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BL、生活、その他いろいろ

「虎に翼」を見ている(寅子のセクシュアリティに期待したことについて)

今年の四月から放送している、NHKの朝ドラ「虎に翼」を見ている。女性初の弁護士であり裁判官であった女性をモデルにしたドラマで、1話の冒頭から憲法14条(平等権)を読み上げるという内容だったことですごく話題になっていて、気になったので見てみたらすごく面白く、今までドラマをリアルタイムで追いかけたことなんかなかったのに、夢中になって毎日見ている。

 

主人公の寅子(ともこ)は、女学校を卒業したあと、色んな人に反対されながらも明律大学法学部の女子部に進学し、女性であることでもたらされる偏見や困難に「はて?」と疑問を呈しながら前にすすんでいくというストーリーだ。そんな物語の中で、わたしは寅子がアロマンティックか、デミロマンティックなどの、Aスペクトラムに属する人ではないか?という期待を持った。

 

なんでかというと、寅子は同級生から好意を寄せられたとき、「いい雰囲気」には気づき、ワクワクした気持ちにはなりながらも、その後その人と関係を発展させようとしないとか、結婚を「社会的地位を獲得するための行為」としか捉えていない、また、自分に結婚を申し込んできた人の隠された好意に全く気付けない、などの描写があったからだ。しかしその後寅子は結婚した人と「恋に落ちた」というふうに描かれ、妊娠・出産も経験する。

 

ドラマを視聴していた人たちの中で、最初寅子はアロマンティックではないか?と言われていて、恋に落ちたとナレーションで説明が入った以降は、ではデミロマンティックだったのか?と言われていた。もちろんそうではないという見方もあったし、デミロマンティック当事者の人から、「こんなに簡単に恋に落ちるなんてデミロマンティックだったら出来るはずがない」と言われているのも見た。

 

わたしはというと、寅子はデミロマだったらいいな〜……と思っている。そもそもこのドラマを見始めたきっかけの一つに、脚本家が「恋せぬふたり」や「チェリまほ」など、Aスペクトラムの人が出てくるドラマを書いた吉田恵里香さんだったから、というのがあって、「虎に翼」でも、Aスペクトラムの人が出てくるんじゃないかと期待していたからというのがある。まさか主人公がそうであるとは思いもしなかったけど、もしそうだったら嬉しい。

 

一方で、一度寅子はアロマンティックではないか?と期待させておいて、「恋に落ちた」とナレーションを入れて、アロマンティックなのかデミロマンティックなのか、アロロマンティックなのかはっきりさせない状態にしてしまったのは、クィアベイティングなのでは?というモヤモヤも生まれてしまった。

 

ドラマの中での寅子の結婚はすごくいいな〜と思えたし、寅子のセクシュアリティがなんだって物語の面白さや寅子の性格、わたしが寅子を好きでいる気持ちになんら影響はないんだけど、もしセクシュアルマイノリティを描いているんだったら、それをぼやかしてしまうのは誠実ではないと思った。特にアロマンティックは、「恋愛が下手くそだったけど真実の愛に出会ってうまくいくようになったんだね」みたいな言われ方を現実でもするから、そういう考え方を強化してしまうような話の持って生き方をされると、わたしはすごく嫌だと思う。いつでも登場人物のセクシュアリティを明言してほしいわけではないけど、現状そういう偏見がある中で、偏見をもたれやすいセクシュアリティを描くなら、慎重にしてほしいという気持ちがあった。

 

この展開について、色んな人の意見を読んだ。それで、一番しっくりきたのは、「もっとAスペクトラムの物語が増えて、一つの作品に『完璧な』Aスペクトラムの物語を求めるのではなく、色んなAスペクトラムの物語があるようになればいいのに」という意見だった。登場人物がアロマンティックかデミロマンティックかアロロマンティックかそれ以外か、どれであっても「〇〇というセクシュアリティならこうあるはずだ/こうあるはずがない」と言われず、その人らしいね、と受け止められる世の中だったらそれが一番しっくりくる。それから、見ている側の人達が「Aスペクトラム」というあり方を知っていれば、「このキャラクターは恋愛をするんだ」と感じるのと同じくらい「このキャラクターはただ恋愛をしない人なんだ」という受け止め方をすることも出来る。また、Aスペクトラムと一口に言ってもあり方は様々で、一人ひとりに違う生き方があるのだから、「完璧な」一つのAスペクトラム像が描かれるよりもその「様々さ」が多角的に描かれる世の中になったほうが、当事者としても非当事者としてもいいと思った。

 

そうやって、キャラクターが当たり前にAスペクトラムである可能性をもっと共有できたら、キャラクターのセクシュアリティの可能性も広がっていくと思う。「虎に翼」では寅子のセクシュアリティは明言されなかったけど、キャラクターがAスペクトラムである可能性のある作品の一つではあると感じたし、これからもっとAスペクトラムが出てくる作品が増えるきっかけになったら嬉しいと思う。

 

ブログ開設から10年経ちました

今年の二月で、ブログを開設してから10年経ったらしい。はや!こわ!!と思ってびっくりした。

 

読んでくださる方、ありがとうございます。

 

はじめの記事ってなに書いてたんだろう?と思って読み返してみたら、確かにこんな事書いていたなあ……と懐かしくなった。昔の記事は、恥ずかしくてもう読めないです。

 

これからも続けていければいいな。

「アロマ・アセクの今日の装い」記録はじめました

しずかなインターネットで、月ごとのわたしの装いを記録することを始めた。記事のタイトルは、「アロマ・アセクの今日の装い」。

sizu.me

この記事の冒頭でもちょっと書いているのだが、こういう記録をつけ始めた理由には、アロマンティックやアセクシュアルは、服装は地味で禁欲的なものだけ着るはずと思っている人がいるのかも?と思ったからだ。もう少し具体的にいうと、モテ服や、セクシーな服、派手な服などを着ないはず、という思い込みがある人がいるように思われる。

もちろん、禁欲的だったり、シンプルな服装が好きなアロマンティック・アセクシュアルもいるし、セクシュアリティと服装に関係はないと分かっている人もいると思う。ただ、自分が過去に言われたことや、SNSでセクシーな服装をしているアセクシュアルの人が中傷をされているのを見て、このまま黙っているのはいやだな、と思った。

山内尚さんという漫画家さんが、ノンバイナリーとして服装をSNSにアップしていて、「ノンバイナリースタイルブック」も近く刊行されるんだけど、それを知って、自分も、セクシュアリティと服装に関連はなく、好きな格好をすればいいよ、と思える一因になれるように、発信してみたいな、と思った。

 

前置きは長くなったが、そんな感じで服装を記録しているので、興味があればしずかなインターネットでチェックして欲しい。

それから、こうやって服装は多様だよと伝えることを手伝ってくれる人がいるなら、どんな形でもいいので(写真でも、文章でも、絵でも)、発信してみませんか?ということも言いにきた。「アロマ・アセク(もしくは任意のセクシュアリティ)の今日の装い」という文字列を使ってもらってもいいし、コメント欄にやってるよ〜と残してもらったら見に行きます。よかったら一緒にやりましょう。

最近、これは恋愛感情かも!?と思った時の話

わたしはアロマンティックを自認しているけど、たま〜に人に強めの感情で惹かれることがある。大体それは学生の時までのことで、最近ではほぼなかったことなので、アロマンティックの自認に揺らぎはなかったし、そうやって感じていた過去があってもわたしはアロマンティックだな〜と思っていたんだけど、最近、お、自分にはまだ(まだ、という言い方が適切なのかはわからないが)恋愛感情があったのか?と思うことがあった。別に大した話じゃないけど、aromantic spectrum awareness weekなので書いておこうかな。

 

というのも最近、あるYouTubeチャンネルに出ている男性に、強く魅力を感じたのだった。笑い声が特に好きで、その人の笑い声から元気をもらえるな〜と思ってよく動画を見ていた。とはいえ、それって恋愛感情なのか?というのはよく分からなかった。現実に接する人に対しての感情か、芸能人やYouTuberなどの直接あったことのない人、もしくはフィクションの中の人物に対しての感情なのか、というところは、わたしはあまり区別して考えてないので、あまり問題には思わなかったけど、いずれにせよ、それらの人々に魅力を感じることと、恋愛感情までの距離って結構遠い気がする。それから、わたしの場合は恋愛感情というよりは「一時的に夢中になること」が多いから、それかも、とも思った。

 

それで、しばらく自分自身の様子見をしていたんだけど、最初のうちは1日のうちにその人のことを考えている時間が結構あって、かなり「夢中」の状態だった。

 

「ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと」という本の座談会があった。

meandyou.net

そこで、「心理学者のヴィクター・カランダシェフという人が世界中の人々や文献などを再検討した結果、ロマンティックな気持ちというのは典型的には『惚れ込み、理想化、身体的かつ感情的な近さを欲すること、相手のために自分の人生の一部を変えること、そして相手が好意を返してくれなければより執着すること』 などが内包されると書いてあって」と述べられていたので、自分に照らし合わせてみたけど、惚れ込み、理想化などはその人への感情の中に見られつつも、その他はあまり良く分からないな、という感じだった。

 

そもそも、自分がアロマンティックだと思う理由の1つに、世間で言われている「恋愛感情」を構成する要素を、ひとつのまとまったものだと感じられない、というのがある。例えば、前述の恋愛の典型的な要素に関しても、別々のものとしてしか捉えられなくて、特定の人物に対して、いくつかの要素は感じるけど、それぞれが結びついている感情ではないという感じ(それは他の人にとっても当たり前なのかもしれないけど、どうなんだろう)。また、惚れ込み、理想化などを同時に複数の人に感じたりすることもある。

 

今回の「恋愛感情かも?」に関してもここはいつもと同じで、その人に色んな感情が一つにまとまって感じられるということはなくて、いまいち「決め手」に欠ける、と思っていた。

 

わたしはアセクシャル自認(もしくは最近ではイーゴセクシュアルかなと思うようになってきたけど)で、性的な欲求の面でもあまりピンとこず、恋愛と性欲が結びつくタイプの人間でもなかったことを再確認した。

 

時間が経つにつれ、徐々に夢中度は下がっていき、まあ好きは好きだけど、1日の中で考えることの一番ではなくなっていっている。

 

そのことが、「一時的に夢中になっていた」だけなのかなあ、という気になり、この持続のしなさは恋愛感情ではないのかな?と思わせた。そもそも恋愛感情って、惚れ込みなどの要素がどれくらい「持続」したらそうなんだろう。惚れっぽい人、冷めやすい人とかはアロロマンティックでもいるしね。

 

結論、今回は「恋愛感情」というには弱い、という気が自分ではしている。もしこれが確実に「恋愛感情」だ、と自分で思うようになったら、アロマンティックという自認に変化はあるのだろうか、と不思議に思っていたけど、そこに至るまでもなく、「恋愛」でもなさそうだし、アロマンティックなのかな。

 

 

追記

ここで触れていた男性が結婚したらしい。ショックじゃなかったわけではないけど、わたしが交際・結婚したかったのに!みたいな気持ちにはならなかった。そもそも、惹かれているときでも、これは恋愛感情なのかな?と考えた時、まあこのひとが付き合うとしてもそれはわたしではないからな〜という意識が常にあったからというのもある。失恋、という言葉には当てはまらないかな、と思うと、やっぱりそもそも恋でもなかったんだな。ちなみに、人間が当たり前のように結婚していくこと全般にショックを受けて生きているので、今回のショックもそれかもしれない。

 

 

 

ぬいぐるみと暮らすこと

2022年9月に、タテゴトアザラシの赤ちゃんである「しろたん」に出会い、そのぬいぐるみたちと一緒に暮らすようになった。わたしは、ぬいぐるみといっしょに遊んだりする子どもではなかったし、大人になってからも好きなキャラクターのぬいぐるみと過ごした経験もなくて、正直ぬいぐるみたちと過ごすってどうやったらいいのだろう?ということで悩んでいた。

最初にしろたんに出会ったのはTwitterで、フォローしている人たちの中で愛されているキャラクターだった。初めはしろたん自体には興味がなかったんだけど、「ぬい撮り」というものにそのとき興味があって、なんかよさそうなぬいぐるみか、アクスタなんかを手に入れられたらな〜と考えていただけだった。

そんなときに、しろたんポップアップストアが開催されて、「しろたん白いものいっぱいシリーズ」の牡蠣を見つけた。それが、めちゃくちゃかわいかった!!詳しいことはここで読んで下さい。

しろたんに出会った日 - 333

 

それで牡蠣とパンダをお迎えして、名前をつけたりしたんだけど、どうにもぎこちない。ぬいぐるみたちとどう接したらいいのか???

牡蠣をお迎えしてすぐ、レストランで食事をしたので、早速ぬい撮りだ!念願のぬい撮りだ!!と思って意気込んだんだけど、「ぬいぐるみを汚さず、でも料理とぬいぐるみを近づけて同じ画面に収める」というのがかな〜〜〜〜り難しくて、ぬいぐるみを汚さないことを取るか、写真写りを取るかの2択じゃないか?両立は無理なのでは??というところでまず躓いた。

その後も家で自炊したときにぬい撮りをしようとしても、テーブルが汚いからぬいぐるみを連れてこられない、皿に飛沫が飛んでいるのでぬいぐるみを近づけられない、ケチャップなので近づけたくない、湯気が出ているのでなどなど……外でも、きれいな花だなあ、しかし土には近づけたくない、とか、とにかく自分がぬいぐるみを汚すことなくいられる自信がなくて、家では枕元に箱をおいて飾るだけ、出かけるときは巾着に入れてカバンに入れておくだけ、になっている。

これ、楽しいか???いや、枕元にいてくれるしろたんたちはキュートで見るたびに和む。しかし、憧れていたぬいぐるみたちとの生活というのとはかけ離れているように思う。写真に残すことだけがぬいぐるみたちとの暮らし方ではないけど、わたしが思っていたのは、もっと自由に色んなものとぬいぐるみたちが一緒にいて、それを一緒に自分も見ていて、楽しい!と思った記憶を残す、そういう生活だったのに。

しろたんたちと暮らしている人たちは、結構「それ汚れないか!?」ということもする。見ていてヒヤヒヤしている(勝手に)のだが、それがまた楽しそうで憧れている。でも、最近その「汚したくない」という気持ちを考え直すきっかけになったぬいぐるみアカウントがある。

きのこの精さんだ。

x.com

きのこのぬいぐるみが、野山に生えるきのこを紹介してくれるというコンセプトのアカウントで、土の上に普通に置かれているし、そのへんに生えているきのこにぺったりくっついていたり、雪で包まれたり、かなり自然と触れ合っている。白い体

でそうやって過ごしていると当然汚れるので、定期的にお風呂に入っている様子もツイートされている。それを見て、ぬいぐるみ、どんどん汚してどんどん洗えば良いんじゃない?という気持ちになってきた。

きのこの精さんは、汚れるからって土に触れなかったり、きのこに寄らなかったりするほうがなんか不自然で、汚れたって自然に触れに行くことがきのこの精さんのやりたいことなんだ、と思わせる性格をしている。ぬいぐるみそれぞれの性格に合わせて、ぬいぐるみがやりたいことをやってもらって汚れるなら、全然構わない。それは自然なことだと思った。洗えば良いんだし。

洗ったらくたびれていくだろうけど、それも自然なことで、怖がることではないのかも。と思うと、外に出かけたり、ご飯といっしょに撮ったりすることも、もっと前向きになれそうだ。抱きぐるみは抱いて寝ればいいし。涎がついたら洗えば良いのだ。

しろたんは真っ白だから、余計に汚れへの恐怖心があったけど、きっと丈夫に作られているだろうし、もっと楽しいことを沢山しよう。そうやって一緒に暮らしていけたらいいな。