って、つくづく面倒だと思います。女らしいこと(世間で女らしさに分類されているもの)自体は、全然悪くないんですよ。それに有無を言わせずよくわかんない意味をくっつけられたり、強制力とかが伴ったり、自分にしっくりくる選択をするとき邪魔になったりするから嫌なんです。

 なにか行為や性質を「おんならしい」と分類することは、女性がすべきことや、女性がやっていいことの範囲を決めることなのです。「おとこらしい」と分類することは、その行為や性質を女性から引き離して、してはならないもの、手の届かないものにしてしまうことです。男性にとっての「おとこらしさ」「おんならしさ」も同じだと思います。

この「らしさ」の区別を越えるのは結構大変で、すっごく努力して(もしくは努力せずに)越えたとしても、結局その行為は「らしさ」という枠に押し込められてしまうということが、現状ではしばしばあることです。そんなこと繰り返しされたら、諦めたくもなりますよ。どうしようもないんだって思うことになる。

 

 でも、自分の努力を認めてもらえないとか、能力に勝手な制限を付けられるとか、ほんと最悪じゃないですか。最悪すぎてやっぱり受け入れられないし耐えられないし諦めきれないです。

 

 もうほんとにこのことに関しては怒りを抑えられなくて、毎回そういうことを言われた時は異議あり!大変不満だ!ふざけんな!表出ろ!って思うんですよ。思うだけで口にはできないんですけど(言えればいいんですけど)。女らしいねって、男性だけでなくて女性にも言われるんですよね。めんどくさーい。最近で一番いらいらしてるのは、なにかにつけ女子力ってやつで片付けられることが多いってことす。なーにが女子力じゃ!女子とかって大ざっぱにまとめるなよ!それは私の努力!私が持ってるスキルだよ!

 

 

おかあさんの話 肯定と呪いの二面性

 回のエントリで、祖母と父からの呪いについて触れました。さっきのは、お前は不細工だ、頭も悪い性格も悪い出来も悪いなどの否定ばっかりで、どうみてもそれって呪い!呪われてる!!ってかんじだと思うんですけど、実は肯定の言葉にも呪われることはある、という話もしようと思います。これはおかあさんの話です。

 

 私はおかあさんがとても好きです。父が私を理不尽に叱ったり暴力を振るったりした時は止めてくれるし、慰めてくれる。父のお金と学びに対する否定をフォローしてくれて、塾に行くことも、習い事をすることも勧めてくれたし、応援してくれたし、レベルの高い志望校に行くのもいいねって言ってくれたし、本や服も買ってくれた。うつで学校に行けなかった時、支えてくれてつらかったらやめてもいいよ、って言ってくれた。祖母に不細工って言われた時は、いやいやかわいいよって言ってくれたし、祖母に褒めてもらえなかった絵や成績も褒めてくれた。祖母や父による否定の影響を和らげてくれたのは、おかあさんでした。

 

 一見いいように見えるんです。実際、励まされて嬉しかったし、今思い返してみても当時の私に必要な支えだったと思います。けど、この慰めは呪いの効果も持っていました。それに気づいたのはここ数年のことです。この呪いはすごく気づきにくかった。

 

 この呪いについてはあまりうまく説明できないです。さっき挙げた慰めの、呪いの面を紹介すると、例えば「うつでつらかったら学校辞めてもいいよ」の次に「やめて家事手伝いしながら習い事いってお見合いしたらいいよ」って続くこととか、祖母からの悪口を慰めて「気にしないでいいよ、あなたはえらいよ」って言ってくれた後に、「あの人はああいう人だから、あなたああいう人間になったらダメだよ」って続くこととか、父を叱った後、私に「お父さんも悪かったけど、一家の大黒柱だから尊敬してないとね」って言うとか、なんかそういう感じの呪いなんです。私を慰める肯定の言葉だけど、結局私の行動を縛る呪いなのです。

 しかも結局、私はそういう慰めを聞いて、「学校にいくか、やめて結婚するかの二択しかないのか→結婚は嫌だから何が何でも高校に行って大学に行かなきゃ」「祖母の性格は悪いんだ→そんな人に悪口言われる私はなんて駄目なんだろう、至らないんだろう」「そもそも父親には逆らってはいけないんだ→やっぱり女でいることは理不尽さしかないんだ」っていう、祖母や父からの呪いと同じ所に着地しちゃったんです。(私の被害妄想じゃない?って思ったこともあったんですけど、やっぱりそうではない、なにかの力が働いてると思っています。そこが上手く説明できないんですけど。)

 

 自分を悪く言ってくる人たちの言葉を否定するのは簡単です。あいつは敵だ、嫌いなやつだと思ってる人の言葉は信じない、というのは当たり前なので(敵だと認識するまでが難しいですけど)。だけど、肯定されて、慰めてくれる味方の言葉を否定するのってものすごく難しいんです。私のために言ってくれているって思いながら聞く言葉を、呪いだと思うことは難しい。慰めが呪いだと思うことも難しい。味方を否定したら、私には誰が残るんだろう、というのは恐怖です。

 

 けれども、おかあさんの言っていた慰め(のあとに続く言葉)というのは、根本は父や祖母と同じ価値観なんですよね。祖母・父と母は育った環境が違うから、習い事や学びに対する評価も違うし、表現の仕方やアプローチも違うけど、根本にある価値観は一緒なのです。二人とも、アプローチは違うけど、おそらく望むものは同じなのです。母の慰めは、祖母や父とは反対のもののように見えるけれど、実際はむしろ父達の価値観を補強するような働きさえ持っているように思いました。父たちの価値観と母の価値観の二択なんだとおもっていたけど、それも勘違いで、結局大きく見れば一択だったように思います。

 

 この、根本にあるもの、というのは男尊女卑、良妻賢母、女は愛嬌男は度胸という考え方です。女は女らしく、男性よりいろんなことで劣っているから努力して(でも男性よりすごくなってはいけない)、家にいて、男性を立てるという考え方。母の呪いは単なる言葉だけのものじゃなくて、この呪いに(無意識に、当然のように)かかっている母の姿を見ることで、呪いを呪いだと思わせなくする、というものだったのではないかと思います。

母は生い立ちから現在まで、典型的な「女」でした(ほんとにフェミニズムの教科書とかに典型例として載れるくらいすごい)。母のかかっていた呪いを否定することは、母自身まで否定することになるんじゃないかって罪悪感を感じるくらい、その呪いは母にとっては自然なのです。

 

 世の中にはいろんな価値観がある、というのは成長するについて多かれ少なかれわかっていくことだと思いますが、家庭内の価値観ってなかなか多様性を感じられないんですよね。世界は広がっていっても、家庭の中は狭いまま。

私は昔から絶対結婚しない!したとしても働き続けて私が家族を養う!って思ってたんですけど、それは結婚=うちみたいな家庭を持つことになる、養われる=おかあさんみたいに父の機嫌を最優先する人間になる、という価値観しかなかったからなんですよね。いくらテレビでいろんな家族を描いていたって、友達の家庭が円満だって、私の中でそれらは全然しっくりこなかったんです。うちって嫌なこともあるし喧嘩も多いし円満じゃないけど、おかあさんは苦労しつつもそれを肯定して愛して、普通に生きてるしなあ、みたいな。そういうのに気づいた時、これ呪われてるのでは、って思ったのです。この呪いは、否定じゃなく、肯定から生まれるものなんだなと。

 

 大きくなってネットを見たり、今まで育ってきた地域を出たりして、色んな人の話を聞いたりするようになったとき、あれっうちって祖母と父親だけじゃなくて全体的に変なの?ということに気づきました。でも、おかあさんのことは好きだったから、疑えなかった。家の中を平和にしてくれてるのはお母さんだったし、母以外の家族からの問題のほうがあからさまだったので、母からの呪いに気づくことが出来たのはものすごく遅かったです。祖母や父からの呪いに気づいて、そこから脱出した後、あれっまだなんか残ってるぞ苦しいぞ、という気がしたので色々自分の中を探ってみたら母がいた、という感じ。

 

 なんでここまで気づかなかったんだろう、と思いますが、一つの呪いと、それに相反する内容の呪いがあったら、否定する方の呪いの表面的な言葉の強さに、肯定する方の呪いが隠れてしまうというのがあるのかなと考えています。呪いに対するものは解放だ、慰めだ、と普通は思うので、否定が目立つ呪いと相反するものはなんとなく慰めなのだと勘違いして受け入れてしまう。大きくなって色んな人と話して、世の中には否定/肯定、賛成/反対などの二択には当てはまらない価値観がある、+側が必ずしも正義ではない、と知ったことも、私の気づきのきっかけになったと思います。

 

 

 

 私は今もおかあさんが好きです。毎日いろんなことを話すし、たまに一緒にご飯食べに行くし、この前猫カフェにも一緒に行ってとても楽しかったです。おかあさんに褒められたり慰められたり、肯定されるのも嬉しくて安心するのは変わりありません。たまに、あっこれはお母さんの「あの」価値観だ、と身構えることもありますが、「これは呪いになる可能性がある」と今は知っているので、無防備なまま受け入れたりもせず、特に私に影響はないです。上手に距離が取れるようになって、「親子間のいうことを聞かせるための一方的な話し方」をやめてもらえる歳になったので、同じ家の中にいても呪いに支配されることも減ったし、いいかんじです。

ちなみに父とはこれが上手く出来ないのでやっぱり不仲です。

 

 

追記

母も呪いにかけられていた、と書きましたが、父も呪われていると思います。祖母からの呪いです。父はその呪いを、私や弟にもかけました(なので私は、私もまた誰かに呪いをかけ、連鎖をうむかもしれないことに怯えています)。父は、自分の呪いを否定されることを、自分自身を否定されることだと強く思っています。私達が、自分にかけられた呪いを否定することも、多分よく思っていません。私達にかけられた呪いは、父がかけられた呪いと同じだからです。父とは未だ不仲だと言いましたが、父が呪われたままで、のろいについての会話がままならない状態であるかぎり、普段の会話も生活を同じくすることも難しいし、和解はないと思います。