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BL、生活、その他いろいろ

もうアセクシャルって説明したくない

アセクシャルって説明したくなくなりました。なんで一方的に説明を求められるんだろう。「アセクシャルってなに?」「恋愛感情がないってどんなかんじ?」

じゃあ、そう質問するあなたも同じ事をわたしに教えて下さい。「あなたのセクシュアリティってなに?」「恋愛するってどんなかんじ?」

答えられますか?質問攻めにあって、ときには否定されながら、それでもわたしにメリットのないかもしれない応答をするコストを考えたことありますか。

正直、メリット、ほぼないんですよ。何回も何回も同じ事を繰り返し説明すること。とっても面倒、理解されない。説明を求めておきながら理解されるかどうかわからない。セクシュアリティっていうプライベートなところ、セクシャルな面を開示しなければならないこと。苦痛です。もういやだ。

アセクシャルかもって思ってる人が、他の人の話を聞いてみたいって思ってることは知っているし、わたしもそういう時期がありました。自分のことが分からなくて、不安で、自分はおかしいんじゃないか、人と違うんじゃないか、苦しんだときもあります。そういう人たちに、同じような人はいるんだと伝えていくことは大切だし、アセクシャルを自認したわたしの責任?でもあると思います。だけど、正直もういやなんです。

他人にセクシャルな話を求められること。話すことを強要される場。もういやです。

しゃべりますよ、必要に応じて。それは先程も言いましたが、自認した身としての責任というか、やっていく方がいいことだとおもうからです。頭ではわかっています。でも、見知らぬ他人に、セクシャルな部分を一方的に、どんな反応をされるかわからないのに、素直に開示することは怖いんですよ。すなわちジャッジされる身になるってことなんです。それに、みんな色々あるのに、わたしの経験が基準になってしまうかもしれないです。怖い。あとその違いを説明するのも面倒くさい。違って当たり前って前提くらい共有しておいてほしい。

認知度が低いから、説明してくれるよね?じゃないと分かんないし。そんな態度でプライベートの開示を求められる。失礼だと思う。創造力が足りないと思う。

アセクシャルってなに?

調べろよ。
アセクシャルだけじゃなく、他のことについたって、ある程度の基礎知識くらい自分で調べて整理してから聞いてよ。全部、聞こうとしないで。わたしの経験まで聞き出そうとしないで。プライベートなところに踏み込んでこないで。

最近ちょいちょいカミングアウトしますけど、そのときの説明も簡素にしています。「恋愛感情がなく、性的欲求が他人に向かないこと」。おしまい。

わたしの経験に興味を持ってくださった方が、話を聞きたいって言ってくださるのは嬉しいんですよ。だから過去わたしのセクシュアリティについて書いた記事が沢山あります。実はエゴサめっちゃしてるんですけど、誰かの助けになっていることもあるもあるみたいで嬉しいです。


でも、現実世界で、対価(というた生々しい感じがしますが)もなしに、一方的に説明しなきゃならない現状には疲れました。わたしが説明したいときに説明する。それはおっけー。でも、興味本意で質問攻めにあうのはもう勘弁。

もうなにもしゃべりたくないです。相手の好奇心を満たすためにアセクシャルであるわけじゃない。そこのところ分かってるの?


わたしはアセクシャルです。その通りです。その自認に至るまで色々ありました。本当に色々ありました。その色々を、開示することでなにかのお手伝いになれることも知っています。嬉しいことです。だからといって誰にも彼にもわたしのプライベートなところを開示する必要ない。そんなことを求められてもわたしは応えたくない。アセクシャルはわたしのアイデンティティの一部ですが、そこだけを抜き出して話すのは難しいです。そのことにも気付いてほしい。もうやめたい。


今は正直そう思います。
わたしに開示を求めてくる人たちへ、わたしはあなたたちの興味関心を満たすための存在じゃないです。飽き飽きしました。プライベートに踏み込んでいることに気づいて。


わたしはもうアセクシャルであることを説明したくないです。

誰だって可愛い服を着ていい

先日。「ブスは可愛い服を着てはいけないと思っていた」と言われました。

「しおりさんのことを見て、ブスでも好きな服を着てもいいんだってことがわかりました」みたいなことを言われまして、その偏見の解消のきっかけになったのはいいんですけど、まあ無礼ですよね。

それはさておき、「ブス」だろうがなんだろうが好きな服を着ればいいと思います。というのがわたしの主張です。

 

人間、大抵の場合トップスとボトムと靴を身につけて出歩いていると思います。そしてこれは、大多数の人に共通することですよね(全裸で出歩いている人はそうそう見かけません)。

みんな、服を着てるんです、それは共通している。その中で、他人の着ているトップスやボトムの形が自分や周りと違うことに注目することに何か意味がありますか?みんな同じように服を着ている、それだけでよくないですか?その共通点を越えて、人が自分と同じではない服を着ていることにやたらと執着して、バカにしたり「ブスだから」とか言うのは、そちらこそばかみたいだと思います。

 

ブスだって服を着ます。その服の形がどんなものであるか、そのことに何か問題があるんでしょうか。あっさりした服を着る。デコラティブな服を着る。どちらにしろトップスを着てボトムを着て靴を身に付けていることに違いはありません。「形が」違うということに、文句を言うのは、馬鹿みたいじゃないですか?みんな服を着ているだけです。その服がどんな形をしているか、選ぶのは人それぞれです。ブスだってどんな服を着るか選択肢はあります。

その選択肢を否定して、「ブス」という外見のジャッジに終始することの無意味さ。馬鹿らしさを感じます。

 

 

「ブス」だって可愛い服を着てもいいです。服を着るというだけの話です。その服がどのような形をしていたって誰にも文句を言われる謂れはありません。文句を言ってくる相手も服を着ています。相手だって自分で選んだ服を着ているのです。そのことと、「ブス」が服を選ぶことに何の違いがあるというのでしょうか。

 

体や顔の作りによって着られる服を制限されることは馬鹿げていると思います。服を着ることに、制限はいりません。他人からの介入も必要ありませんし、ジャッジも気にすることではありません。服を着るのです。わたしたちは服を着ています。服を着ているだけです。そこでどんな形のものを選択をしたかは好きにしたらいいことです。

 

 

服を着る。そのときに、どんな服を着たいか。そのことは自分の好みに合わせていけばいいと思います。「ブス」だのなんだの言われる世の中ですが、服を着ることに誰が文句を付けられるというのでしょうか。地味な格好をすればいい?裸でいればいい?服を着るという前提に立てば、その服を選ぶことも当たり前のことです。

 

選んでいいのです。もしかわいい服を着たいと思う人がいたら、誰だって可愛い服を着ることが出来ます。

「ブス」だから、なんて気にすることはありません。「ブス」だとジャッジされる謂れもありません。

 

わたしは「ブス」でもかわいい服を着ます。というかそもそもわたしを「ブス」と呼ぶ人間を軽蔑します(そこにわたしの体や顔が整っているかどうかは関係ありません)。誰に何を言われたって、着ます。傷付くこともありますけど。服の形を選ぶというだけのことでそうやって傷付くようなことになるのも理不尽だと思いますが。



とにかく好きな服を着てください。「ブス」だろうがなんだろうが構いません。誰がどんな服を着てても問題にすらなりません。そう思います。

今日はわたしの誕生日

25歳になりました。
四半世紀も、ちゃんと生きてこられたことにびっくりしつつ、悲しくもあります。

昔、10代前半に想像していた25歳のわたしとは、全くちがう人生を歩むことになっています。ストレートで進学して、勉強して、それなりにいい大学を出て就職して、独立して、結婚も見据えていかなきゃならない、大人な自分。そうやって思っていた自分が今、うつになって高校ギリギリ卒業、勉強も出来なかったから浪人一年、大学に通えなくて留年二年。治ると思っていた病気は一生ものだった。

そんなことは考えたこともなかったあの頃が、羨ましいです。25歳になったわたしですが、未だにあの頃考えていた自分のあり方コンプレックスから抜け出せずにいます。四半世紀も生きてきたのにね。無駄な時間ばかりだったとは言えませんが、素直に25間がんばったね!とか、25歳おめでとう!とかいう気持ちにはなれません。


四半世紀。5の2乗です。20歳の区切りから5年。悔いの残る5年間でした。


なーんてぐすぐず言ってたって仕方ないので、今日からも、出来る範囲内でもりもり楽しいことしていきたいです。


10代後半から20歳前半まで。病気が苦しくて、それからセクシュアリティのこととかについても悩んで、友達も出来ず、勉強もできず、楽しいことが一つもありませんでした。
だけど、去年、今年は、積極的に人と会うようにしているし、自分の好きなことや楽しいことを、躊躇いなくやっていけるようになってきたので、次の節目である30歳までには、ああ30年経ったけど、なかなかいいかんじだったなと言えるようになりたいところです。


ていうか25年間も生きてきたことに、わたしは本当に驚いています。苦しくて死にたいと思っていたときも長かったけど、それを越えて、生きてるってすごくない?って思うんです。

話は変わるのですが、今月、高校の同級生が自殺で亡くなられたと聞きました。そこまで仲良しというわけでもなかったのですが、とてもいい子で、好感を持っていた子でした。その子が自殺。全然連絡を取っていなかったから、どういう経緯でそうなったのかはわたしには分かりません。でも、おなじ年の子が、亡くなったということは、非常にショッキングなことでした。

生きるって大変です。
まず、そこを蔑ろにせずに、生きていくことが大切なんだと思いましたし、25年の間で知り合った人たちが今も元気でいてくれるであろうことが、すごく奇跡的というか、ありがたいことなんだなと思いました。
人間いつ死ぬか分からないけど、死ぬまでは生きようと思います。


死にたかった時期もあった、だけど死ななかったわたし。25年間、頑張れたこともあるんじゃないかなと思えるようになっています。

亡くなった子のことは本当にショックでした。それを聞いて、生きることは人に希望を与えるというか、うまく言えませんが、わたしが生きていることで、わたしもハッピーだし、周りの人もハッピーになるなら、生きてもいいかなと思います。

自死という選択肢は、まだあります。それが悪いことだとは思いません。だけど、できるならその手段を使わずに、生きていけたらいいなと思った年でした。

恋愛信仰とセクシャルマイノリティの権利獲得は全く違うものだ

先日、このようなツイートを見かけた。


水原希子さんのツイートだった。

正直よくある、「セクシャルマイノリティに理解を示しているようにみせか ける恋愛信者」でしかないと思った。とても陳腐で浅い認識だ。

当事者の中にも、恋愛信者は沢山いる。同性婚賛成、マイノリティにも恋愛感情はあるんだよ。そう主張する人は多い。しけし驚くべきことに、そこに「人権の尊重」という視点が欠けていることがままあるのである。
セクシャルマイノリティのコミュニティに参加したとき、一番驚いたのはそこだった。人権のじの字も知らない人が多すぎる。自分が恋愛できればそれでいいと思っている人が、少なからずいたのだ。

当事者でさえそのようなありさまであるから、非当事者の認識もその程度に過ぎないのかもしれない。
しかし、他のエントリでも何度も言うように、セクシャルマイノリティの問題を「恋愛できるかどうか」という点にだけ注目するのは間違いだ。それはただの「恋愛信仰」による恋愛の推奨でしかなく、もっと根本的な人権問題をスルーしてし、「恋愛」というきらきらしたもので飾り付けただけのものでしかないと感じる。


「あらゆる人が恋愛できますように」。それにこしたことはない。しかし、そこで終わってはいけない。本質が見えていない。ただ、自分の恋愛観を述べているだけにすぎない。そこには、人権という問題意識はないのではないか。


レインボーを掲げて、自由な恋愛を勧める人が増えている。それはよいことなのだと思う。しかし、「レインボー」と「恋愛」を結びつけるだけでは、足りない。自己満足でしかない。セクシャルマイノリティの問題は恋愛だけではない。恋愛をしたいという気持ちだけでマジョリティに受け入れられたって、仕方がない。そこを知らずに、「レインボー」をかかげるのはいかがかと個人的には思っている。


若者の憧れる人からからのメッセージは、大きな影響を及ぼすであろう。セクシャルマイノリティへの理解に繋がるところも多いと思われる。しかし、影響力があるからこそ、「恋愛信者」をふやすだけになってしまうのは、とても残念である

BL比喩表現リスト

実は一昨年の夏、ふと思い立ってBL小説における比喩表現を集めてリストにしてみようと思い立ち、作成していました。なかなか作業は進まず、サンプルも限られているため、途中で放置してしまっていたのですが、さっきふとリストのことを思い出し、未完成とはいえ放置したままにしておくのはもったいないなあと思ったので、ブログにのせておこうと思います。
画像が荒くて見づらいと思いますが見てもらえるとあの夏の苦労が報われるのでよければぜひ見てね。
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