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BL、生活、その他いろいろ

「かわいい」、だからどうした

「かわいい」について、このブログでは過去にも幾つかの記事があり、わたしのなかで長~く考え続けているトピックであるが、ここのところ、また「かわいい」について考え直している。

きっかけは、中国で放送中の、アイドル選抜サバイバル番組「青春有你2」を観たことだ。レッスンの先生に、KPOPアイドルのBLACKPINKリサが参加すると聞き、興味を持っていたら、練習生として、DREAMCATCHERのハンドンとNATUREのオーロラも参戦するとのことで、推しが言語の壁によるハンデなしのステージにチャレンジするぞ!!と興奮して、ネットを介して観た(公式にYouTubeチャンネルがあるのだ)。最初の方だけだけど。

観るのをやめた理由は、「サバイバル」という形式と、「人間の生活を隅々までエンタメとして見せる&観る」のが楽しすぎて怖くなってしんどくなったからだ。実はPRODUCEシリーズも同じ理由でドキュメント部分は全く観ていない。グループ単独の「リアリティー番組」とかも観てない。


まあそれはさておき、でも最初の方は観ていたわけで、そこで頭も心も価値観も、全てをガツンと殴られるような出来事があった。

青春有你2では、所属や経歴、見た目で、放送前から既に話題になっていた人たちがいた。その人たちはそれぞれ、「既存のかわいい」「若い」「アイドル」とは違っていた。なので非常に多様な人々が、多様なアプローチでサバイバルを繰り広げるのかな、と思っていた。
で、事務所別の最初のレベル評価が終わったあと。練習生のなかでも、一際目立つ「イロモノ」組がいた。リーダーシップを取ったのは、frank shangguan。
参考(サムネの人ではないからイントロだけ再生してもらいたい)
youtu.be
ベリーショートで、ばさばさと横に長い睫毛、細い眉、赤いリップ。正直ちょっと怖い。そんな人が、グループのメンバーに語ったのが、「女の子には必ずそれぞれのかわいさがある」「かわいさはひとつではない」「わたしたちがどんな姿であれ、かわいくできる」「かわいさを諦める必要はない」(超意訳)ということだった。自分達に、自分達の「かわいさ」に自信を持てていなかったメンバーは、その言葉にエンパワメントされ、笑顔で練習を始めたのである。frank shangguanさんの強い意思と言葉は、見た目では対極にある他のメンバーの心を動かし、笑顔にした。素晴らしいことである。
しかし、それに対してyu zhangというメンバーは「かわいい?いやいや」みたいなことを言っていた。なんか何を言ってたか忘れちゃったんだけど、忘れるくらいあっさりと「ない」みたいなことを言っていた。

それがびっくりした。そして思った、この人は「かわいい」の枠に入れてもらって、他の「かわいい女の子」と一緒の土俵に上がって評価されることを求めているわけではないんだと。


yu zhangさんは、番組が始まる前、参加が公表されたときに犬みたいって言われたらしい。髪の毛は細かいパーマでもふもふ、化粧っけもなく、目が大きいわけでもない、「かわいいアイドル」とは無縁そうな人だった。
参考 
youtu.be


なんでこの人が「アイドル」に?
と思った。そうして、そこで思い至った。

「かわいいは作れるってわたしは思ってきたけど、かわいいを作ったそのさきに待っているのは『地獄のジャッジ大会』だったよな。かわいいを作らず、『かわいい女の子』と戦う(もしくは連帯する)というのは、どういうことだろうか?そもそも、『かわいいを作る』というのは、全ての人にとってのエンパワメントとして正しかったのだろうか??」



この前ブログで書いたけど、わたしは今「かわいい」から降りかけていて、自由だ。かわいい服は好きだし、身に付けるけど、わたし自身が「かわいい」ではなくなっているようだ。とてもすがすがしい。デブって言われるのがちょっと嬉しいこの頃だ。
しかしだからといって、他の人たちにまで「デブ!」と言っているわけではない。わたしにとっては解放のひとつであった「デブ」という言葉は、一般的には罵詈雑言であり、人を深く傷つける言葉だということは知っている。身に染みて知っているから絶対に言わない。じゃあなんて言うかというと、「かわいい~!!」である。

いや「かわいい~!!!」って、おまえ今、ちょうど今それを言われなくなって嬉しいんだろうよ、なにを思って人に自分が言われたくなくなった言葉をかけているのよと思う。思うがしかし、「デブ」より「かわいい」の方が喜んでくれる人がいる。比較して「かわいい」の方がましかな、とかではなく、「かわいい」が本当に嬉しいとか、そもそも「誉められること」がない、なので比較的毎日工夫しているところ=ルックスを誉めてもらうと嬉しい、という場合があるのだ。

ちょっと前のわたしはそのタイプだった。別に心底から「世界的スーパーモデルになれるくらい身体のどのパーツも整っていてバランスがよく美しいわたし!!!」なんて思ってもいなかったし、なんならコンプレックスだらけであるが、あえて自分を自分で「かわいい」と「誉め直してあげる」「誉めてほしいと他人にも要求する」ことが、自尊心の建て直しや、消化しきれていない幼い頃からの鬱屈、物事に対して消極的にしかなれない自分を「自慢の自分」ぐらいまで持ち上げてあげることに繋がるのだと思っていたから、せっせせっせと自分誉めをしていた。これはこれで楽しいのであるが、次に立ちはだかるのが、「かわいくないとダメなのか」「『かわいい』の定義を広げるということは、血塗れの戦いが繰り広げられている土俵の領域を広げるということでは?」「土俵が広がれば広がるほど、降りられないのでは???」ということだった。



先日も書いたが、わたしは早く「若い女」の土俵から降りたい。デブでいいです。でも楽しく生きてはいきたいし、人生デブなときもあれば痩せてる時もあるのが当たり前だと思うが、その体重の上下に合わせて土俵に乗ったり降りたりを無理矢理させられるのはダルすぎる。はやいとこ楽しく自由にデブでも痩せててもかわいくてもそうでなくても暗示を用いても用いなくても生きていけねえかなあと思っていたのだった。


そんなことをつらつら考えているときに現れたのが、yu zhangさんだ。「かわいい」が評価される土俵に現れた、「かわいい」を求めない、「かわいい」ではない人。他人にも「かわいい」を求めない人。

そしてこの記事にもであってしまった。
高島鈴さんの連載第六回「笑う流浪者、あるいはルッキズムに抗うための破壊」である。
http://www.ele-king.net/columns/regulars/alternatives/006924/

まさに、わたしの考えていた救いと苦しみとの拮抗が表されていた。読んでちょっと泣いた。

で、ここで少し後半を引用したい(引用するが、面白いから全文読んでほしい)。

"見た目が泥でもそれはただの選択肢のうちの一つだ。あなたが存在することに誰一人けちはつけない、誰もが「よい/悪い」のベクトルに進んで乗らねばならないいわれはないのである。"
"汚い格好をしろという意味では全くない。強く切実な覚悟を持って美の世界に身を置く人を否定するものでもない。この社会で生きている限り身の内に溜め込まざるを得ない見た目にまつわる規範と批評とベクトルを、きちんと捨てたいということだ。"


それからぐさっときたのは、能「蝉丸」で、蝉丸の姉である逆髪という「狂った女」を、"理解はしているのだ、ただそこに迎合せず"と表しているところだった。


そう、わたしは、そして周囲の人たちは、「理解はしている」のだと思う。「かわいい」姿であることの、気高さと、惨めさと、苦しさとを。

だからわたしはわたしに「かわいいねこのデブ!」と思うし、自己肯定感アップさせるパーソンとして「○○さん今日もかわいい!!」と言ったりしている。

それがエンパワメントになっている人もいるし、余計な縛りになっている人、逆に誉められたからこそ惨めだったり、コンプレックスになってしまう人もいるだろう。その区別を付けて、わたしは「かわいい!」と言うか言うまいか決めているが、そう、ここでの大きな問題、というか今日のブログの本題ですが、「なんでおまえがかわいいと言う/言わないのジャッジをしてるんだ、何目線?何様???」ということである。


いやもうほんとに、わたしは何様なのか。
わたしに誉められたら嬉しいだろうなって何様なんだ、クソじゃん…でもわたしが素直にかわいいと思ったものをかわいいと口に出すだけで、救われてくれている人がいるなら、わたしが存在する意味もある、が、自分の存在価値を他人のそういった安心や喜びに立脚させてしまっていいのか、他人を揺るがす部分にどっかり座り込んでいいのか、等と思い始めると止まらない。


どうしたらいいのだろうか。
frank shangguanさんならどう言うだろうか。yu zhangさんならどう考えるだろうか。高島鈴さんなら?お三方の年齢は調べてなくて分からないのだが、恐らく20代ではないかと思うので、同じように20数年生きてきて、全く違うスタンスを取った二人と、それを観ていたわたし。20年以上かけてもまだ未熟なこの気持ちを、どう扱えばいいのだろうか。どう扱われたいのだろうか。



「かわいい」、だからどうした。
社会が多様になってきているなかで、ひとつの単語のみでエンパワメントできるはずはない。だからといって、社会の多様性に合わせて言葉の意味を無限に広げていくのも、よくない気がする。どこまで行っても何をしても、ひとつの言葉にからめとられて包み込まれるのもいやだろう。エンパワメントのもとになる言葉を細分化して、沢山作ってみたらどうだろうか?比較できないジャンルから、色んなものをひっぱりだしてきて。

うーん。



ここのところ、悩んでいることである。ほんと。
そしてわたしは何目線?何様なの?というところを非常に気にしていかねばならないと思う。自戒。何かしらの考えが浮かんだらまた書きます。じゃ

さよなら、界隈

先日、大学のときにセクシャルマイノリティ同士だということで知り合い、卒業するまでそこそこ付き合いのあった人と久し振りに連絡を取って、話をすることになった。

3年ぶりくらいに話したので、「こんにちは、久し振り。体調どう?」なんていう至極平凡な挨拶から始まり、至極平凡に会話は終わった。

お互いに、「めっちゃ丸くなったね」と言いながら。



わたしとその人が出会ったとき、その人は見た目で性別も年齢も分からなかった。わたしが見た目で人の情報を当てるのがすごく苦手であることを差し引いても分からなかった。ゲイが大半を占めるサークルにいたので、男性かと思ったけど、当時のその人は「FtX」だった。あとパンセクシャル(これはあとから聞いた)。わたしの当時の自認は「アセクシャル」もしくは「レズビアン」、または「男性嫌悪」であった。見た目は、人生のなかで一番フェミニンな時期だったから、わたしとその人は全然仲良くなれそうにないな、とわたしも、周りも思っていた。


しかし諸々あって付き合いが始まり、話をしてみると、とても楽しい相手だった。その人は自分のセクシュアリティに興味があり、本格的に調べていたし、わたしも「アセクシャル」として色々と活動をし始めた頃だったから、話題はもっぱらセクシュアリティのことだった。XとAce、全く違うようでいて、共通点がいくつか見付かった。それは、「自分を困らせるものを『あって当然のもの』だとしない限り、自分がどういう人間なのか、自分が何に困っていて、何に疑問を持っているかを話せない」というところだった。例えばその人は「男女二元論」が嫌いで仕方ないのに、Xの説明をするときには「男でも女でもない」という言い方をしなければならないことに悩んでいた。また、「自分のセクシュアリティを説明したところで、『主張』や『世間への要望』が出て来づらい」とか「完全に典型的な○○ではないから下手に名乗ると嘘つき呼ばわりされる」とかいう話もした。こちらの例としては、「『同性婚を認めて』とか、『愛は平等』とか、運動の目標が決めづらくキャッチコピーも作るのが難しい」「Xといっても、男性と付き合えば『やっぱりヘテロじゃん』と言われる」などが挙げられる。


出会ったとき、サークルのリーダーは積極的に活動するシスジェンダーのゲイで、その人の知り合いのゲイや活動家と話すことも多かったが、「特に主張がない」わたしたちは、なんとなくしらけた気持ちでいたのだと思う。

「わたしたち」というと大きな括りだが、先日の会話でこの言葉を使用したときに、「いや、分かるよ、いいよ」と言われたので、「わたしとあなた」という意味の「わたしたち」は、確かに存在したのだなあと思った。

しかし「わたしたち」はあまり知られていない存在で、知られていない存在同士の組み合わせで、どこに行っても説明を求められた。それってダルいし、「わたしたち」は結局は違うセクシュアリティだから、友だち作りや「自分作り」は専ら各自の「界隈」でやっていたのだった。



ところで、「界隈」とは何か、という話を挟まずに話を進めるのはなあ、と思うのでちょっと寄り道するが、「界隈」とは、辞書的には「あの辺」と地理的な場所を示す言葉である。しかしネットなどでは「属性」を示す言葉らしい。
例えば「セクマイ界隈」とかって言うと、「セクシャルマイノリティである人たちを示す」言葉となり、ときには「セクシャルマイノリティの人たちの集まり、コミュニティ」をみたいな意味で使う。と、理解して使ってきたので、ここでもそんなような意味で使う。



話を戻すと、「わたしたち」は、それぞれ「トランスジェンダー界隈」「Xジェンダー界隈」や、「アセクシャル界隈」「異性嫌悪界隈」「フェミニズム界隈」など、自分の属性と同じ属性を持つ人たちのゆるいコミュニティ、すなわち「界隈」に参加して、自己の属性を表す肩書きみたいなものを固めていたのだと思う。どう表現すればいいか分からないが、「界隈」特有の匂いというものがある。雰囲気といった方がしっくりくるだろうか。使用する言語や、ものの見方が「この人あの界隈っぽいな」ということをふんわり知らせてくる、何かがある。「界隈」に長く居れば居るほど、顕著になるあれ。

例に漏れず、わたしとその人も、「わたしたち」という括りでありながら、違う匂いを漂わせていて、その匂いが強くなってるときに、「ねえ今『そっち界隈』どうなってんの?」とか聞くと面白い話が聞けたりした。そうやって、「わたしたち」は「こっちの界隈」には今こんな話題があるよとか、こんな人がいるから会ってみる?とか言いながら、お互いの「界隈」を覗きあって過ごしてきたのである。



しかしそのひととの連絡は、大学を卒業してから途絶えた。会おう、という連絡はたまにしていたが、結局約束はお流れになってしまうとか、色々あって、会えないままいて、3年。いろんな人の安否が心配なこの頃、連絡を取ったらちゃんと返事が返ってきて、よかった、安心、じゃあ喋ろう、ってことになった。


そして卒業してから今までのことをつらつらと話したのであるが、そこには「わたしたち」という意識はあまりなかった。そして、「界隈」の匂いも消えていた。

聞いてみると、大学に居たときほど「界隈」に顔を出していないらしい。わたしもそうなので、今は自分が「界隈の人と比べてどうなのか」ということがあまり自分で分かっていない状態であった。

こう書くと、「わたしたち」はぼんやりとした存在になってしまったように思えるかもしれない。

でも実際はちょっと違う。

ぼんやりとしたところは、確かにぼんやりした。その部分というのは「界隈」で身に付ける価値観、言葉の使い方、仕草などである。そこはぼんやりとしてしまった。しかし、その価値観などは消えたのではなく、「自分」と融合していったのだ。

今まで、「家での自分」「この界隈での自分」「あちらの界隈での自分」といったように、ある程度の仕切りが存在していたのだと思う。
抽象的で申し訳ないが、「界隈」をプールみたいなものだと想像してほしい。「○○界隈」に行って仲間入りしたければ、プールまでいって、よろしくー!と言いながらそのプール特有の手続きを経て入水する。そして、自分と似たような人と、同じプールでぷかぷか漂って、触れたり離れたりしつつ、「界隈」で過ごす。「△△界隈」に行きたければ、またそちらへ行って、手続きを経てプールでぷかぷかする。たまに、「あっ、先ほどあちらの界隈でもお会いしましたね」とか言う人にも出会いつつ、ぷかぷかと浮かんで流れる。「界隈」に浸され、その匂いをまとう人間になる。


けど、今のわたしたちはほとんどプールには行っていない。生活の軸を、プールには置かなくなった。乾いた地面に足をつけて生きている。

その理由は、界隈に行く暇がなくなった、「生活」のなかで、セクシャルマイノリティである部分がウエイトを占めなくなった、とかそんな感じである。


「生活」とは、一つのことに集中できない暮らしだな、と思う。色んなことが並行して起きていって、何を優先的にやるのか、考えないといけない。手の届かないものも出てくる。
そういう「生活」と、「界隈」というのは相反する部分も多いのだと思う。「界隈」とは、「みんな」である。「生活」は、「自分」だ、という気がする。

「自分はどのような人間か」「今の自分は自由なのか」。そういったことをしっかり見つめて、考えないと、「生活」で優先すべきことが分からない。「みんな」が言うことに従っていたら幸せになれるような、そういう括りで生きていける時期が終わってしまったのだと思う。「界隈」が悪いというわけではない。「界隈」での「みんな」との経験を経て、「自分」を把握し、「規則(みんな)」と「自由(自分が出来ること)」の差を理解して、「自分の生活」に必要なものはなんなのか、を考える。

「みんな」と生きていける時間って、限られている。働くようになったりして、いわゆる「社会」に出たら色んな人がいるってことが分かるし、その人たちとも多かれ少なかれ付き合っていくことが求められる。そんな「社会」では、「みんな」は存在しない(実際は存在しなくもないけど、存在することに無批判だと、なんかきな臭くなってくる気がするのでここでは理想として「ない」ということにしておく)から、「自分」をちゃんと作り上げておかないと、プールなんかとは比にならない、大きな波に飲まれてどこかに行ってしまうのだと思う。ぷかぷか、ではすまない。気付いたら、ここどこ状態である。


それが分かってきたから、わたしたちは「界隈」からでて、「自分」を捉えに行ったのだろう。


わたしたちは、まだ「わたしたち」と言える仲だ。それはそれで嬉しい。しかし、その人とわたしはもう「わたしたち」でないところも多いし、「界隈」の人でもなくなった。「わたし」と「その人」の2人で話すことは、とても楽しい。あの頃、わたしとその人を隔てていた膜はどこかへ行き、全てがつながり、混ざり、だけど「あなたとわたしは違う」「生活」を送る人間同士になった。



ふーむなかなか悪くないですね。
「界隈」に助けられて生きてきた「わたしたち」が、「わたし」と「あなた」になって、生きていく。



さよなら、界隈。
もう、自分で立ってどこにでも行ける。
「みんな」と溶け合って出来た「自分たち」が、集まって溶け合って、混ざって、1つの「自分」になる。
そうして、「生活」していく。



「生活は人をつまらなくさせる」。
他人を楽しませることより、「自分」がどう善く生きるかを考えるようになるだけじゃないかな。
「自分」がしっかり出来上がった他人と話すのも、楽しいよ。

だから、さよなら。

わたしの愛するぽよぽよお肉ちゃんの話

 ひとつ前の記事、「熟女になるまで待・て・な・い♡」で、現在のわたしの体重は88キロであると書いた。完全にメタボリックである。この前病院での定期検診で出た中性脂肪の数値はアウトゾーンだったし、最近内科の先生にも注意をされたところである。


運動不足と過食による肥満なので、健康に悪いのは分かっている。しかし、わたしは今、自分の体に付いているお肉ちゃんたちが愛おしいのだ。


コンビニで食べ物を買い込んではひたすら食べるという生活をしていたが、一食にかける食費は馬鹿にならなかった。普通に現代で暮らす人間が必要とする以上の量、カロリーを摂取しているため、胃もたれがひどかったり、お腹を壊したり、色々あって、その結果のお肉ちゃんたちである。

完全に精神的な不調やもろもろのストレスが原因の自傷行為であるため、太った経緯に関しては絶対に真似しないでください、ただただ辛いだけなので、というかんじなのだが、「太った」という結果だけを見てみると、今わりとハッピーなのである。



というのも、これまた前回の記事で書いた通り、太って、不健康そうで、かわいらしい服を着られなくなったわたしは、「若い女」とは少し、ほんのちょっとだけだけど、違う存在になれたみたいだからだ。



具体的に、「若い女」というものがなんなのか、自分の体重の推移と体験を元に書いてみたいと思う。

まず、わたしは18歳くらいまで、「痩せてる」と言われたことはなかった。義務教育のなかで、定期的に受ける健康診断によれば、わたしの身長と体重は大体「標準」だった。背は少し高い方だが、体のバランスが悪く、足がめちゃめちゃ短いので、あまり「スッとしている」雰囲気もなかった。
世の中の「痩せてて」「スッとしている」人というのは、「健康体重」ではなく「美容体重」のなかでも、細い方にいる人たちだ。「健康体重の面からすれば普通、健康」というのは、世の「美」からすれば「太っている」ということになる。
そのギャップに苦しんでいた時期もあった。健康ならそれでいいじゃん、でも太ってると言われるのも嫌だな……。結局ダイエットはだるいからという理由でしなかったので(運動も好きではないけど、「かわいくなるために」運動していることに対する親や友人の反応もだるかった)、わたしは18歳くらいまでは「垢抜けない」「デブ」、ということになっていた。また、「垢抜けないデブから脱そうともしない女」というのはあまり評価されないので、親からも容姿を誉められたことはないし、同世代の人たちから「恋愛対象」として見られることもなく、まあそんなもんだよな~特に自信があるところもないし、ルックスと、そこに結び付きやすいジャンル(恋愛など)においては、自分は軽んじられるのが当たり前だろう、と思っていた。
元々男尊女卑がきつい環境で育ったため、美人であっても愛想よく生きろ、ブスはブスという欠点がある分美人よりもさらに努力せよ、とかいう風潮もあった。もしくは、「勉強ができるならブスでも仕方ないね、でもあんまり賢すぎると嫁の貰い手がないよ、ただでさえブスなのに」ぐらいの感じだった。
わたしは幼い頃から「女に産まれた段階で損した」と思っていて、「結婚や出産はしない、キャリアを積んで金持ちになって、男にひけをとらなくなりたい」という気持ちが強かった。それから、美人は美人で嫌な思いをするんだな、というのを目の当たりにしてきたので、「美人も損だな」と思っていた。とにかく見た目や愛嬌で判断する人間も社会も、全てが嫌だったので、見た目に頓着しないでおけば、周りもわたしの見た目に頓着しないだろうと思って過ごしていたんだけど。

18歳ぐらいのとき?にうつ(のちに双極性障害)の診断が下り、投薬治療をはじめたのをきっかけに、体重が一気に20キロくらい落ちた。ご飯がほぼ食べられなくなったからだ。毎日吐く……死ぬ……と思っていたというしんどい記憶もわたしにはしっかり刻まれているが、周りから見たわたしは、結果として「痩せてかわいくなった!」になった。

初めて言われたときはびっくりした。
顔つきも変わってないし、性格も変わってないし、本当に痩せただけ、しかも痩せたというよりは、やつれたとか、飢餓状態、というのが事実に近いので、「なにを祝われているのか!?」という戸惑いが大きかった。なにが起きたのか、この時点ではまだ分かっていなかった。

痩せて、大学に進学し、今まで「媚び」としか捉えていなかった洋服や化粧、とくにフェミニンなテイストのものを身に付けるのが楽しいな、面白いな、と感じられるようになった。
慣れないながらも化粧をして、今思えばよく分からないコーディネートだけど、当時のわたしからしたらすごく考え抜いた服装をして、まあいわゆる大学デビューというものを果たしたわけである。外見だけ。

そしたら、色んな男性に声をかけられるようになった。「華奢だね、荷物持とうか?」「お上品だね!付属高の子?」「ご飯行こう、奢るから」、など。

全てに対して「なんで?」という気持ちだった。華奢、確かに痩せたので華奢に見えるかもしれないが、荷物は自分で持ちたいというのは変わってないので、「結構です」。お上品……というほど高いものを使ってるわけでもないし、この人化粧とかに疎そう、塗ってりゃいいみたいなタイプかな?知らんけど「いや田舎の出ですけど」。ご飯「行く訳ねーーーーーーだろ」。


いや、本当にびっくりした。
なぜなら、痩せて、いわゆる「大学デビュー」を果たしたものの、別にわたしは美人とかかわいいとかいう造りではないのだ。足が短い、顔は大きい、目は小さい、鼻は低い、撫で肩、とか色々。「世の中の綺麗な人」といわれるためのパーツがある方が美人で、ないならブス、という判断をするのであれば、わたしには全くないので、美人ではないということなのだろう。それは自分でも把握している。

ならば、何故大学に入った瞬間、それまでの「デブ」「ブス」扱いから「かわいい」と言われるようになったのか。

「痩せていて、化粧をしていて、フェミニンなので、こいつは『女』扱いができる」と思われたのだろうと考えている。痩せた経緯や、化粧のスキルや服・コスメの質なんかはどうでもよくて、「こいつは世の中の『かわいい』に合わせてきているのだろうから、世の中で当たり前に行われている、『女として値踏みされる』ことも受け入れるだろう」と、ただそれだけなのだろうと思った。


これは非常に気分が悪い。
「レッテル」しか見られていない。レッテルを貼られて、値踏みされ、ニコニコ返事をすることを求められる。わたし何もしてないし、中身は変わってないのに、そんなもんは知らぬとばかりにベター!!!っと「若くてフェミニンな、値踏みしてもいいしバカにしてもいい存在」というレッテルが貼られるのである。ムカつく!!!

しかし、いくらムカつく!と怒ろうが、無愛想でいようが、上記のような態度をとってくる人たちは見た目しか見ていないし、見た目が最優先なので、わたしの感情なんてなんの意味もなく、言われるとしても、「若い女の子がそんなに怒ったらかわいくないよ」とかである。やってられねえ~


だからといって、「『若い女』と言われないために、化粧も地味にして、服も地味にして……」とか、「中性的な格好をして……」とかはしたくなかった。わたしはわたしが、その時々で好きになった格好をしたいから。

……という理想もありつつ、しかし「若い女扱い」に体するストレスも溜まるので、どうしたものか、と思っていた。



そしたら、25歳頃から太りはじめた。そのときはうつではなく、双極性障害という病気に診断が変わっていたのだが、その病気の症状のひとつだったのか、薬の副作用なのか、ストレス性のものか、とにかく毎日めちゃめちゃお腹がすくようになって、何故か高カロリーなものが食べたくて仕方がなかった。……という生活を続けて3年弱で、すごく太ってしまった。特にここ数ヵ月の体重の増加は著しい。

最初はわたしも太りたくはなかった。コントロールが効かない身体が怖かったし、市販の服が綺麗な(というかデザインした側が想定している)ラインで着られなくなった。60キロ半ば~後半くらいが一番つらかった。
一番しんどかったのは、「最近太った?ダイエットしなよ」と言う人が多かったことだ。「痩せた経緯」については無頓着で、わたしが死ぬかもしれなかったぐらいのところを「痩せてよかったね」で済ますくせに、「太る過程」には不躾にものを言うんだな!?という怒り。何故あんたの思う通りの身体を造って維持しておかないと駄目なんだよ、わたしの思う通りにすらならないこの身体を、無責任な他人に合わせられるか!!という怒り。

だけど、70キロを超えたあたりから、どうでもよくなってきた。わたしもどうでもよくなったし、まわりもどうでよくなってきたのだと思う。わたしとしては、身体をコントロールできるなんてこと、あり得ないっていつまで経っても学ばないんだね自分ちゃんよ、と思った。大体のものは着られない。分かった。諦めがついた。メイクは問題なくできるので、いい。

80キロを超えた頃。かかりつけの病院の先生や、親から、健康面で太りすぎはよくない、と言われるようになった。わかっちゃいるけどねぇ……という気持ちを、先生たちはわかっている。母は、結構頻繁に注意というか、「またかわいい服を着るしおりちゃんになってほしいなあ」という、健康を大事にしてくれてるのか、一人娘が自分の好きなテイストで生きてほしいのかよく分からない文句を言ってくる。父や他の人は、「見てはいけないもの」扱いをしてくる。


結局、現在は身体についてなにか言ってくる人は両親と病院の先生だけになった。わたしを「若い女」として見ていた人たちは、わたしが太って「劣化」したので、「若い女」というレッテルは剥がしてくれたらしい。「ブス」「デブ」「キモイ」とかは思われてそうだが、心のなかで思ってるだけならまだいい。寄ってこられるのが嫌すぎたので、来ないでくれればそれでいい。そもそもわたしは何も変わっていないので、勝手に変わっていきなりこっちに来たり、どこかへ行ってしまう人たちに特に思い入れはない。



そうやって、わたしは今、「デブ」なので「細くあるべき」である「若い女」ではなくなった(「慎ましやかな」「若い女」とかそっち方面のレッテルはまだついている)。

前に比べりゃ大分ラク
異性愛者じゃないのに、異性愛者とみなされることない。何故なら「デブ」は恋愛の土俵には上がらない。ご飯も一緒に行かない。「デブ」には食費がかかる。「あわよくばセックス」の相手にもされてないんじゃないだろうか、見た目がよくないから。


元からそんなことして要らない、と思ってたから、「若い女向けのちやほや(?)」がなくなっても大丈夫。
嫌で仕方がなかったことがなくなって、ハッピー。
わたしを「デブ」と言う人もいるけど、そんなしょうもないことを口に出す人間なんて大したことないので、マイボディをリトマス試験紙にできるのはありがたい。


自由を感じる。
すこし、ひねくれた自由を。


わたしの身体は、わたしが買って、わたしが時には吐きそうになりながらかき込んで食べた物の分だけお肉がつくことが分かった。だから、今わたしの身体についているお肉はワシが育てた、と胸を張って言える。

病気によって、身体をコントロールできなくなって10年以上が経った。思考が身体を完全にコントロールできる訳がないと知って、納得もしている。今回の肥満も、ストレスによって始まったものだし、減量しようと決めてからも上手く行かないときが多い。だから、身体と自分の気持ちのちぐはぐさみたいなものに、振り回されても諦めをつけるようにしている。どうしようもないからね。

でも、他人がわたしの身体をコントロールしようとすることは、永遠に許さない。
わたしの身体を値踏みして、悦に浸らせはしない。

何故ならこれはわたしの身体だから。
わたしが、日々の生活で付き合っている身体だから。


ねぇみんな見てよ、わたしのかわいいぽよぽよお肉ちゃんを。わたしが時間とお金をかけて育てました。ぷよぷよしてる。
何故目をそらすのか?わたしはまだ「若い女」だけど、もういいんですか?見たくないんですか?醜い身体だから、もういいんですか?



わたしがわたしの手に取り戻した身体。不健康だけど、わたしの身体。誰も見向きはしない。心の底でなにを思われていてもいい。値踏みされない、それだけでもちょっとはマシ。


わたしの愛するぽよぽよお肉ちゃん。
そろそろ本当に減量しようと思うから、徐々にお別れすることになるだろうけど、今の自由を忘れはしない。値踏みされる価値もない「わたしの身体」。
「わたしの身体」なら、誰に好かれなくともわたしが大好きになる。自由になる。

それを体験したから、お肉が付くのはもう怖くない。痩せて、また嫌な思いをするかもしれないけど、わたしの身体はわたしのものだという感覚をもう知ったから、それを忘れずに生きていければ、頑張れると思う。

ありがとうございました。



と別れの言葉を言ってみたけど、わたしは怠惰だからもう少し付き合っていくことになるかもね。



20200515追記

お肉ちゃんを沢山持っている人と美について、少し気になっていることがあるので、追記をする。
太っている、ここでは美容体重以上というよりは、3L以上の服を着る人、くらいに思ってもらいたい。

今は、プラスサイズモデルというものもあり、比較的身近なところで、それなりに見える服を手に入れることが出来るが、「手にはいるもの」で「それなりに見える」自分で満足せず、「イカした」自分になりたいとしよう。
イカした」肥満体型の女性と聞いて誰が思い浮かぶかというと、わたしは渡辺直美さん、フォーリンラブ・バービーさんとかが思い浮かぶ。海外のアーティストも浮かぶ。各々思い描いた人は違うと思うが、わたしが思い浮かべた人たちの共通点は、「わりと脱いでる」「露出が多く、セクシー」である。

ここ最近、「デブと言われたけど超ポジティブに生きてる女性」とか、「エンパワメントされておしゃれになろうと思った肥満体型のインドアオタク」とかが出てくるドラマや映画のキャプチャを見るのだが、大体みんな露出度たかく、ぴっちぴちの服を着ている。ボディライン丸見えである。


「デブが美しくあろうとするなら、セクシー路線で肉を見せろ」ということなのだろうか。
わたしは寒いの苦手なので、あんまりそういう格好は好きではない。あと、自分のお肉ちゃんたち自体は好きだけど、胸や尻がでかいのは、いまだに嫌だなあ思うことの一つである。デブでもブスでもババアでもなんでもいいが、そうやって貶す対象だとみなされていても、何故か「乳がでかい」「尻がでかい」というのは、注目される。もちろん嫌な意味合いでだ。「エロい」「はしたない」なんでもいいが、本当に気持ちが悪い。


実は、ここのところ無茶に増やしたお肉ちゃんは嫌いではないが、その前からついている乳とか尻とかのお肉は嫌いである。お肉が悪いわけではないが、こんなもんどっかいけばいいのにな、と思ったことは多々あった。


どうまとめたらいいのか分からなくなってきたが、そうねえ、わたしは胸や尻の肉についてはコンプレックスがある。これがあるかぎり幸せになれない、位に思っている。でも、このコンプレックスを乗り越えた先にあるのは、「胸や尻を気にせず露出多めでセクシーな女性になること」なのか?という疑問がある。そして、「きちんとした女性」「自信のある女性」「成功した女性」は、セクシーにならなければいけないのか?という疑問もある。セクシー、というよりは、「広く恋愛対象になりうる/性的な魅力を持つ存在」に「戻る」必要があるのか、ということである。


ぶっちゃけ戻りたくないのだが、そのまま「枯れていく」のも面白くはない。なにか、面白く生きていきたい。さて、そうやって生きる上で、お肉ちゃんとはどう付き合うか。考えどころである。

熟女になるまで待・て・な・い♡

ピチピチ☆20代、未婚女子です♡

最近の欲望、こっそり教えちゃいますね!
マジで早く「若い女」の土俵から降りたい。


いやほんとどうやったら降ろしてくれんの!?熟女になるまで待ってられないんですけど!?今すぐ!い・ま・す・ぐ!!「若い女」から降りたいんだが!?
というか降りてるつもりなのに知らないうちにまた土俵にのぼってたりして、なんだこれはだまし絵の階段か、早く、さっさと、わたしを土俵から降ろしてくれ!!!!!


なんでいきなりこんな話を?と思われるかもしれない。「若い女から降りる」ってなに?と思う方もいるだろう。
この記事を書くきっかけになったのは、アルテイシアさん(@artesia59)の「アルテイシアの熟女入門」というWeb連載(https://www.gentosha.jp/series/artesia_jukujo/)。今月分の話題が「若い女」から降りたら楽になった!というもので、今月分も楽しく読んだ。

リンクから全文読んでもらいたいが、今回のブログのメインテーマになるところを一部引用させていただく。

"若い頃は若い女だからとナメられて、失礼な発言やセクハラをされまくったし、かと思えば「若い女だからってチヤホヤされやがって」と勝手に妬まれたりもした。
若い女」という記号が外れたことで、「人間」として生きられるようになった。"
(https://www.gentosha.jp/article/15381/)


素晴らしい!記号が外れた瞬間の解放感たるや、想像するだけでも清々しい。


しかし、ここで疑問がうまれた。

わたし、まだ20代。あと数年で30代になるけれども、まだまだ年齢は「若い女」にくくろうと思えばくくれるのだ(くくろうと思わなければくくられないが、ちょっとここではおいておく)。


アルテイシアさんのように40代になるまでには、干支が一周する必要があるくらい、時間がかかる。

そんな……それって……耐えられない!!!!!
いつまで「若い女」でいないといけないんですか!?!!?!!


若い女」から降りる。
今までの苦しみが、自分が「若い女」、つまり大人しく慎ましやかで年上や男性の言うことをニコニコして聞いているべき人間だとみなされているところに原因があるとはっきり気付いたのは20歳前後のことである。「男尊女卑」の社会に生きていることは幼いときから知っていた。どれだけ頑張ろうが「お前は女で、まだ幼いのだから、バカでいろ、かわいく笑っておけ」と言われてしまうのは何故だ、と思っていた。
大人になってから振り返ると、幼いときのわたしは、将来「若い女」になるための仕草を学ばなければならない存在であり、「若い女」になったわたしは、とにかく男に気に入られるようにしろ、男性に服従して、体も思考も全てを捧げるべき存在だとされていたのだと思う。


わたしが「そうしたい」と思ってやるならいいが、わたしは産まれてこのかた男性に尽くす気もなければ大人しくする気もなかった。それなのに、わたしは「土俵」の上に立たされていた。気付かぬうちに、立たされていたわけである。そして、降りるための梯子は与えられないし、飛び降りたろかと思っても、何ですか?バンジージャンプの紐でも付いてんのか?というくらい、勢いよく降りた分だけ大きな反動を伴って土俵に戻される。


マジでどうやって降りたら良いの?本当に加齢を大人しく待っていられない。


そんなことをモヤモヤと考えながら、地道に「みなさんの考える若い女とは違うんです」アピールをしてきた。「恋愛は面倒だ」「結婚はしたくない」「ふてぶてしい」「髪の毛金髪にした」「太った」。

今のところ、「若い女」から逸れるために有効なのは「太る」だな、と思っている。

わたしは身長が160センチちょいある。体重は、20歳の頃は50キロだった。この体重は、病気によって非常に不健康に痩せた結果なのだが(だからこの数値は理想ではないし目指さないでほしい)、それを知る人にも知らない人にも、ウケた。
「やっぱり年頃の娘さんはしゅっとしてきれいな服を着てると華やかで良いね!」というわけである。

大人になってから、かわいい服を素直にかわいいと感じることが出来るようになり、フェミニンな服装や化粧を好んでしていたため、わたしは見た目だけは「若い女」であった。故にこの様な評価はしばらく続いた。

しかし、25歳ごろから病気やストレスによる過食が始まり、特に去年末からの体重の増え方は自己最速・最高記録を更新する勢いで、現在の体重は88キロである。

過食による肥満なので、どこからどうみても不健康である。
それを見て、周囲の人は「若いのにそんなに太って」「かわいかったのに」「まだ20代なのに」と非難してくるようになった。

しかし正直なところ、誉められていたときより気分が良い。自分の体が、自分のものになった気がする。痩せていたときは、わたしの体は「他人が見て楽しむもの」だったが、今はみんなわたしの肉から目を背ける。わたしの脂肪たちは、わたしがお金をかけて食べ物を大量に買い、毎日いっぱい食べることで付いた、「わたしの肉」である。「わたしの体」が、「若い女」のもの=「他人を喜ばせるもの」から、「わたしの体」になった気がして、気分が良いのである。

ただ、このお肉ちゃんたちは、健康面からみればよくないものなので、落とさなければならない。落とさないとなあ、と自分でもよく考えた上で決めたので、減量に励みたいと思うが、「わたしの体がわたしのものになった」気分が味わえたので、よかったと思うし、健康上許されるのであればもうちょっと太っていたい。


まあそんなことも考えつつ、話は戻るが、加齢を待てない人間は、不健康さなどでしか土俵を降りられないのだろうか?今の肥満ボディは、過食という自分を痛め付けて得られたものだが、自分に優しくしたままで、傷付かずに土俵から降りられないものだろうか。

本当に、わたしは今すぐに「若い女」から降りたい。舐められたくないし、謎の競走に強制参加させられて見せ物にされるのもごめんである。そして、自由になりたい。

この前、父から「くしゃみがおっさんくさい、鼻のかみかたも若い女の子としてあり得ない」というスーパー意味分からんアドバイスを頂いた。わたしは年中アレルギーで鼻水たらしているのだが、くしゃみはアレルゲンを外に出す役目を持つ大事な身体反応である。鼻をかむのは、鼻の中の嫌なドロドロ(アレルゲンによっては膿がたまることもある)を排出するための大事な行為である。それをうちのオッサンは、「若いんだからそういうのは止めとけ」とは、ハァ???としか言いようがない。生まれたてから死ぬ間際までくしゃみは出るし、それにちゃんと対応することが健康に繋がるのである。それを「若い女」だから止めろとは、いやはや、ハァ???である。しかし「ハァ???」という反応も、「若い女」としてふてぶてしいので止めろと言われたのでお手上げだ。


若い女」は生き物ではないのか?なんなんだ?自由に鼻をかめるようになるまで、40代の熟女になって「若い女」から降りられるようになるまで我慢しろなんて言われた日にゃバカらしくてやっていけない。


熟女、いいなあと思う。熟女、若い女も助けてくれるからありがたいと思う。でも本当に望んでいるのは、産まれたときから、わたしはわたしとして自由に生きていける世の中である。若いうちにも楽しいことは沢山ある。若いうちに楽しいことを自由にしたい。歳をとっても楽しいことを自由にしたい。ずっと自由が良い。


なので早く「若い女」から降りたいのだが、どうすればいいのか本当に分からない。若い女であるうちから「若い女」のレッテルを剥がし、土俵から降りる方法を知ってたら教えてください。

27歳無職、金髪になる

去年末に髪の毛を染めました。
ほんとは夏に髪の毛バッサリやったあとに染めようと思ってたけど、ズルズルと日は過ぎて、年越しを前に、伸びっぱなしだった髪を切る時に染めることにした。

去年末は、なんだかいろんな場面でヤケになっていた。暴飲暴食がやめられなくてすごく太ったし、肌も荒れた。お腹の調子もよくなかった。色んな人との約束をドタキャンして、好意を無下にしてしまうという、ある意味での自傷行為がやめられなかった。自分を大切にできてなかったんだと思う。

自分のことも大切にできてなかったのに、どんどん年末は迫り、わたしの大嫌いな「親戚の集まり」というイベントがやってこようとしていた。今年もわたしは、長男の第一子として、いとこの中の最年長として、女として、頑張らないといけないな、と心の壁の強化に励もうとしていた。でも、これは毎年のことなのに、今年はあんまり心を強く保つことに真剣になれなかった。ちゃんと準備しないと、わたしの心は脆いのですぐやられてしまう。保守的で、嫌味なおっさんに心を折られてしまう。わたしの得意技「おどける」というパフォーマンスも、自虐を含まざるを得ない場面があるから、自分で選択したキャラだとしても、同時に自分をケアしてあげられる状態を保っておかないと辛い。

とにかく、親戚の集まりでは優等生なり劣等生なり評価は分かれるとしても、「しおり自身は真面目にがんばってるから」と誰かにフォローしてもらえるようにしておかないと、大変困るのである。

分かっているのに、それが去年は出来なくて、それで一大決心をした。


今年は親戚の集まりに出ない。
旅に出ます、さようなら。


ということで、年末年始、同じように親戚づきあいがダルくて地元に帰ってこなかった友人の家に泊めてもらうことにした。

で。
泊まるにあたって、髪の毛ボサボサのままは格好悪いし、ドライヤーとかセットが楽になるように、美容院に行っておこうと思って、予約しよ〜としたときに、ふと、この年末年始に親戚の誰にも会わないなら、ハジケちゃっていいんじゃない??と思いついた。

わたしは今まで、髪の毛を派手な色に染めたことはない。バイト先の決まりで明るく出来なかったとか、お金がないからプリンにならないよう維持することができないとか、色々理由はあったけど、一番は、親戚にあーだこーだ言われるのがだるいからというのがあった。

大学に上がって、服装がフェミニンになったり、お化粧にはまったりして、普段はそういうのを楽しんでいたけど、親戚の集まりではとても無難で地味な格好や化粧をしていた。「色気付いた」とか言われるのが嫌だったし、チャラいとかって嫌味を言われるのも嫌だった。

でも、今年はそうやって言われる機会もないんじゃない?って思ったら、なんか自然に予約の段階でブリーチもお願いしますと言っていた。

それで、3時間と1万5千円くらいかけて、わたしはカーキベージュっぽい髪色になりました。光の具合で、緑にも見えるし、金髪にも見える、不思議な色。

最初は慣れなかったけど、いいですか、今からとても大切なことを言います。


めっちゃわたしに似合ってる。
かわいすぎ。


大事だからもう一回いいますけど、めっちゃわたしに似合ってて可愛いです。


え〜これなんで大学のときとかからやらなかったんだろう!今まで自分には暖色しか似合わないと思ってたけどかわいーじゃん!やばい!!むしろこの髪の毛の色で産まれてきてもよかったぐらい似合ってる!!かわい〜!!!


と思いながら、寒色ヘアーに似合う眉マスカラやチークやアイシャドウも揃えて、飾りピンも買って、サイコーにかわいいしおりちゃんになりました。イェイ。


親や弟、親戚(結局母方の親戚の家には顔を出した)、偶然会った父方のいとことかには驚かれた。ていうかいつもお願いしてる美容師さんにも驚かれた。今!?みたいな。

わたしも今!?と思ってるし、27歳無職がいきなり金髪にしたことに対する父方の保守的な叔父叔母の反応が怖くて怖くて県外に逃亡していたわけですが、鏡を見て、叔父と、このかわいさを天秤にかけたら、まあ当たり前のように自分のかわいさ>>>>>>>>>>>>叔父だよな……と思いました。


正月休み明けに病院に行って、先生に何か言われるかな……躁なの?とか……ってそちらの方もビクビクしてたけど、先生は全然気にしてないどころか、えーいいじゃん髪の毛くらい染めたら、年末年始友だちと遊ぶから気分が上がったんじゃない?あと街で遊んだんでしょ?みんな大体それくらいに染めてるんじゃないの?と言われて、その上似合ってるよ〜と褒めてもらったので、へへへ……(照)というかんじです。


染めてみて、周りの反応を大体見てみて、思ったけど、わたしは怖がらなくてもいいことをものすごく怖がっていたみたい。多分まだ意識できるレベルに上がってきてないだけで、勝手に自分を「オカタイ人間」にしてしまっている、そういう価値観を内面化してしまっていると思った。

髪の毛くらい染めたら良いじゃない。
太っててもいいじゃない。
髪色が変わっただけで扱いを変えてくるような人間は、こっちからお断りすればいい。

ていうかそもそも、誰もそれをしてはいけないなんて言ってなかったのに。
自分で勝手に先回りして、どうにかしてお小言やら出来損ない認定を回避しようとして、別に我慢しないでもいいところを我慢していたようです。


もったいないね!
わたしったらこんなにかわいいのに!!
無職だけど、無職だからといってかわいくあることを諦める必要はないし、小さく縮こまっていなければならない理由もない。


染めた後、みんなをびっくりさせまくったら、自分で黒染めして、就活でもするかな、と思っていたけど、美容師さんたちから、「一回色抜いたなら色落ちやリタッチの楽しみもあるからしばらく黒染めはやめといたら?」と言われたので、しばらくは金髪でいようと思う。どうせ就活と言ったってバイトくらいのことしか考えてなかったし。


次は軟骨にピアス開けたいな!


余談
この前エゴサしてたら、「ジェンダーを脱ぎ捨て、フェミニンを着よう」ってタイトルの、数年前の記事をツイートしてくれてる人がいて、それを見て、正月明けに、親戚は回避したけどこの先どうしよう、と怖がってたところに勇気が湧いたっていうか、髪の毛を染めるのはジェンダーと関係ないような気もするんだけど、なんていうか、周りが期待することだけをやって生きていくことや、自分のやりたいことよりも、他人の意見を重視してしまうこととか、昔に克服したはずでは?全然だめじゃん、と思って、ちょっと奮い立つといいますか、そんなような気持ちになりました。
「27歳で金髪」というタイトルは、「27歳にもなって金髪にした変なわたし」という意味ではなくて、「20歳超えたぐらいからこのブログやってて、見た目についても真剣に考えてきたのに、油断してたらまた囚われてたじゃん!27歳まで!!でも27歳で気づけたんだからまだまだ変われるよね!てことで金髪にしましたよろしく」という意味です。