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BL、生活、その他いろいろ

かわいい人には「かわいい」って言っちゃうんだけど

 わいい人が好きだ。かわいいの基準は色々あるけども、見目がいいとか、しぐさが愛らしいとか、性格が魅力的だとか、とにかく私のこころにきゅーんとくるものがあれば、「かわいい!」と言ってしまう。アイドルも好きだし、身近な人でかわいい人がいればそういう人たちも好きだ。自分の感じたことは素直に表現していこうと思っているので、「かわいい」とか「きれい」だとかいうこともすぐに口に出して言っている。かわいい人にかわいいと言うのは、かわいい服や花にかわいいと言ったり、天気が良い日に天気がいいなと喜んだりだとかと同じかんじでただ感動し感想を述べているだけというか、自分的にはあまり気負いや違和感はない。きれいだな、かわいいなと思ったらそれがするっと口から出るし、そうやってストレートにものを表して人に伝えるというのはいいことな気がする。

 

 と、思っていたんだけど、最近、花や服や天気について「いい」と言うこととおなじような気軽さで、人に「かわいい」と言ってしまっていいのか、と疑問を持つようになった。きっかけは、「かわいい・綺麗と言われることに抵抗がある、嫌な気持ちになる、怖くなる人がいて、その理由・背景は様々だ」ということを知ったのと、「自分の気持ちを表す」ということに対して、今までとは違う方向から考える機会があったからだ。

 

 今までも、かわいいと言われるのがいやだという人がいるのは知っていたし、「外見で人を『評価』すること」についても良く思っていなかった。「ルッキズム」、すなわち外見至上主義だとか人の見た目で差別をすることには嫌悪感を持っていた。「ただしイケメンに限る」とか、「綺麗な女は得をする」とか、そんな失礼で馬鹿な話はない。それから、見た目のよさを性的な価値に結びつける視線も嫌いだ。自分よりかよわい存在という意味の「かわいい」もきらい。でも、ただ単に綺麗なものを好きになったり、綺麗なものに綺麗だと思うことや口にすること自体は悪いことだとは思っていなかった。何を綺麗だと思うかというのは人それぞれということもあるし、外見も一つの個性だと思うから、誰かのある部分について、それぞれなにかしら思うことは別によくないことじゃない。なにか一つの基準を絶対的なものとして、他人の価値や優劣を決めるのでなければ自由だと思う。

私やっている、誰かを「かわいい」と思い、口にだすことは、人を怖がらせることだったり、ルッキズムだったりには当てはまらないと思っていた。その人を可愛いと思っていたからといって、悪意はないし、その気持ちがその人との関係の結び方や状態に影響することはないし、ほかの人と比べてどうこうということもないからだ。そもそも私の「かわいい」は見た目だけのことではない。それから、わたしのなかでかわいさと、性的なものやかよわさの程度というのは結びついてもいない。

 

 わたしの「かわいい」という気持ち。ルッキズムとも、性的な視線とも結びついていないけども、結びついてなければなんの問題もないんだろうか。ルッキズムに結びついていない「かわいい」であれば、言われた人は嫌な気持ちにはならないだろうかと考えてみたんだけど、いや、そうでもなくない?なんか違う気がする、と思った。

 「かわいいと言うこと」を、「誰かの見た目や状態について本人に指摘すること・感想を述べること」という風に捉えてみると、それ自体がそもそも相手にとっては気持ちの良いものではないんじゃない?

 

 そういえば、私は「自分の状態について指摘される」のがものすごく嫌いだ。体調の良し悪しを悟られて、口を出されたり気遣われるのがいやだし、メイクとか髪型とか、そういう日々の変化を見られるのも抵抗がある。指摘されることも好まない。何が嫌なのかいまいちよくわからないけども、いちいち煩いなとか、だからなんなんだよ放っておいてよと思ってしまう。顔色悪い自覚はあるよ、メイクも今日はしてないよ。たしかに事実だ。でもなんでわざわざ言うのさ、というような。誰に対してもそう思うわけではなくて、例えば家族に体調について言われるのは平気だ。ただ心配されているんだと分かるし、私の体調によって日々色々と対応してもらっているので、それに対して家族が敏感になっているんだろうということも分かっているから。でも、特に親しい訳でも、私の体調不良の理由を知っているわけでもない人に、体調について指摘されるのはなんだか居心地が悪いし、いらっとするときもある。すっぴんブスとか言われてももちろんふざけんなよってなるけど、今日は体調よさそうだね、すっぴんもいいね、と褒められてるような場合であってもなんかもやっいらっとする。その指摘がどういう意味を持っているのかわからないと疑心暗鬼になる。私が体調が不安定だということにコンプレックスがあり、それについてよく知らない他人に指摘されることを許容できないというのもある。

 それから、心配されているということや、その気持に毎回応えなければならないということって、ものすごく負担になる。私の体調不良は、他の人みたいにたまに起きるというようなものではない。常にどこかしらなにかしら具合が悪い。顔色も良くない。もう私にとっては具合悪いのが当たり前になっていて、いちいち心配することでもないんだけど、他の人からしたら多分そうではないんだと思う。だから気になったり、心配になったりして、声をかけてくれたりするんだけど、私にとって日常であることをわざわざ取り立てられて指摘されるのってうっとうしいし、それに対してありがとうと言ったり、気を使わないといけないのも割りとめんどうだ。体調悪いときって人に気を遣うだけの力がない。心配されたって体調が良くなるわけでもないし。気持ちはありがたい。ありがたいとは思うんだけど。

 

 つまり、自分の状態や見た目について、他人に指摘されるというのは、相手の意図が見えない場合はなんだか居心地が悪いし、たとえ善意で言われていた場合でも、煩わしい時がある。指摘された部分が、自分にとっては当たり前で、常に変わらない部分であればなおさら、そこを特別取り立てられて、意味を持たされて毎回同じようなことを言われるのは面倒だろうと思う。

私の場合と「かわいい」を一緒にしていいのか分からないけど、見た目について言われるという部分で同じであるなら、私と同じように感じている人もいる可能性があるのではないかと想像してみた。言う側にしてみればなんということもない発言だとしても、言われる側からすれば居心地が悪かったり鬱陶しかったりするのではないだろうか。

私が普段接していて、「かわいい」と伝えるような相手は、「かわいい」存在であるアイドルでもないし、意志のない花でも天気でもないんだから、きっと何か感じてると思う。嬉しいと思ってる人もいるかもしれないし、なんでわざわざかわいいかわいいって言われなきゃならんのだと思っている人もいるかもしれない。感じなくなるくらい言われてるかもしれない。いやわかんないけど。とにかく相手にも気持ちがあって、そう感じるようになった背景がそれぞれにある。

 

 それから思ったんだけど、そういう言葉を、単純に善意やプラスの気持ちから言われたとしても、その善意を読み取って受け取る義務って別にない。性的な目線や憐れみからの気持ちであっても同じで、相手の意図を汲みとってあげたり、受け取ってあげたり、許してあげたり、相手の満足のいくような対応をしてあげる必要なんてない。相手がどう思ってようが知ったこっちゃないと言えば知ったこっちゃないじゃん。

 気持ちを表すということ自体は無害に思える。その気持ちに悪意がなければなおさら問題ないように思えてしまう。しかし、その気持ちをを受け取るよう、相手に求めるのはどうなのだろう。これは見た目についての指摘についてだけではなく、「表現する」ということ全体に言えることかもしれない。相手の表現を理解しようとすることって、結構労力を要する。表現には「表」だけでなく「裏」もある。この人は善意で言っているのだろうか、それとも何か見返りを求めているのだろうか、素直に受け取ってしまって危険はないのだろうか、どういう対応をすればいいのだろうかと、色々考えなければならない「言葉」というものがある。言う人の背景によって意味の変わってくる「言葉」がある。例えば「かわいい」という言葉がそう。わたしはかわいいという言葉を悪意なく使ってるんです、下心もないし見返りも求めてないんです、と思っていても、口に出して説明したとしても、それが相手にしっかり伝わる保障はない。いろんな言葉や感情が、ずれることなくしっかり伝わるような関係性が築けていればいいけど、そうでなければ非常に危うくストレスフルな言葉になってしまうかも。そもそも、私の気持ちをきちんと受け取ってくださいと、相手に強いてまで伝えるべき言葉なのだろうか。伝えたいと思う関係なのだろうか。

どのような言葉も、感情も、すべての人に無制限に無償で受け取ってもらうのが当たり前だと、私は無意識に思ってしまっているのではないだろうか。そしてその姿勢は、自己中心的で暴力的ではないか?

かわいいんだから、わたしの「かわいい」という気持ちを受け取ってね、否定しないでね、悪意はないから許してねって、そういうのって結構図々しい(悪意や下心があれば尚めんどう)。

 

 

 相手に気を使わなくてはならないとか、必要ないことは言わないほうがいいだろうとかいうことではない。自分の感じるまま感じることも、表したいことを表すのも大事なことだし、やっていきたいと思う。良好なコミュニケーションのためにそれらを必要とする人間関係もある。ただ、表現するときには、それが善意のものであれ、それぞれ相手がいるということ、それから、表現することとそれを受け取ってもらうことは別物だということを自覚しておきたいと思った。ただそれだけのことなんだけど、書いてみると当たり前のことだったんだけど、それがすっかり頭のなかから抜け落ちてしまう場面があったと気づいた。それが私にとっては「誰かにかわいいと言うとき」だった。

 

 

ふりふりの服を処分してしまった

 近シンプルな服を着ることが多くなったので、数年前に買ったふりふりのワンピースとかがタンスの肥やしになっていた。とても好きな服だったし、自分にとって少し値段の高いものを頑張って買ったという思い出のある服ばかりだったら、捨てるのも嫌だなあと思いながらも、結局ずっと着ないままだったので、思い切って人にもらってもらうことにした。

 

 新品というわけでもないから、気軽な仲の女の子にもらってもらうのがいいかなと思って親戚をあたってみたけど、年下の従姉妹たちはふりふりが好きではなかったので、母に頼んで、知り合いの方の娘さんとかで服を引き取ってくれる人がいないか探してもらった。

 

 そしたら、母の同僚の女性がもらってくれるということになった。

ちょっと驚いたのは、その方が母と同い年かそれより上の方だったということだった。私の服は、高校生とか大学生向けのブランドの、ふりふりレースだったり、ロリイタちっくなものだったし、きっともらってくれる人は高校生くらいの人だろうなと思っていたので、予想外の方から声をかけてもらってびっくりした。

その方は、以前から母の話によく出てくる人で、自分と同じ年代なのに若い格好をしていていて、だけどそれが無理なく似合う、おしゃれな人だと聞いていたので、だからもらってもらえたのかと納得もしつつ、若い格好ってそんなにまで若い格好だったのかー!と驚きつつ、とにかく引き取ってくれる人が見つかってよかったなーと思いながら服をお渡しした。母によると、渡した中に普段好んで着ておられるブランドのものがあったようで、とても喜んでもらえたらしい。

 

 わたしが今回引き取ってもらったような服を着なくなったのは、年齢的にどうなのかなあという気持ちが芽生えてきたからだった。ふりふりした服を着ていた時期も、老け顔のわたしにはあんまり似合ってないんだろうなあと感じていたし、歳を経るごとにそういった違和感は増していって、服と年齢のギャップを埋める努力するのも面倒だな、もう無理があるんだなと諦めて、人に譲ろうと決めた。今の歳でもこんなに違和感を感じるのだから、手放しちゃったらもうこの先着ることはないだろうと思うと残念で、ずっと躊躇っていたけどあげてしまった。

 

 だけど、服をもらってくれた方が年上の方で、年齢とか関係なく、好きな服を着ているのを見て、私もまた将来、こういう服を着るときがあるのかもしれないなと思ったら、なんだか楽しくなってきた。トレンドも移り変わっていくし、すべての年代の人がレースもりもりの服を着るときがくるかもしれない。そうでなくても、自分が好きな服があったら、その時の自分が好きなように着ればいいのかな、自分にあった着方をすればいいのかなと思った。若い人向けだからといって、若い着方をしなくてもいいんだし。

 

 そういえばこの前、久しぶりにSHOW-YAを見た。それで、わたしは昔SHOW-YAにあこがれていたんだったということを思い出した。職業だからとはいえ、時が経ってもずっと変わらないファッションをしているのがとてもかっこいいと思っていて、わたしもそうなりたいと思ってたんだった。知らないうちに、年齢が...とかって後ろめたさのようなものを感じるようになってしまっていたな、いつからそういう風に考えるようになったのかな、と不思議になった。

 同年代の人たちが、家庭が、子どもが、仕事がどうこうという話をしはじめるようになって、なんだか時間と年齢に追われているような気持ちになっていたのかもしれない。私も早く、年相応にならなくては、人並みに追いつかなければならない、という気持ちに。周りの人が当たり前のようにクリアしていっている人生のステップを、わたしは後から遅れてたどっているので、それをコンプレックスに思い、なんだかひどく焦ったりせかされたりする時がある。

私だけじゃなくて、きっと殆どの人がなにかしらに追われて急かされて生きているんだと思うんだけど、ただでさえそういう世界なんだから、服装とか、自分の好きなことくらいに関しては、ゆっくり自分のペースで、行ったり来たりもしつつ、やっていけたらいいなと思った。

 

 その人に服をもらってもらえてよかったと思う。

最近のわたしはジェンダーを脱いでフェミニンを着られているのかという話

 最近、GUで買ったボーダーのカップ付きシャツに、通販で買った赤のカーディガン、昔ユニクロで買ったダメージ加工ジーンズ、足元はキャンバス地のとんがりぺたんこ靴、という服装をよくしています。一年前から考えるとありえないくらいカジュアルで安上がりで楽ちんな服装になりました。

 

 数年前からのフェミニン好きは今も変わりませんが、一年前ほど前までは、過度なフェミニンファッションというか、ちょっとどこかに行くのでも、デート着とか言われるようなふりふりかっちりお値段もそこそこ、手洗いかクリーングのみ可、みたいな服装をしていたんです。ジーンズとかヒールのない靴とか絶対身につけない、ファストファッション?安くて大量生産で若い子がよく着ていてトレンドに乗っかりすぎててどれもこれも似通ってるじゃん!みたいな服がすごく嫌、という感じで、寒くても暑くても、足が痛くても肩が凝っても動きにくくても手入れが面倒で気を使うものでも、きっちりした格好がいい、と思っていたのですが、ここのところそのこだわりというか、気持ち的な縛りみたいなものが弱まってきていて、出来るだけ楽なのがいい、ブラしなくていいならしないし、すっぴんでも気にしない、というふうになってきました。

 

 今もフェミニンな格好は好きだし、それなりに好みとかこだわりとかはあって、例えばトップスはコンパクトなやつがいいとか、ウエストマークがあって、スカートは裾幅広くて布が多いふわっとしたやつがいいとか、この柄は好きじゃないから着ないとか、ヒールは7cm以上が好きとかそういうのはありますが、前よりは選択幅も広がったし、多少雑に着ても大丈夫なお手軽価格、洗濯もできるし着心地もそこそこ、というものが選べるようになりました(選ぶようになった、というより選べるようになった、という方が正しいです)。好きなものを着るのが体調的精神的にしんどい日は、着ない、装わないということができるようにもなりました。

 

 女らしく在りたくなくて、だけど可愛いものが好きで、可愛いものを身につけることを女らしさに気軽に結び付けられたくない、という中でどうにか可愛いものを身につけるために、わたしが可愛いものを身につけた状態は「世間で一般的な日常で許される・すべきとされるかわいさ」の枠の外に位置づけられているんだという風に考えたくて、過度なフェミニンさ、というものを選びとっていたのかな、と考えています。ジェンダー規範から逃れたかったけど、その規範に入らない、ということを一番に考えていると結局規範を意識して逃れられていなかったのかな(当時もこのことは薄々気づいてたんですけど、過度な装いをやめる、というところまで至りませんでした)今は規範云々より、どれが着心地いいかな、おさいふの中身的にどれがいいかな、ということも大事にしつつ、自分が可愛いと思うものを着ているのでいい感じです。無理せず、しんどい思いもせず、だけど可愛いと感じる気持ちはないがしろにせずという状態で安定しているし、気軽で身の丈にあってる感じがしてここちよいです。

 

 私の意識が変わったからといって、周りの意識が変わるわけではないので、そこはもう今すぐにはどうしようもないですが、周りが女らしい・女らしくないというジェンダー規範に私を当てはめてくるのも、かわいいとかブスとか、おしゃれとかそうでないとか言ってくるのも、周りの価値観がそうだからであって、私のせいではないもーんごちゃごちゃうるさいなあってかんじで、別にどうでもいいです。私は好きに服を着るし、だけど何言われてもいいってわけじゃないから、言われて不愉快だったことは不愉快だと言えばいいし、言えなかったとしてもその気持ちを否定する必要もないし、というふうに思います。

 

 

追記

 前なにかのエントリでも書いたかもしれないんですが、服装とジェンダーについては、女だからこういう格好をすべき、という基準があり、その基準に基づいて人をジャッジしたりする風潮がアカン、ということであって、フェミニンを着ることも、フェミニンを嫌うことも、悪いことではないでしょう。フェミニンでなければ女扱いされないとかいうのも、そんな単純な話ではないし、結局それは女=フェミニンという価値観の裏返しなので、そのあたりの基準をきにせず、それぞれがぞれぞれの価値観に従って好きなもの着たり着なかったりしたらいいと思います。

 

追記2

 ジェンダー規範から逃れたければスカートと化粧やめてジーンズはいて「ブス」になればいい、というツイートが発端となって起きた議論を見たのですが、装わない=ジェンダー規範から逃れる=「ブス」という考えがそれなりに浸透していること、結局それって貶められてるだけでジャッジから逃げられてないじゃんということに嫌な気持ちになる一方で、わたしと同じように考えている人も沢山いるみたい、ということにちょっと嬉しくなったりしました。分かってくれる人は多分分かってくれるので、そこに希望を持って装ったり装わなかったり、自分の好きに自由に生きていきたいものです。

 

 装わない、女性らしい格好をしないということについて、私の二つ下の従姉妹はその「装わない人」で、ずっとスポーツをやっていて筋肉あってごついし、髪も短くて焼けていてすごく健康的だし、化粧っけもなくいつもジーンズにシャツ、もしくはジャージという格好なんですけど、じゃあ女らしさから逃れて自由に生きてるかといえば全然そんなことなくて、「女らしくない」「いい年の女のくせにいつまでもそんなんで大丈夫か」「(私)ちゃんはきれいな格好してるのに」「男ウケ悪い、結婚できるのか」と散々言われているし、就活の時は殊更苦労していたので、「女らしさ」という規範による抑圧は、一見その枠に入って見える私よりもきついと思います。本人は特に女らしさを否定するつもりもないのに、周りからは女らしく(ありたく)ないとジャッジされるのも、女らしさ規範の裏返しということだと思います。

 芋ジャージばっかり着ている女性がイマドキのかわいい女の子に変身★というようなテレビ企画もありますけど、慣れないヒール、短いスカートを履かされて浮かない顔をしている娘、感動してむせび泣く母親とか見てると、うわっこれはきつい、と暗澹とした気持ちになります。

 装わなければとか、そんな簡単な話じゃないです。装い一つでジェンダーとかそれに基づくジャッジから逃げられたらこんなにみんな苦労してない。

 

追記3

 男性の装いについても同じように抑圧があると思っていて、男性だと逆に装いすぎることが恥ずかしい、キメすぎてちょっと、みたいなことを言われるというのがあるかなと思います。ラフな格好だったり地味な格好が普通の装いだとされていて、それは女性の装わねばならないという規範とは逆のベクトルで見えづらいけれども、自由な装いが出来ないとか、他者の無遠慮なジャッジに晒されるというところでは同じだと思います。

そういえばこのまえ、Twitter「男子の理想像」という、何かの雑誌の特集の画像が回っていたんですが、そこに「乾燥肌でなく、若干オイリー寄りの肌質がマスト」みたいな事が書いてあって、男性って化粧もできないし、スキンケアをするのもあまり浸透してないみたいなのに、そこまで要求されて大変だなあと思った記憶があります。男らしくないから化粧はするな、と言われたりバカにされたりするのに、モテる男としての理想の肌を掲げられて、これは流石に無茶でしょうー。これが載ってたのがどんな種類の雑誌かわからないので、信憑性も分かんないですけど、記事になるくらいにはネタにされる部分なんだと思います。男性も装いに関しては縛りがあって抑圧があって、その一方で無茶な要求をされていて、それは従来の男らしさというジェンダー感に基づく無茶だ、という部分は共通している。

装うことは女のものだ、女とは女らしい装いをしたものだ、という規範から逃れようとしても、装わない女性にも男性にもその他の人にも何だかんだ規範があって抑圧がある、つまり枠の中にいる・外にでるなんて個人の単純な 行動ではなかなか解決できない問題で、そもそも枠自体をなくすか、枠に過度な価値を与えないことが必要なのではないかと考えます。

 

 

最近できるようになったこと

 うとう、普通免許の卒検に受かりました!やった―!免許はまだなんですけど。教習期限最大限に使って、もうこれはダメかもと思ってたので卒業できることになってよかったです。事故もなく!怪我もなく!

 

 私は昔から、右と左の区別がパッと付けられなくて、右手あげて!って言われてもどっちの手をあげたらいいかすぐ判断できない、みたいなかんじで20数年生きてきていたので、教習所に通うことになった時も、自動車とか乗れるわけない、しぬかもしれない、ってずっと怖かったし、実際車に乗って練習をしたときも、教官の指示とは違う方向に指示器を出しては怒られ、というのを繰り返して怖い!ってびくびくしたんですけど、最近はそういう間違いもなくなってきて、人間訓練したらできるんだなあ!!って感動しています。

 

 小さい時から気をつけてても分かんなかったことがここにきて出来るようになったという感動!よろこび!安心感!!よかったよかった!!

 

 大人になるにつれてできることが増えるのって、まあ当たり前といえば当たり前なのかもしれないですけど、左右が分かるとか、チョウチョ結びが綺麗にできるとか、数学が分かるとか、そんなの◯◯歳で出来てなきゃだめでしょ、そこで躓いたらもう今後も無理でしょ、みたいなことも、大きくなってふとした瞬間に出来るようになったりするんだなあーって最近しみじみ感じています。みんなができてる時に自分だけできてないと焦るし、なんかもう今後夢も希望もねえみたいに思っちゃうけど、なんとかなるもんだ!やったねー!

前提の共有について

erikaede020.hatenablog.com

 

 のエントリ、私は「みんなが同じような人生を送ってきていて、同じ気持ちを持っていて、普通の人はみんな○○なはず、っていう前提のあるコミュニケーションとか仕事はしんどい」という話かな、と思って読みました。夜のお仕事をしている人や、看護の仕事をしている人にかぎらず、こういう「普通の人なら当たり前」っていう前提を持てていない、知らない、馴染めないことで苦労をしている人は少なくないんじゃないかなあ。

 

 この人は自分とは違う人生を歩んできていて、自分が当たり前に思っていることがあたりまえじゃないかもしれないし、逆に相手の当たり前が自分のあたりまえじゃないかも、嬉しいと思うことも嫌だと思うことも違うかも、って考えることって、結構重要なんじゃない、って思います。昔のことは知りませんけど、今って本当に色んな生き方をしている人がいるんだから。それに、今いろいろ問題になってるセクハラ・モラハラだって、相手と自分の間に線引が上手く出来てないからだと私はと思っています。うつのような病気とか、セクシュアルマイノリティとかそういう人たちのことも段々知られてきましたが、そういう、外見からはぱっと分からないけど、今まで「普通」と言われてきた人生とは違う人生を歩んできている人とか、今まで「普通」と言われてきたものに抑圧されてきて、そこから脱却したいと思ってる人って、よくよく見たら身の回りにいっぱいいると思うんですよ。こういう社会的な問題になるようなことじゃなくて、もっと身近な話、たとえば食べられるものと食べられないもの、感じ方、趣味とか、そういうのも人によって違うじゃないですか。

 

 特別の配慮をしてくれ、とまでは言いませんけど(してくれるならぜひぜひしてほしいんですけど)、違うかも、くらいでいいので、そういう気持ちを持って貰えればいいなあと思うし、自分と違うからといって、異質なもの扱いしたり仲間はずれにしたりしないでほしいなあとも思うのです。受け入れられないなら、むりやり距離を詰めないでほしい。

 

 前回コミュニケーションの話をした時、話題が合わないのがコンプレックスって書いたんですけど、これは、ただただ話題についていけないって言うこと以外に、感覚が全く合わなかったり、他の人が話せることが、私には話せなかったりするというのがとても困りものだった、ということでした。例えば、高校時代何してた?とか、恋人いる?タイプの人は?とか、そういうのは私には話せません。別に話してもいいけど、高校時代はうつで引きこもってたし、アセクシャルだから恋愛しないから恋人もいないし恋愛におけるタイプの人はいないけど家父長制や男尊女卑思想に浸ってない男性や女性がどちらかといえば好き!とか言ったら相手がうわってなるんですよ。変に気を使われたり、最悪あいつ変だって言って言いふらされたりする。人と違うっていうのは、結構ハンデになるというか、そもそも私が人とちょっと違う人生歩んでてちょっとセクシュアリティも違ったりするって想定されてないし、ちょっと違う、ということが私と周りを断絶してしまうことにもなりかねない。

はやりのファッションとか、タレントとか、そういうのは調べればなんとでもなりますけど、なにをどうしても得られない経験とか感覚とか、後悔しても時間が戻らない限り、私が私じゃなくならない限り手に入れるのは無理だなあってこともあるんです。

 

 今までの人生やこれからの人生が違えば、それにまつわる経験も、家族も、学歴も、お金や時間に対する感覚も、人付き合いの仕方も持ってるものも、いろんなことがぜんぜん違うと思うんですよね。多かれ少なかれ、みんな違いをもってると思う。それを、一緒にいるからといって、自分と同じだろうと思うのはものすごい勘違いだと思います。場合によっては迷惑だったり残酷だったりする。

自分自身を「普通」だと思って生きてきていると、その迷惑さとか残酷さとかを意識する瞬間っていうのがあんまりないのかもしれないけど、知らないだけで困ってるんだよって、気づいてもらえるといいな....と思いますが、難しいのかな。