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BL、生活、その他いろいろ

おかあさんの話 肯定と呪いの二面性

 回のエントリで、祖母と父からの呪いについて触れました。さっきのは、お前は不細工だ、頭も悪い性格も悪い出来も悪いなどの否定ばっかりで、どうみてもそれって呪い!呪われてる!!ってかんじだと思うんですけど、実は肯定の言葉にも呪われることはある、という話もしようと思います。これはおかあさんの話です。

 

 私はおかあさんがとても好きです。父が私を理不尽に叱ったり暴力を振るったりした時は止めてくれるし、慰めてくれる。父のお金と学びに対する否定をフォローしてくれて、塾に行くことも、習い事をすることも勧めてくれたし、応援してくれたし、レベルの高い志望校に行くのもいいねって言ってくれたし、本や服も買ってくれた。うつで学校に行けなかった時、支えてくれてつらかったらやめてもいいよ、って言ってくれた。祖母に不細工って言われた時は、いやいやかわいいよって言ってくれたし、祖母に褒めてもらえなかった絵や成績も褒めてくれた。祖母や父による否定の影響を和らげてくれたのは、おかあさんでした。

 

 一見いいように見えるんです。実際、励まされて嬉しかったし、今思い返してみても当時の私に必要な支えだったと思います。けど、この慰めは呪いの効果も持っていました。それに気づいたのはここ数年のことです。この呪いはすごく気づきにくかった。

 

 この呪いについてはあまりうまく説明できないです。さっき挙げた慰めの、呪いの面を紹介すると、例えば「うつでつらかったら学校辞めてもいいよ」の次に「やめて家事手伝いしながら習い事いってお見合いしたらいいよ」って続くこととか、祖母からの悪口を慰めて「気にしないでいいよ、あなたはえらいよ」って言ってくれた後に、「あの人はああいう人だから、あなたああいう人間になったらダメだよ」って続くこととか、父を叱った後、私に「お父さんも悪かったけど、一家の大黒柱だから尊敬してないとね」って言うとか、なんかそういう感じの呪いなんです。私を慰める肯定の言葉だけど、結局私の行動を縛る呪いなのです。

 しかも結局、私はそういう慰めを聞いて、「学校にいくか、やめて結婚するかの二択しかないのか→結婚は嫌だから何が何でも高校に行って大学に行かなきゃ」「祖母の性格は悪いんだ→そんな人に悪口言われる私はなんて駄目なんだろう、至らないんだろう」「そもそも父親には逆らってはいけないんだ→やっぱり女でいることは理不尽さしかないんだ」っていう、祖母や父からの呪いと同じ所に着地しちゃったんです。(私の被害妄想じゃない?って思ったこともあったんですけど、やっぱりそうではない、なにかの力が働いてると思っています。そこが上手く説明できないんですけど。)

 

 自分を悪く言ってくる人たちの言葉を否定するのは簡単です。あいつは敵だ、嫌いなやつだと思ってる人の言葉は信じない、というのは当たり前なので(敵だと認識するまでが難しいですけど)。だけど、肯定されて、慰めてくれる味方の言葉を否定するのってものすごく難しいんです。私のために言ってくれているって思いながら聞く言葉を、呪いだと思うことは難しい。慰めが呪いだと思うことも難しい。味方を否定したら、私には誰が残るんだろう、というのは恐怖です。

 

 けれども、おかあさんの言っていた慰め(のあとに続く言葉)というのは、根本は父や祖母と同じ価値観なんですよね。祖母・父と母は育った環境が違うから、習い事や学びに対する評価も違うし、表現の仕方やアプローチも違うけど、根本にある価値観は一緒なのです。二人とも、アプローチは違うけど、おそらく望むものは同じなのです。母の慰めは、祖母や父とは反対のもののように見えるけれど、実際はむしろ父達の価値観を補強するような働きさえ持っているように思いました。父たちの価値観と母の価値観の二択なんだとおもっていたけど、それも勘違いで、結局大きく見れば一択だったように思います。

 

 この、根本にあるもの、というのは男尊女卑、良妻賢母、女は愛嬌男は度胸という考え方です。女は女らしく、男性よりいろんなことで劣っているから努力して(でも男性よりすごくなってはいけない)、家にいて、男性を立てるという考え方。母の呪いは単なる言葉だけのものじゃなくて、この呪いに(無意識に、当然のように)かかっている母の姿を見ることで、呪いを呪いだと思わせなくする、というものだったのではないかと思います。

母は生い立ちから現在まで、典型的な「女」でした(ほんとにフェミニズムの教科書とかに典型例として載れるくらいすごい)。母のかかっていた呪いを否定することは、母自身まで否定することになるんじゃないかって罪悪感を感じるくらい、その呪いは母にとっては自然なのです。

 

 世の中にはいろんな価値観がある、というのは成長するについて多かれ少なかれわかっていくことだと思いますが、家庭内の価値観ってなかなか多様性を感じられないんですよね。世界は広がっていっても、家庭の中は狭いまま。

私は昔から絶対結婚しない!したとしても働き続けて私が家族を養う!って思ってたんですけど、それは結婚=うちみたいな家庭を持つことになる、養われる=おかあさんみたいに父の機嫌を最優先する人間になる、という価値観しかなかったからなんですよね。いくらテレビでいろんな家族を描いていたって、友達の家庭が円満だって、私の中でそれらは全然しっくりこなかったんです。うちって嫌なこともあるし喧嘩も多いし円満じゃないけど、おかあさんは苦労しつつもそれを肯定して愛して、普通に生きてるしなあ、みたいな。そういうのに気づいた時、これ呪われてるのでは、って思ったのです。この呪いは、否定じゃなく、肯定から生まれるものなんだなと。

 

 大きくなってネットを見たり、今まで育ってきた地域を出たりして、色んな人の話を聞いたりするようになったとき、あれっうちって祖母と父親だけじゃなくて全体的に変なの?ということに気づきました。でも、おかあさんのことは好きだったから、疑えなかった。家の中を平和にしてくれてるのはお母さんだったし、母以外の家族からの問題のほうがあからさまだったので、母からの呪いに気づくことが出来たのはものすごく遅かったです。祖母や父からの呪いに気づいて、そこから脱出した後、あれっまだなんか残ってるぞ苦しいぞ、という気がしたので色々自分の中を探ってみたら母がいた、という感じ。

 

 なんでここまで気づかなかったんだろう、と思いますが、一つの呪いと、それに相反する内容の呪いがあったら、否定する方の呪いの表面的な言葉の強さに、肯定する方の呪いが隠れてしまうというのがあるのかなと考えています。呪いに対するものは解放だ、慰めだ、と普通は思うので、否定が目立つ呪いと相反するものはなんとなく慰めなのだと勘違いして受け入れてしまう。大きくなって色んな人と話して、世の中には否定/肯定、賛成/反対などの二択には当てはまらない価値観がある、+側が必ずしも正義ではない、と知ったことも、私の気づきのきっかけになったと思います。

 

 

 

 私は今もおかあさんが好きです。毎日いろんなことを話すし、たまに一緒にご飯食べに行くし、この前猫カフェにも一緒に行ってとても楽しかったです。おかあさんに褒められたり慰められたり、肯定されるのも嬉しくて安心するのは変わりありません。たまに、あっこれはお母さんの「あの」価値観だ、と身構えることもありますが、「これは呪いになる可能性がある」と今は知っているので、無防備なまま受け入れたりもせず、特に私に影響はないです。上手に距離が取れるようになって、「親子間のいうことを聞かせるための一方的な話し方」をやめてもらえる歳になったので、同じ家の中にいても呪いに支配されることも減ったし、いいかんじです。

ちなみに父とはこれが上手く出来ないのでやっぱり不仲です。

 

 

追記

母も呪いにかけられていた、と書きましたが、父も呪われていると思います。祖母からの呪いです。父はその呪いを、私や弟にもかけました(なので私は、私もまた誰かに呪いをかけ、連鎖をうむかもしれないことに怯えています)。父は、自分の呪いを否定されることを、自分自身を否定されることだと強く思っています。私達が、自分にかけられた呪いを否定することも、多分よく思っていません。私達にかけられた呪いは、父がかけられた呪いと同じだからです。父とは未だ不仲だと言いましたが、父が呪われたままで、のろいについての会話がままならない状態であるかぎり、普段の会話も生活を同じくすることも難しいし、和解はないと思います。