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BL、生活、その他いろいろ

罪悪感の解体  

ジェンダー ファッション

 2つのエントリの補足みたいなエントリになります。あのエントリには「○○は悪いことではない」っていう部分が共通しているんですが、なんでそこにこだわるのか、という話です。

 

 自分の属性について、罪悪感を感じたり、劣等感を感じたりしてしまっていると、理不尽なことを受け入れてしまったり、物事を考えるとき・感じるときに変なバイアスがかかってしまうことがあるなあ、と最近思うようになりました。私が○○なのが悪いんだから、これは嫌なことだと思うけど黙っていないと、とか、私が○○だからこういう風に見えるのかもしれない、その見方はダメなものかもしれない、とか。そうやって思うことで、自分で自分の自由な選択や思考を阻害して、縛り付けてしまってるなあ、と。

 

 なんでそんなことになるか考えてみたんですけど、自分、ではなく○○っていう集団が主語に来てしまっていたり、自分対集団、という関係で見てしまったり、ひとまずなんかの集団を想定して、自分がその集団に属していること、相手がその集団に属していることに重きを置きすぎてしまっているからかなあと思いました。

 

 腐女子、セクマイ、女性、なんでもいいですけど、そういう言葉で表される人たちを、一つのものとして扱うのはいかがなものか、というのはずっと思っていました。だって、同じ属性を持ってる集団だとしても、その中にはひとくくりに出来ないほど色んな人達がいますよね。善良な人もいればウエーって人もいるし、好きなものも嫌いなものも、生活の仕方も考え方も将来の展望も違う。ある集団に属する人達全てに共通する性質ってほとんどないはずだし、共通して負うべき「罪」とか、「劣った部分」とかいうものもないはず。ついでに共通の敵もいないはず......なんですけど、あたかもその属性全体で負うべき「罪」があるかのように扱われたり、その属性を持つ人も(自分が追う必要なんて全くない)罪を意識した言動をとっちゃったり、敵がいる(もしくは敵視されている)と思っちゃったり。

 

 前回のファッションの話に絡めて例を挙げると、私は女でいたくない、男に比べて弱くて馬鹿で、恋愛対象として消費されるような存在でいたくない、といういう劣等感があったので、それを克服するために色々努力していたし、フェミニズムというものが、従来の女性的なものを嫌っていると思っていたので、女性から解放されたいフェミニストとして、女性的なものを身に付けることに罪悪感を感じていました。

 劣等感と罪悪感に悩んでいた時期、私は私がありのままでいることに自信が持てなくて、誰かに対して変に卑屈になったり攻撃的になったり、消極的になったりしていました。何かを考えるときも、自分が悪いから、自分は間違ってるから、という思いが先に来てしまうから、見えるものが見えなかったり、できることができなくなかったり、していいことをしてはいけないと思ってしまったり。自分が自分として生きる上で、誰か他の人達と関係を結ぶ上で、変な歪みみたいなものを抱えてしまっていたのではないかと今では思っています。

 

 

 「女」「男」「フェミニスト」「フェミニン」とかいうものに、一つの性格・枠を与えて、わざわざ自分からその性格や枠にはまりにいってるのでは?一口に「女」って言っても、色んな人がいるんだから、自分も多様な「女」のひとりとして自由に好きにやったらいいんじゃない?と思った時、なんか視界が開けた気がしました。

 女、男、フェミニスト、フェミニン、といったものを、単一の性格・特徴を持った人・ものの集まりとして扱うのではなくて、性格も生活も考え方もバラバラな個人の集まりだと考えてみる。そして、そして自分もそのいろんな人達の中で独立して存在する人間だと考えてみると、私に課せられる「こうあるべき姿」「してはならない姿」っていうのもないし、別に私が私として感じるべき劣等感も、罪悪感も存在しないじゃん、と思ったのです。勝手に貼った・貼られたレッテルに左右されて、縛られてたんでない?

 

 何かついて考える時、問題はその集団が持っていると仮定された「性質」や、その性質に付された「罪」「劣等感」みたいなぼんやりしたものではなく、具体的な個人の言動だと思うのです。集団に注目し過ぎると、個人が見えなくなってしまう。本当は「個人対個人」「個人対集団」の問題が、「集団対集団」の問題になってしまったり、自分自身の言動そのものや、自分に対する相手の言動そのものについて考えることが難しくなってしまったり、ということが起きる。(もちろん、社会構造を考える上で、集団について考えるのは必要だと思いますが、今回は横に置いておきます。)

 

 私が感じている罪悪感はどこから来ているのか。○○という集団が悪いものなのか、自分が○○だから悪いのか、自分自身の考え方が悪いのか、言動が悪いのか。誰に対して抱いているのか。もしかしたら無意識のうちに誰かから押し付けられた罪悪感かもしれない。そういうのを考えないまま私が悪いんだ、と諦めて適当に選んじゃうのって、自分にも、罪悪感を抱く相手にも、なんか誠実じゃない気がするんですよね。

集団から抜けだしたその上で、自分自身の言動はどうだったか、自分自身は悪いことをしていたのか、相手はなんなのか、どうなのか、を考えることが、大事なんだと思います。誰かに対して、自分に対して、誠実な答えをだすために。選択するために。

 

 罪悪感は、きちんと分析して、解体する。そして、もしそれが根拠もない、必要もないものだったらポイっと捨ててしまえばいいよって思うんです。

 

 属性じゃなくて、自分自身を見ること、相手を見ること。属性で自分自身や相手を括ってしまわないこと。その人の持つ属性は、その人を構成する大切な要素ではあるけれど、あくまで要素の一つであって、その人全体を表すものではないし。逆に、ある属性を持った人は集団を構成するメンバーのうちの一人であって、その集団を代表するものではない。

 そんで、ちょっと話はずれますけど、もし何か問題が起きてしまった時も、集団じゃなくて、その人を見て、判断して、そうして他人と関係を結んでいくことで解決したい。関係を結ぶ、というのは、仲良くなるって意味じゃなくて、同じ場所で暮らしていく、必要であれば個人対個人で対話する、という意味で。そうやって自分の自由にできる場所を主張していくのがいいのかなあと思うんです。

 

  罪悪感や劣等感のフィルターを通した選択はもうしたくないし、フィルター越しに選ばれるのもごめんです。そういうフィルターを押し付けてくる人たちもいやだ。自分のために、自由に選択するために、そういうものは解体してポイってしてしまいたいんですよね。

 

あともう一つ、

フェミニストたちがなぜ・なにに怒っているのかを理解するためには「《わたし》の身体は、誰のものなのか?」という問いからはじめるのが適切です。《わたし》の身体は、男女を問わず、その人個人のものに間違いありません(中略)しかしながら、女性の場合、その原則が破られ、その破られた状態が平常化していることがある。それこそ、フェミニストたちの抗議の源泉なのです

「フェミ」とは女が男を怒る思想ではないですよ - messy|メッシー

に、なるほどーって思って、いまとてもすっきりしてます。