読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

333

BL、生活、その他いろいろ

「レインボー」と「LGBT」が苦手だ

  わたしは「レインボー」が苦手です。また、「LGBT」という言葉も苦手で、どちらにも強烈な違和感や不信感を持っています、という話をしたいと思います。

 

それにあたって、ひとつわかってほしいのは、わたしは決してレインボーカラーやLGBTという言葉の歴史を否定しているわけではないということです。レインボーフラッグやLGBTという言葉を用いて、運動を行い、セクシャルマイノリティの権利を獲得しようとしてきた先人の方々のことを否定したいわけではないのです。わたしも、先人の方々が行ってきた運動の恩恵を受けています。ですから、否定したいわけでもないですし、蔑ろにしたいわけでもないのです。

 

 ここで話したいのは、「今までの活動を否定し、後退したいわけではなく、進みたいのだ」ということです(この言葉は、このテーマにてついて相談に乗ってもらった方がおっしゃったことです。とてもしっくりきたのでここでも書かせてもらいますね)。

 

 そのことを前提として、現状、「レインボー」や「LGBT」という言葉が用いられている活動に対して感じている違和感について話したいと思います。

 

 まず、違和感を持ったきっかけは、TRPの写真と、新聞社の記事を見たことです。今までも違和感はありましたが、写真をみて一気にその違和感が大きくなったのです。

 

 LGBTという言葉は、セクシュアリティの多様性を認め、表すものだと思っていました。しかし、現状、LGBTという言葉は、その表記のまま、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーだけのものになっているように感じました。「LGBT」という言葉が、性愛者に独占されているように思えたのです。TRPに参加したことはないので、偏見も含んでいるということも踏まえて言いたいのですが、「LGBT」という言葉は、四つのセクシュアリティを表すものだけになっており、また、「レインボー」という色は、その四つセクシュアリティの権利を表現するのもになってしまっているのではないか、というのが写真を見て感じた印象でした。

沢山の写真を見ました。しかしそこで映されていたのは、「レインボーフラッグ」を掲げ、「LGBT」の権利を主張する人々でした。同性婚の成立を望む人、好きな人に好きだと言いたい人、ゲイであることを誇りに思っている人....彼らは一様にして「レインボー」を掲げていました。そして、自分が性愛者であることを表し、性愛者の権利を求めていました。

 

 レインボーカラーは、多様性を表すもので、セクシャルマイノリティの団結に繋がるものだと思っていました。LGBTは、すべてのセクシャルマイノリティを表す言葉だと思っていました。しかし、団結していたのは「LGBT」の人達だけであり、「LGBT」として団結するために、「レインボー」が掲げられているように感じました。多様性などないのではないか。団結というものは排除と似ているけれども、それがセクシャルマイノリティの中でも起きてしまっているのではないか。そう感じたのです。

 

 その違和感を表してくれていたのが、まきむぅさん(牧村朝子さん)のツイートでした。

 そのとおりだと思いました。レインボーカラーは、「レインボーカラー」として多様性を失い、ただのアイコンになってしまったのだとおもったのです。そしてそのアイコンが発するメッセージは、「LGBT」の団結と、権利を主張するだけのものになったのだと感じました。

 

 わたしはアセクシャルです。色々な場面で、「LGBT」から排除されていると感じた経験はとても多いです。それは当事者以外の人達からの扱いであることが多いですが、当事者の間でも、排除が行われているということはショックでした。

 

 このことをブログに書くにあたって、とても悩みました。わたしはアセクシャルであり、「恋愛は必要ない」と主張することは、「愛は普遍的だ」として「LGBT」を異性愛者というマジョリティにメッセージを発する運動の足を引っ張ることになるのではないかと思ったからです。水をさすことになるのではないか、それから、レインボーカラーの持つ歴史を否定することになるのではないか。躊躇いました。しかし、わたしのなかの違和感は消えません。マイノリティの中のマジョリティである「LGBT」の人達が、「レインボーカラー」をもちいて、異性愛者というマジョリティに迎合していく。「LGBT」に包括されなかった、団結の輪から排除されたセクシュアリティの人達は、さらなるマイノリティとして取り残される。そういう未来を想像してしまいます。被害妄想かもしれません。でも不安は消せないのです。

 

 「レインボーカラー」を持つことは、「LGBT」の権利を支持することだ。「愛」というものを支持することだ。そういうコンセンサスが出来てしまっているように思います。でも、そうすると「LGBT」以外のセクシュアリティの存在が埋もれてしまう。「レインボー」の中ではそういった人々の存在はなかったことにされる。そうならないためには、個々のセクシュアリティのフラッグを掲げなければならない。「レインボーカラー」では、もはや多様性を表現することはできないのではないでしょうか。

 

 ビジネスの面から考えても、「LGBT」というものはLとG(とBとT)を消費者として取り込むためのキーワードになってしまっていると思っています。そして「LGBT」は、消費者になるために、ビジネス面でも「お客さん」として扱われるために、「LGBT」というワードを強調していってしまっている、マジョリティになることに腐心している(という言い方は嫌な感じで申し訳ないんですけど)のではないか。

 

 少し話は変わりますが、LGBT以外のセクシャルマイノリティに配慮した表現ができていますよね。LGBTQIA....とか、LGBTsとか、LGBT+とか。でも結局それって、LGBTという言葉を四つのセクシュアリティを表すものとすることになるだけで、多様性は感じられません。マイノリティの中のマジョリティである「LGBT」の隣に並ぶことが出来るのは誰だ競争みたいなものになっているのではないか。そしてその競争の基準を作るのは、マジョリティである「LGBT」なんじゃないかって考えたことがあって、とても嫌な感じでした。

 

 そんな訳で、わたしは、最近の「レインボー」と「LGBT」という言葉に多様性を感じることは出来ませんし、苦手です。アセクシャルとして「LGBT」から排除される側であるから余計にそう思うのかもしれません。

 

 こういうことを言うのは、本当はやめておこうと思っていました。それはさっきも言ったように、活動に水をさすことになるのではないかとか、そういう風に思っていたからです。とても悩みました。でも、その躊躇いを越えて、わたしは敢えてここで言いたいです。今の「レインボー」と「LGBT」には多様性がないと感じています。アセクシャルであるわたしは、マイノリティの中のマイノリティとして取り残されていると感じています。

わたしは声を上げます。わたしは今の「レインボー」と「LGBT」が嫌いです。タイトルには苦手って書きましたけど、本当は嫌いなんです。

 

 マイノリティが声を上げていく時、マイノリティの中のマイノリティが取り残されてしまうということは、セクシュアリティの分野だけではなく、フェミニズムや、各種権利の主張の際にしばしば起こることです。そのときは、マイノリティの中のマイノリティは声を上げることが必要だと思っています。他の分野においてい、わたしは、マイノリティのなかのマジョリティであることが多かったので、あまり違和感を感じずに運動に参加していました。しかし、セクシュアリティの分野でマイノリティのなかのマイノリティになった今、とても怖いです。みんな、こんな恐怖の中できちんと意見を発していたのだなと思うと、わたしもわたしの考えを表すことが必要なのではないかと思いました。なのでブログに書いています。書きながらも怖いなと思っています。

的はずれな意見かもしれません。偏見や先入観による被害妄想かもしれません。でもわたしは今怖いと感じています。違和感を持っています。

そのことは、声を上げなければ気付いてもらえないと思いました。

 

 冒頭にも書きましたが、わたしはLGBTの運動を否定したいわけではありません。セクシャルマイノリティの歴史と、そこで蓄積されたものを、否定したいわけでもありません。進みたいのです。進んでいきたい。

 

 わたしは今、具体的な運動をしているわけでもないですし、パレードに参加してプラカードを掲げることも出来ません。まだ怖いです。でも、アセクシャルのオフ会を開いたり、違和感を発していくこともひとつのアプローチではないか、と相談にのってもらった方に言っていただきました。嬉しかったです。

その嬉しさを糧に、ブログを書きました。誰かに理解してもらえるといいなと思って。また、わたしと同じ違和感を持つ人がいたら、その人にわたしもそうだよと伝えたくて。

 

 

 わたしは「レインボー」と「LGBT」というアイコン、言葉が嫌いです。

 

 

 

追記

また詳しく書きますが、この記事の中で、中島美嘉さんがおっしゃっている内容が、わたしの不安であり、恐れている未来のひとつです。

http://www.asahi.com/sp/and_M/articles/SDI2017050952061.html

→書きました  http://si0r1.hatenablog.com/entry/2017/05/14/011033

 

追記②

このブログを読んでくださった方の感想が、それだ!というものだったので引用させてもらいました。

 

 

 わたしもそうなんです。 性愛者の人達に囲まれているということが驚きというか、怖いというか、とにかく好きではないです。わたし、電車に乗っているときに、サラリーマンの人が結婚指輪してたり、カップルが話していたりするのを見ると、ああこの空間、この車両の中にいる人はほぼ性愛者なんだなと感じて、鳥肌が立つのです。性愛者が苦手というわけではありませんが、性愛者が自身を性愛者だと主張するなにかを身に着けていたりするのが苦手なのです。そんなわたしにとって、セクシャルマイノリティのイベントに行くことは結構苦痛でした。 

 パレードとかって、こういう性愛者もいるんだよ、ということを表明する場ですから、色んな人達が色んなセクシュアリティを持つことを表現していることは何らおかしなものではないというか、そういう自由が得られる場所ではあると思うのですが、非性愛者であるわたしにとっては、暴力的なまでの「愛」「性愛」で殴られたような気になるのです、というと大げさかもしれませんが。

しかし上記のように、「レインボー」と「LGBT」がLとGとBとTという性愛者(トランスの方の中には非性愛者の方もおられるかもしれませんが)を団結させようというものだと捉えた場合、「レインボー」や「LGBT」は非性愛者を排除するものになっていると考えてしまいます。圧倒的な性愛者の数に押され、肩身が狭い思いをしているというのが正直なところです。あと怖いですし、嫌な気持ちにもなります。恋愛賛美には賛同できないからです(この話もいつか書きます)。

 

そんな感じで、わたしがブログで書かなかったこと、表せなかったことをすっきりと文字にしてくださった方いたので、わー分かる!とおもって追記にしました。