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BL、生活、その他いろいろ

恋愛ってなんだ

 恋愛ってなんだ?という話をしたいと思います。二段階の構成になります。

 

まずは、わたしは「人類生まれたときはみんなアロマンティックアセクシャル説」という説を勝手に持っています。

これはどういうことかというと、人は生まれたときは、誰か恋をするとか、誰かに性的な欲求を持つということはなくて、成長過程で「恋愛はするものだ」という「当たり前」を習得していくのではないか、ということです。つまり、恋愛というものは教育であり、文化であるということを主張します。

成長過程でその文化に触れ、それを内面化していくことで、アロマンティックアセクシャルからロマンティックなんちゃらセクシャルになっていくのではないか。

では、そのような中でアロマンティックアセクシャルとして生きる人たちはどういうものかというと、成長過程で文化に触れなかった・触れる機会が少なかった、もしくは合わなかった、一度はロマンティックなんちゃらセクシャルになったけれども、それが合わなかった人たちのことではないかと考えています。

この考えの根底にあるのは、恋愛は「文化」であるということです。

 

この「文化」は時代によって変わっていきます。現在であれば、男女のカップルが主流で、最近やっとLGBTという人達が出てきたかなくらいのかんじ。

それで、人を好きになる(これも曖昧な感情だと思いますが)→告白なり何なりしてカップルになる→キスなどをする→セックスをする→なんなら結婚する、それは一対一の関係で行われるものである、みたいなことを異性間で行うのが現在の「文化」であるのではないか。世の中には色んなカップルの形がありますが、それは一つの「文化」の解釈が違うだけで、みんな根底に持っているものはおなじなんじゃないかな。また二個目の話でもしますけど。

 

 

二つ目の話は、「恋愛」というのは「パッケージ化」されたものではないかということです。

こちらは概念の話ではなくて、実際の行動における話です。上記のように、恋愛というものは、「人を好きになる→付き合う→キスやセックスをする(→結婚する)」という一連の行動がパッケージ化されてしまっているのではないか、ということです。そしてそのパッケージには一冊の説明書というか指南書というか、絵本がついていて、そこには「はじまりはじまり、あるところに一対の男女がいました。その二人は恋に落ち、付き合うことになり、セックスをし、『ハッピーエンド』になりました」みたいなことが書いてあるのです。そのパッケージと指南書を読んだ人は、パッケージの中の要素をいかに上手く使って「ハッピーエンド」にたどり着くかに腐心しているのではないか。

ここで、一連の「恋愛」行動を枠組みとかいう言葉ではなくて、「パッケージ」とよんでいるのは、この「パッケージ」は誰かに作られたものであり、その誰かの利益になるような商品になっていると考えているからです。もはや恋愛は商品であり、利益を上げるための手段と化している。「パッケージ」を作るのは社会であったり、企業であったり、個人であったり、様々だとおもいますが、とにかく「利益」のあがる仕組みになているのではないか、と疑っています。「ハッピーエンド」を達成しなさい、それが幸せだから、というアピールによって、利益を得ている人達がいる。

「恋をした」と言うときの「恋」は自分で考えたものなんでしょうか。「パッケージ」とその指南書での「恋愛」とは。「ハッピーエンド」はこういうものだと書かれているものをなぞっているだけでは?みたいな疑いを持っているのです。陰謀論みたいになってきてますけど。

各人の恋愛の仕方の違いは文化の解釈違いによる、と先程書きましたが、これはパッケージの方でもいえることで、なんか同人誌みたいな。絶対的な「原作」(指南書)があって、それをどう解釈してどういう物語にしていくかというのは各人によって違う。ただ忘れてはいけないのは「原作がある」ということ。

この「原作」を、絶対的なもので自然発生的、不変的・普遍的だと信用して生きる人を恋愛至上主義だと考えています。

 

 

この2つの話をまとめると、人はみなアセクシャルとして生まれるけれども、世の中の「恋愛パッケージ」という文化に触れることによって学習し、ロマンティックなんちゃらセクシャルになっていくのではないか、ということになります。

ジェンダーの話で、女らしさ男らしさは学んで内面化していくものだみたいな話がありますけど、恋愛に関してもそうなのではないかと思います。

 

恋愛は「文化」だ。ファッションみたいな感じ?

二年くらい前からこういう恋愛観流行らせていこうって誰かが決めてそう。

 

 

ところで、この話の最後に言っておかなければならないことがあるのですが、この考えが出てきたのはわたしがアセクシャルだからだ、ということです。アセクシャルであるからこそ、人間みんな生まれたときはアセクシャルという考えが出てきたんだと思いますから、そのあたりのバイアスがかかった話であるということは自覚していますし、伝えておくべきだと思いました。

 

結局「恋愛」そのものがいったいどういうものなのかという解決には至りませんでしたが、今のところ「恋愛」というものの構造、パッケージについてはこのように思っています。

わたしはアセクシャルなので、「人を好きになる」という気持ち自体がよく分かってないので、余計に難しい話だと感じてしまっているんだろうなと思います。

それは性愛者の人にとってもそうだとおもいますけどね。「恋愛」ってなんだろうって改めて考えるととても難しい話だと思います。

 

 

書き忘れたこととかある気がするので、また追記にしますが、今日はこんな感じで終わりにしたいと思います。

もしよければ、この記事を読んでくださった方の恋愛観をお聞きしたいと思います。お気軽にコメントを残して頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。

 

わたし的最強BL攻めランキング

いろんなところでちょいちょい言ってることなんですが、わたしの考えた最強攻めランキングの発表をしたいと思います。

まず10位から。

10位 同級生
ベーシックですね。学生ものではよくあります。幼なじみを当て馬にして受けをかっさらう同級生。ありがちですね。学校生活で共に過ごす時間が長いため、受けのちょっとした悩みや危機にさっと対応できるという利点もあります。10位です。

9位幼なじみ
当て馬にされることの多い幼なじみ。しかし、同級生よりも昔から濃い付き合いがあり、なんだかんだ同級生より優位です。年上のお兄ちゃんが幼なじみの場合の強さは同級生に勝ると思われますので、9位。

8位元ヤンの先輩
受けになにかあったときの強さがはんぱない元ヤンの先輩。普段は優しいけど、なんか謎の人脈があったり、やたら喧嘩が強かったり、周りから尊敬されてるとともに若干敬遠されてるけど、実は優しいという元ヤンの先輩。ギャップがいいですね。それからやっぱり、喧嘩が強いところが10位、9位をおさえての8位となる理由です。

7位御曹司
ここからグレードアップします。
金の力は強いですからね。御曹司、強いですよ。教養があったり、周りから尊敬されていたり、学園ものだったら王様とか王子様扱いされてるかもしれないですね。あとやっぱり金の力。それからなぜか喧嘩もできることが多い御曹司。なんでもできるんでしょうね。人脈も金も教養もある御曹司。なかなかの逸材ですので7位です。

6位社長(組長)
御曹司の上位版みたいなものですかね。言っても御曹司はまだ養われていたり、親の七光り的な部分もありますが、社長となると独立していますから、その点御曹司より大人な感じがしますね。あとやっぱりこの人も金持ってますからね。金の力と権力で受けのことさらったり強引に迫ったりするストーリーもまま見受けますね。
それから、大人数を統治するという点で同じかなと思って組長も同じくくりにしてしまったのですが、性質は全く違います。まずアウトローアウトローなので大抵のことはやってしまえます。アウトローなので。拐ったり強引に迫ったりは当たり前、借金のカタに買ったり監禁したりもするかもしれませんね。なんせアウトローなんで。社長とはまた違った性質の権力を持った組長。
金と権力と強引さを許される部分があるため、6位です。

5位石油王
ベタですよね!アラブもの!受けのこと拐いまくりですよ。拐ってなんぼ。金もあります。いいですね。強いです。もうアラブものに関しては語らずともみなさん分かっていただけると思うので省略させていただきますが、強いですね。国際的な権力も持ってますしね。5位です。

4位王族
ここからまたグレードアップします。王族。好き勝手できますねえ。お金も持っています(税金ですけど)。ちょっと昔の時代設定や異世界ものであれば、剣を使える王子が出てきたりして、いいですね。強いです。あと権力ばりばり持ってますからね。一国を支配するくらいですから。異世界トリップであれば受けを保護することの多い王族、また、下働きに恋をしてしまう王族、結構身分差ものが多いですが、そんなこと気にしないのが王族です。愛ですね、その強さにより4位です。

3位天使・悪魔
さて、もうここからは人外なんで、なんでもありです。お察しください。
まず空が飛べますね。特殊能力も持っていることでしょう。天界、もしくは魔界からふらっとやってきて受けに恋をし、人外の特権を使って受けの部屋に侵入するとか、拐うとか、もうなんでもできちゃいます。人外なんでね。権力とか金とかそんな次元の話では最早ないです。人間ごときでは敵いません。そんなわけで3位です。

2位魔王
魔王。強い!

1位神
神なんで、もう1位にせざるを得ませんでした。なにが起きても、「神なんで」の一言で済ませられますから。なんで受けの危機を察することができたの?「神だから」なんで受けのこと助けられたの?「神だから」なんでそんなになんでもできるの?「神だから」ってなかんじでもうなんでもありですし、神に勝てる存在がいるのかどうか。魔王とのバトルがありそうですが、まあ神が勝つでしょうね、神なんで。
神といえども、全知全能の神もいれば、八百万の神もいますから、十人十色、様々な特性を持っていることでしょう。しかしどれにしろ神なんで、強いですね。ということで文句は受け付けません、1位です。


ということで、わたし的最強BL攻めランキングでした。こんな攻めもいるよ!というご意見があればまた教えて下さい。
わたしの好みは幼なじみですね。幼なじみのお兄ちゃんが好きです。

ということで!

もうアセクシャルって説明したくない

アセクシャルって説明したくなくなりました。なんで一方的に説明を求められるんだろう。「アセクシャルってなに?」「恋愛感情がないってどんなかんじ?」

じゃあ、そう質問するあなたも同じ事をわたしに教えて下さい。「あなたのセクシュアリティってなに?」「恋愛するってどんなかんじ?」

答えられますか?質問攻めにあって、ときには否定されながら、それでもわたしにメリットのないかもしれない応答をするコストを考えたことありますか。

正直、メリット、ほぼないんですよ。何回も何回も同じ事を繰り返し説明すること。とっても面倒、理解されない。説明を求めておきながら理解されるかどうかわからない。セクシュアリティっていうプライベートなところ、セクシャルな面を開示しなければならないこと。苦痛です。もういやだ。

アセクシャルかもって思ってる人が、他の人の話を聞いてみたいって思ってることは知っているし、わたしもそういう時期がありました。自分のことが分からなくて、不安で、自分はおかしいんじゃないか、人と違うんじゃないか、苦しんだときもあります。そういう人たちに、同じような人はいるんだと伝えていくことは大切だし、アセクシャルを自認したわたしの責任?でもあると思います。だけど、正直もういやなんです。

他人にセクシャルな話を求められること。話すことを強要される場。もういやです。

しゃべりますよ、必要に応じて。それは先程も言いましたが、自認した身としての責任というか、やっていく方がいいことだとおもうからです。頭ではわかっています。でも、見知らぬ他人に、セクシャルな部分を一方的に、どんな反応をされるかわからないのに、素直に開示することは怖いんですよ。すなわちジャッジされる身になるってことなんです。それに、みんな色々あるのに、わたしの経験が基準になってしまうかもしれないです。怖い。あとその違いを説明するのも面倒くさい。違って当たり前って前提くらい共有しておいてほしい。

認知度が低いから、説明してくれるよね?じゃないと分かんないし。そんな態度でプライベートの開示を求められる。失礼だと思う。創造力が足りないと思う。

アセクシャルってなに?

調べろよ。
アセクシャルだけじゃなく、他のことについたって、ある程度の基礎知識くらい自分で調べて整理してから聞いてよ。全部、聞こうとしないで。わたしの経験まで聞き出そうとしないで。プライベートなところに踏み込んでこないで。

最近ちょいちょいカミングアウトしますけど、そのときの説明も簡素にしています。「恋愛感情がなく、性的欲求が他人に向かないこと」。おしまい。

わたしの経験に興味を持ってくださった方が、話を聞きたいって言ってくださるのは嬉しいんですよ。だから過去わたしのセクシュアリティについて書いた記事が沢山あります。実はエゴサめっちゃしてるんですけど、誰かの助けになっていることもあるもあるみたいで嬉しいです。


でも、現実世界で、対価(というた生々しい感じがしますが)もなしに、一方的に説明しなきゃならない現状には疲れました。わたしが説明したいときに説明する。それはおっけー。でも、興味本意で質問攻めにあうのはもう勘弁。

もうなにもしゃべりたくないです。相手の好奇心を満たすためにアセクシャルであるわけじゃない。そこのところ分かってるの?


わたしはアセクシャルです。その通りです。その自認に至るまで色々ありました。本当に色々ありました。その色々を、開示することでなにかのお手伝いになれることも知っています。嬉しいことです。だからといって誰にも彼にもわたしのプライベートなところを開示する必要ない。そんなことを求められてもわたしは応えたくない。アセクシャルはわたしのアイデンティティの一部ですが、そこだけを抜き出して話すのは難しいです。そのことにも気付いてほしい。もうやめたい。


今は正直そう思います。
わたしに開示を求めてくる人たちへ、わたしはあなたたちの興味関心を満たすための存在じゃないです。飽き飽きしました。プライベートに踏み込んでいることに気づいて。


わたしはもうアセクシャルであることを説明したくないです。

誰だって可愛い服を着ていい

先日。「ブスは可愛い服を着てはいけないと思っていた」と言われました。

「しおりさんのことを見て、ブスでも好きな服を着てもいいんだってことがわかりました」みたいなことを言われまして、その偏見の解消のきっかけになったのはいいんですけど、まあ無礼ですよね。

それはさておき、「ブス」だろうがなんだろうが好きな服を着ればいいと思います。というのがわたしの主張です。

 

人間、大抵の場合トップスとボトムと靴を身につけて出歩いていると思います。そしてこれは、大多数の人に共通することですよね(全裸で出歩いている人はそうそう見かけません)。

みんな、服を着てるんです、それは共通している。その中で、他人の着ているトップスやボトムの形が自分や周りと違うことに注目することに何か意味がありますか?みんな同じように服を着ている、それだけでよくないですか?その共通点を越えて、人が自分と同じではない服を着ていることにやたらと執着して、バカにしたり「ブスだから」とか言うのは、そちらこそばかみたいだと思います。

 

ブスだって服を着ます。その服の形がどんなものであるか、そのことに何か問題があるんでしょうか。あっさりした服を着る。デコラティブな服を着る。どちらにしろトップスを着てボトムを着て靴を身に付けていることに違いはありません。「形が」違うということに、文句を言うのは、馬鹿みたいじゃないですか?みんな服を着ているだけです。その服がどんな形をしているか、選ぶのは人それぞれです。ブスだってどんな服を着るか選択肢はあります。

その選択肢を否定して、「ブス」という外見のジャッジに終始することの無意味さ。馬鹿らしさを感じます。

 

 

「ブス」だって可愛い服を着てもいいです。服を着るというだけの話です。その服がどのような形をしていたって誰にも文句を言われる謂れはありません。文句を言ってくる相手も服を着ています。相手だって自分で選んだ服を着ているのです。そのことと、「ブス」が服を選ぶことに何の違いがあるというのでしょうか。

 

体や顔の作りによって着られる服を制限されることは馬鹿げていると思います。服を着ることに、制限はいりません。他人からの介入も必要ありませんし、ジャッジも気にすることではありません。服を着るのです。わたしたちは服を着ています。服を着ているだけです。そこでどんな形のものを選択をしたかは好きにしたらいいことです。

 

 

服を着る。そのときに、どんな服を着たいか。そのことは自分の好みに合わせていけばいいと思います。「ブス」だのなんだの言われる世の中ですが、服を着ることに誰が文句を付けられるというのでしょうか。地味な格好をすればいい?裸でいればいい?服を着るという前提に立てば、その服を選ぶことも当たり前のことです。

 

選んでいいのです。もしかわいい服を着たいと思う人がいたら、誰だって可愛い服を着ることが出来ます。

「ブス」だから、なんて気にすることはありません。「ブス」だとジャッジされる謂れもありません。

 

わたしは「ブス」でもかわいい服を着ます。というかそもそもわたしを「ブス」と呼ぶ人間を軽蔑します(そこにわたしの体や顔が整っているかどうかは関係ありません)。誰に何を言われたって、着ます。傷付くこともありますけど。服の形を選ぶというだけのことでそうやって傷付くようなことになるのも理不尽だと思いますが。



とにかく好きな服を着てください。「ブス」だろうがなんだろうが構いません。誰がどんな服を着てても問題にすらなりません。そう思います。

今日はわたしの誕生日

25歳になりました。
四半世紀も、ちゃんと生きてこられたことにびっくりしつつ、悲しくもあります。

昔、10代前半に想像していた25歳のわたしとは、全くちがう人生を歩むことになっています。ストレートで進学して、勉強して、それなりにいい大学を出て就職して、独立して、結婚も見据えていかなきゃならない、大人な自分。そうやって思っていた自分が今、うつになって高校ギリギリ卒業、勉強も出来なかったから浪人一年、大学に通えなくて留年二年。治ると思っていた病気は一生ものだった。

そんなことは考えたこともなかったあの頃が、羨ましいです。25歳になったわたしですが、未だにあの頃考えていた自分のあり方コンプレックスから抜け出せずにいます。四半世紀も生きてきたのにね。無駄な時間ばかりだったとは言えませんが、素直に25間がんばったね!とか、25歳おめでとう!とかいう気持ちにはなれません。


四半世紀。5の2乗です。20歳の区切りから5年。悔いの残る5年間でした。


なーんてぐすぐず言ってたって仕方ないので、今日からも、出来る範囲内でもりもり楽しいことしていきたいです。


10代後半から20歳前半まで。病気が苦しくて、それからセクシュアリティのこととかについても悩んで、友達も出来ず、勉強もできず、楽しいことが一つもありませんでした。
だけど、去年、今年は、積極的に人と会うようにしているし、自分の好きなことや楽しいことを、躊躇いなくやっていけるようになってきたので、次の節目である30歳までには、ああ30年経ったけど、なかなかいいかんじだったなと言えるようになりたいところです。


ていうか25年間も生きてきたことに、わたしは本当に驚いています。苦しくて死にたいと思っていたときも長かったけど、それを越えて、生きてるってすごくない?って思うんです。

話は変わるのですが、今月、高校の同級生が自殺で亡くなられたと聞きました。そこまで仲良しというわけでもなかったのですが、とてもいい子で、好感を持っていた子でした。その子が自殺。全然連絡を取っていなかったから、どういう経緯でそうなったのかはわたしには分かりません。でも、おなじ年の子が、亡くなったということは、非常にショッキングなことでした。

生きるって大変です。
まず、そこを蔑ろにせずに、生きていくことが大切なんだと思いましたし、25年の間で知り合った人たちが今も元気でいてくれるであろうことが、すごく奇跡的というか、ありがたいことなんだなと思いました。
人間いつ死ぬか分からないけど、死ぬまでは生きようと思います。


死にたかった時期もあった、だけど死ななかったわたし。25年間、頑張れたこともあるんじゃないかなと思えるようになっています。

亡くなった子のことは本当にショックでした。それを聞いて、生きることは人に希望を与えるというか、うまく言えませんが、わたしが生きていることで、わたしもハッピーだし、周りの人もハッピーになるなら、生きてもいいかなと思います。

自死という選択肢は、まだあります。それが悪いことだとは思いません。だけど、できるならその手段を使わずに、生きていけたらいいなと思った年でした。