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BL、生活、その他いろいろ

誰だって可愛い服を着ていい

先日。「ブスは可愛い服を着てはいけないと思っていた」と言われました。

「しおりさんのことを見て、ブスでも好きな服を着てもいいんだってことがわかりました」みたいなことを言われまして、その偏見の解消のきっかけになったのはいいんですけど、まあ無礼ですよね。

それはさておき、「ブス」だろうがなんだろうが好きな服を着ればいいと思います。というのがわたしの主張です。

 

人間、大抵の場合トップスとボトムと靴を身につけて出歩いていると思います。そしてこれは、大多数の人に共通することですよね(全裸で出歩いている人はそうそう見かけません)。

みんな、服を着てるんです、それは共通している。その中で、他人の着ているトップスやボトムの形が自分や周りと違うことに注目することに何か意味がありますか?みんな同じように服を着ている、それだけでよくないですか?その共通点を越えて、人が自分と同じではない服を着ていることにやたらと執着して、バカにしたり「ブスだから」とか言うのは、そちらこそばかみたいだと思います。

 

ブスだって服を着ます。その服の形がどんなものであるか、そのことに何か問題があるんでしょうか。あっさりした服を着る。デコラティブな服を着る。どちらにしろトップスを着てボトムを着て靴を身に付けていることに違いはありません。「形が」違うということに、文句を言うのは、馬鹿みたいじゃないですか?みんな服を着ているだけです。その服がどんな形をしているか、選ぶのは人それぞれです。ブスだってどんな服を着るか選択肢はあります。

その選択肢を否定して、「ブス」という外見のジャッジに終始することの無意味さ。馬鹿らしさを感じます。

 

 

「ブス」だって可愛い服を着てもいいです。服を着るというだけの話です。その服がどのような形をしていたって誰にも文句を言われる謂れはありません。文句を言ってくる相手も服を着ています。相手だって自分で選んだ服を着ているのです。そのことと、「ブス」が服を選ぶことに何の違いがあるというのでしょうか。

 

体や顔の作りによって着られる服を制限されることは馬鹿げていると思います。服を着ることに、制限はいりません。他人からの介入も必要ありませんし、ジャッジも気にすることではありません。服を着るのです。わたしたちは服を着ています。服を着ているだけです。そこでどんな形のものを選択をしたかは好きにしたらいいことです。

 

 

服を着る。そのときに、どんな服を着たいか。そのことは自分の好みに合わせていけばいいと思います。「ブス」だのなんだの言われる世の中ですが、服を着ることに誰が文句を付けられるというのでしょうか。地味な格好をすればいい?裸でいればいい?服を着るという前提に立てば、その服を選ぶことも当たり前のことです。

 

選んでいいのです。もしかわいい服を着たいと思う人がいたら、誰だって可愛い服を着ることが出来ます。

「ブス」だから、なんて気にすることはありません。「ブス」だとジャッジされる謂れもありません。

 

わたしは「ブス」でもかわいい服を着ます。というかそもそもわたしを「ブス」と呼ぶ人間を軽蔑します(そこにわたしの体や顔が整っているかどうかは関係ありません)。誰に何を言われたって、着ます。傷付くこともありますけど。服の形を選ぶというだけのことでそうやって傷付くようなことになるのも理不尽だと思いますが。



とにかく好きな服を着てください。「ブス」だろうがなんだろうが構いません。誰がどんな服を着てても問題にすらなりません。そう思います。

今日はわたしの誕生日

25歳になりました。
四半世紀も、ちゃんと生きてこられたことにびっくりしつつ、悲しくもあります。

昔、10代前半に想像していた25歳のわたしとは、全くちがう人生を歩むことになっています。ストレートで進学して、勉強して、それなりにいい大学を出て就職して、独立して、結婚も見据えていかなきゃならない、大人な自分。そうやって思っていた自分が今、うつになって高校ギリギリ卒業、勉強も出来なかったから浪人一年、大学に通えなくて留年二年。治ると思っていた病気は一生ものだった。

そんなことは考えたこともなかったあの頃が、羨ましいです。25歳になったわたしですが、未だにあの頃考えていた自分のあり方コンプレックスから抜け出せずにいます。四半世紀も生きてきたのにね。無駄な時間ばかりだったとは言えませんが、素直に25間がんばったね!とか、25歳おめでとう!とかいう気持ちにはなれません。


四半世紀。5の2乗です。20歳の区切りから5年。悔いの残る5年間でした。


なーんてぐすぐず言ってたって仕方ないので、今日からも、出来る範囲内でもりもり楽しいことしていきたいです。


10代後半から20歳前半まで。病気が苦しくて、それからセクシュアリティのこととかについても悩んで、友達も出来ず、勉強もできず、楽しいことが一つもありませんでした。
だけど、去年、今年は、積極的に人と会うようにしているし、自分の好きなことや楽しいことを、躊躇いなくやっていけるようになってきたので、次の節目である30歳までには、ああ30年経ったけど、なかなかいいかんじだったなと言えるようになりたいところです。


ていうか25年間も生きてきたことに、わたしは本当に驚いています。苦しくて死にたいと思っていたときも長かったけど、それを越えて、生きてるってすごくない?って思うんです。

話は変わるのですが、今月、高校の同級生が自殺で亡くなられたと聞きました。そこまで仲良しというわけでもなかったのですが、とてもいい子で、好感を持っていた子でした。その子が自殺。全然連絡を取っていなかったから、どういう経緯でそうなったのかはわたしには分かりません。でも、おなじ年の子が、亡くなったということは、非常にショッキングなことでした。

生きるって大変です。
まず、そこを蔑ろにせずに、生きていくことが大切なんだと思いましたし、25年の間で知り合った人たちが今も元気でいてくれるであろうことが、すごく奇跡的というか、ありがたいことなんだなと思いました。
人間いつ死ぬか分からないけど、死ぬまでは生きようと思います。


死にたかった時期もあった、だけど死ななかったわたし。25年間、頑張れたこともあるんじゃないかなと思えるようになっています。

亡くなった子のことは本当にショックでした。それを聞いて、生きることは人に希望を与えるというか、うまく言えませんが、わたしが生きていることで、わたしもハッピーだし、周りの人もハッピーになるなら、生きてもいいかなと思います。

自死という選択肢は、まだあります。それが悪いことだとは思いません。だけど、できるならその手段を使わずに、生きていけたらいいなと思った年でした。

恋愛信仰とセクシャルマイノリティの権利獲得は全く違うものだ

先日、このようなツイートを見かけた。


水原希子さんのツイートだった。

正直よくある、「セクシャルマイノリティに理解を示しているようにみせか ける恋愛信者」でしかないと思った。とても陳腐で浅い認識だ。

当事者の中にも、恋愛信者は沢山いる。同性婚賛成、マイノリティにも恋愛感情はあるんだよ。そう主張する人は多い。しけし驚くべきことに、そこに「人権の尊重」という視点が欠けていることがままあるのである。
セクシャルマイノリティのコミュニティに参加したとき、一番驚いたのはそこだった。人権のじの字も知らない人が多すぎる。自分が恋愛できればそれでいいと思っている人が、少なからずいたのだ。

当事者でさえそのようなありさまであるから、非当事者の認識もその程度に過ぎないのかもしれない。
しかし、他のエントリでも何度も言うように、セクシャルマイノリティの問題を「恋愛できるかどうか」という点にだけ注目するのは間違いだ。それはただの「恋愛信仰」による恋愛の推奨でしかなく、もっと根本的な人権問題をスルーしてし、「恋愛」というきらきらしたもので飾り付けただけのものでしかないと感じる。


「あらゆる人が恋愛できますように」。それにこしたことはない。しかし、そこで終わってはいけない。本質が見えていない。ただ、自分の恋愛観を述べているだけにすぎない。そこには、人権という問題意識はないのではないか。


レインボーを掲げて、自由な恋愛を勧める人が増えている。それはよいことなのだと思う。しかし、「レインボー」と「恋愛」を結びつけるだけでは、足りない。自己満足でしかない。セクシャルマイノリティの問題は恋愛だけではない。恋愛をしたいという気持ちだけでマジョリティに受け入れられたって、仕方がない。そこを知らずに、「レインボー」をかかげるのはいかがかと個人的には思っている。


若者の憧れる人からからのメッセージは、大きな影響を及ぼすであろう。セクシャルマイノリティへの理解に繋がるところも多いと思われる。しかし、影響力があるからこそ、「恋愛信者」をふやすだけになってしまうのは、とても残念である

BL比喩表現リスト

実は一昨年の夏、ふと思い立ってBL小説における比喩表現を集めてリストにしてみようと思い立ち、作成していました。なかなか作業は進まず、サンプルも限られているため、途中で放置してしまっていたのですが、さっきふとリストのことを思い出し、未完成とはいえ放置したままにしておくのはもったいないなあと思ったので、ブログにのせておこうと思います。
画像が荒くて見づらいと思いますが見てもらえるとあの夏の苦労が報われるのでよければぜひ見てね。
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わたしがアライに求めること

ざっくり言えば、「代弁者」になってくれなくてもいいということです。


先日の記事で少し触れましたが、TRPの記事で、こんなものを読みました。
http://www.asahi.com/sp/and_M/articles/SDI2017050952061.html

ここで、ゲストとして参加された中島美嘉さんについてこのような記述がありました。少し引用しますね。

この記事では、
"「LGBTの方々って恋をしてもまずは『この方は自分を受け入れてくれるだろうか』から始まる。男女間なら、『好きです』というだけなのに」と当事者の気持ちを代弁し、「普通の恋ができない人たちがいっぱいいて、私もおかしいと思っている」と訴えた。今回のライブ出演については、「夢が叶った感じ」と笑顔をみせた。"
と書かれています。

これについて、まず、三つの違和感と不満が浮かびました。一つ目は、セクシャルマイノリティの問題を恋愛だけのものだと矮小化していること。二つ目に、セクシャルマイノリティには悲しい「恋愛ストーリー」があり、それに共感したという形でしか受け止められていないこと、最後に、「代弁」という表現が使われていたことです。

まず一つ目ですが、セクシャルマイノリティが直面している問題は、恋愛関係だけではありません。もっと身近な生活のなかで苦しい、困った、ということは沢山あります。そこを知らずして、恋愛だけにフォーカスを当てるのは、正直に言うと知識不足だなと感じました。よく、「自分はセクシャルマイノリティの友人がいるから、セクシャルマイノリティには理解がある」と言う人がいますが、中島さんもそういうタイプなのかな、というがっかり感がありました。
それと関連して、二つ目の問題として、「セクシャルマイノリティは恋愛において可哀想な人達だ」というような意識があるのかなと感じました。勝手に「可哀想な人達」という「ストーリー」を作らなければ、共感できないのでしょうか。
三番目については、一番の問題点であると感じます。「代弁」という言葉です。これについては、ご本人の発言ではなく、記事を書いた人が勝手に書いちゃったことかもしれないのですが、とにかく「代弁」ということにものすごい引っ掛かりをかんじました。

わたしはアライに「代弁」してもらうことを望んでいません。「代弁」してもらわなくては、自分の意見を自分の意見として表すことができない社会なんて、健全ではないと思っています。
わたしがアライに求めることは「代弁」ではなく、ありのままの自分として存在し、自分自身で意見を表明しても拒否されない、忌避されない社会にするために、支援してもらうことです。決して「代弁」など求めていません。
「代弁」されると、代弁者のバイアスがかかる。代弁者の都合のいいことだけをピックアップされる。代弁者の知識量が問われる(例えば中島さんはアセクシャルのことなんて知らないのでしょう)。
「マジョリティ」による「代弁」には、多くの問題があると思います。

しかし最近、アライは「代弁者」であると謳う人達が増えたのではないかと感じています。あからさまな例であれば、野村證券の取り組みです。この記事を見ると、野村證券における「アライ」というものは、「代弁者」だそうです。
これに関してはこの記事を読んでもらえばいいかなと感じます。
http://dentsu-ho.com/articles/3790
ちょっと引用するとこんな感じ。
"例えば商談の席で、部下について「30歳にもなって彼女もいなくて、このままだと“コッチ”になっちゃうぞと言ってるんですよ」と冗談で話したら、実は目の前のお客さんがLGBT当事者だったとか…。不快な思いをさせるだけでなく、野村はダイバーシティとか言いながら全然違う、と会社の信用も落としかねません。"
"アライは、LGBTに理解のない人に対するLGBTの代弁者のような役割もあるので、たとえば差別的な発言があったときにうまい切り返しをして注意を促すとか、非当事者だからできることをもう少し探りたいと思います。"


他にも色々突っ込みどころが多くてしんどいんですけど、とにかく野村證券における「アライ」は「代弁者」だそうです。「アライ」を増やすことで企業のロイヤリティが上がるとかもうあからさまにビジネス~ってかんじがしますけど(もっとあからさまな記事もあったんですけど、見つけられなかったです)。
ちなみに電通ダイバーシティをアピールするページとかはひどいことになってます。金だな、って直球で書いてます。こんなかんじ。
http://www.dentsu.co.jp/ddl/ 具体的にLGBTがどれだけ金になるかとかかいてます。

「アライ」として当事者を「代弁」する、というスタンスでお金を稼ごうとしている企業が増えています。個人単位でもそうです。「アライ」であると表明することでステータスを得ようと考えている人は結構います。

そういう人達は、当事者の権利を支援しているわけではないですよね。ただ「アライ」という言葉に乗っかって、消費者層を広げたいだけでしょ、と思います。不愉快ですね。実際、お金にならないセクシャルマイノリティへの配慮はないでしょ。

当事者の権利を無視して、恋愛に共感しましたとか、ビジネスにしようとか、そんなことを考えている人のことをわたしはアライとは呼びたくないです。

もちろん、アライの在り方というのは様々です。異性愛者だけどマイノリティについて調べて支援してくれる人もいますし、セクシャルマイノリティのパートナーとして、ある意味では当事者であるアライの方もおられます。
アライと当事者の関わり方、在り方というのは、個人によって違ってくると思います。当たり前ですよね、アライの中にもいろんな人がいるし、当事者の中にもいろんな人がいるわけですから、うまくいくこともあれば、対立することもあると思います。しかし、そういったことを体験してお互いを知っていく、そしてどう支援すればいいのか、どのような支援を受けたいのかが分かってくると思うんです。
そのために必要なことは、「代弁」ではありません。しっかりと話し合える、自分のことは自分で説明し、意見を表明できる場が必要だと思うのです。


わたしはアライに「代弁」してもらうことは望んでいません。ただ、自分の意見を自分の意見として表明できる社会を求めています。そのために、アライには支援をしてほしいと考えます。


それがわたしの望むことです。




余談
カミングアウト済みの高校生の弟に、もし自分がアライだったら何する?と聞いたところ、まず一人でできることではないと思うから、人と金を集める、との回答をもらいました。多分NPOとか国境なき医師団とかあのへんを意識しているのだと思います。じゃあ個人としてできそうなことは?と聞くと、老人ホームにボランティアで話聞くようなものがあるけど、そんな感じでやるくらいしかできない、と言っていました。まあ個人的な話なのであれなんですけど、アライと聞いて思い浮かべるのってその辺なんだな~と思いました。弟にはわたしのセクシュアリティ関係の話を聞いてもらっているので、弟が自分からアライを名乗らなくても、わたしのなかではとても信頼できる支援者だなと考えています。そういうちょっとしたことが嬉しいんですよね。