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BL、生活、その他いろいろ

続・アセクシャルであることに原因はあるのか問題(仮)

 アセクシャルってGoogleで検索すると、予測変換で「アセクシャル 診断」というワードがでてきます。この前、ふとしたきっかけでそのワードを見つけたので、調べてみたんですが、検索結果が結構、わたし的にむかつくかんじだったので、記事にします!よ!!

 結構むかつく文章を引用するので、いらいらしてる時とか悲しい時とかには読まないほうがいいです。

 

 

 で、上記のワードで検索すると、結構「脳」とか「性格」とかいう結果が出てきて、それもそれでうえーって感じなんですけど、その中で特に、これは酷い、という記事があったんです。URLとかは載せませんが、さっきのキーワードで調べたら、検索結果のかなり上位に出てきます。一部引用すると、こんな感じ(URLなしで引用するはどうかと思うのですが、それでも貼りたくないくらい、個人的にはいやな記事なので、このブログで直接出典を明記するのはやめます。すみません。多分上記のキーワードで検索すればすぐわかるので、見たい人は探してみてください)。

 

 

以前から恋愛に消極的な男性を「草食系男子」という言葉で表現したり、TVでもそういう人達がいることは取り上げられてきていましたが、最近は「アセクシャル」(エース、Aセクシャル)という単語で紹介されることもあるようです。

そのような影響を受けてか、最近、自分はアセクシャルかもしれない・・・と悩む若者が以前にも増している気がします。

しかし、自己診断で「自分はアセクシャルだ」と決め付けるのは大変危険です。

ホルモン異常や精神的疾患が原因である場合があります

また20歳以下の方は、半分以上が「経験不足による思い込み」なのです。

何かのきっかけで、人格が変わった様に性に積極的になることもあるので心配しないで下さい。

 

まずは「性」に対する心構えを変える努力をしてみてください。

 

 自称アセクシャルが増えた背景には、「偏った性知識」が少なからず影響している気がします。

 これを読んだ時、わたしはめちゃくちゃ怒りました。こんなものが、検索結果の上位に出てきて、色んな人に、特にアセクシャルかもしれないと悩む人に読まれているのかと思うと、いてもたっても居られないくらい、違うよ!!と言いたいです。

 

 勘違いじゃありません。病気でもありません。年齢も関係ありません。経験不足でもありません。偏った知識で「自称」してるだけとかって馬鹿にされる筋合いもありません。

 

 「自己判断は危険」というのは、なんなんだろう?他人に決めてもらわなければ、診断による「お墨付き」をもらえなければ、アセクシャルを名乗ってはいけないのだろうか。「心配しないで下さい」ってなんなんだろう?まるでアセクシャルが異常な状態みたいな言い方ではないか!

 

 「自認」って言葉、知っていますか?わたし達は、自分の性について、自分で考え、自分で受け入れ、自分で認めることができます。自分のしっくりくるところで、自分のために、「自認」をするのです(もしくは「自認」をしないのです)。他人に、「勘違いだ」とか、「思い込みだ」とか言われる筋合いはないし、「真のアセクシャル」なんてものも存在しません。

追記

大事なのでもう一回言いますけど、「真のアセクシャル」なんてものはありません!!そんなもの誰が決めるんだ!誰が決めることができるんだ!いや決められません!

 

 大体、「診断」という言葉が出てくる時点でおかしいんです。異性愛(もしくは性愛)以外のセクシュアリティは「病気」ではありません。誰かに決められるものではないです。

 

 それから、この記事、最後のほうでなんと!少子化に結びつけて話を終えています。少子化問題の解決のために、自分の性についてきちんと考えて下さいとか書いてあります。なんと!!

 セクシュアリティは個人の問題であり、少子化のせいでどうのこうのと言われるのは全く筋違いです。そもそもセクシュアリティの話以前に、わたしたちの人生は少子化等の社会問題を解決するために、お国のためにあるものではありません!!

 

 わたしはめちゃくちゃ怒っています。これ、個人のブログとかで書いてあることじゃないんですよ。あまりにも完成度が低いので、素人ライターが書いているのかもしれませんけど、曲がりなりにも、ニュースやお役立ち情報を配信するサイトに載っています。こういうサイトで、こういう記事が掲載されていて、それが「アセクシャル 診断」というワードの上位に上がってきていることは、わたしの中では信じられないことだし、めちゃくちゃむかつくし、ものすごく悲しいです。

 

 アセクシャルかな、とか、アセクシャルってなんだろう、と考えてネットで調べ物をした人が、こんなものを読んでしまったら、と考えると、すごく、なんだかすごくやりきれないというか、そういう気持ちになります。

 悩んでいる時に、「勘違いだ」とか、「気持ちの問題だ」「経験不足だ」とか、「少子化問題において足を引っ張ってる」みたいなことを言われたら、どんな気持ちになるだろう?「経験不足だ」といわれて、無理をして傷つく人も沢山いるのに。なんて身勝手で、無理解で、想像の足りない記事なんだろう。

あとこれ、多分若者disでもあるんですよね。若者向けの記事なんです。そしてその中でアセクシャルを勘違い、少子化の足を引っ張っているとか、書いてあるんです。そういうところにもめちゃくちゃ怒ってるんですけど。

 

 

今回、アセクシャルであることに原因はあるのか問題(仮)の続編としてこの記事を書きました。前回も書きましたが、わたしはセクシュアリティに原因を求めていません。それから、アセクシャルであることは「病気」でもないと思っています。自分をアセクシャルだと思うことは、自分で決めた結果です。外部から干渉される部分ではありません。他人に気を遣って決めることでもありません。「自認」なんです。自分が認めたから、わたしはアセクシャルなんです。

 「勘違い」だとか、「経験不足」「知識の偏り」「病気」「少子化をすすめる悪いもの」なんてことは、色んな所で散々言われてきたし、自分も今まで悩んできた中で考えたこともあります。でも、これらの「理由付け」は、アセクシャルを理解したり、支援したりしようとして発信されたものではないと思ったんです。外部からの、勝手な推測で、勝手な考え方で、勝手な押し付けです。わたしは、それを気にする必要はないんだと、最近思うようになりました。


 これらの言葉は、外部の人がわたしに「教えてくれる」こういった「原因」は、強固な呪いとなり得ます。わたしが、わたし自身を認めることを邪魔します。不安にさせ、罪悪感を抱かせるものです。こんなものが、しかもなんか、個人的な感想ですけど、それっぽい風にしてるだけで結構適当こいてんじゃないのこいつみたいな記事が、検索結果の上位に出てきたことに、わたしはものすごーーーーーーく怒っているし、悲しいです。

 

 ものすごーーーーーーく怒っているんです!!そういう話です!!おしまい!

 

 

おまけ

 今回の腹立つ記事を読んだのと同時期に、この記事も読みました。筆者さんがアセクシャルだと自認されるまでのお話です。ああ分かる~!という気持ちで読みましたし、「調べてみたら病気かもと書いてあって不安になった」と書かれている部分もあって、今回の記事とも関連するかもと思ったので、貼っておきます。

www.huffingtonpost.jp

 

追記

今回扱った記事、「アセクシャル 原因」で調べるとなんと!2位に出てきます。こんなに目につくところに上がってきているのかとすごくショックを受けました。「原因」を探す人達が見る可能性がとても高いということです。とても嫌な気持ちになります。それで、その検索ワードだと、わたしのブログが3位に出てくるのですが、この勢いで下克上だ!あの記事より上に表示されて、病気だとか一時の気の迷いみたいなことを言ってるやつよりも上に出てやりたい!という気持ちが湧いてきているので、なんかこう、頑張りたいと思います。

 

 

追記2

セクシュアリティに「真の○○」とか、「正しい○○」というのは存在しないと思っています。セクシュアリティはあくまで「自認」するものだという考えを持っているので、勘違いとか、誰かが間違ってると非難することはできないと思います。情報や知識不足で、自分のセクシュアリティをうまく言語化できないという場合があるのは確かですし、そのセクシュアリティの定義を知らずに名乗る人もいるのかもしれません。しかし、だからと言って「正しい○○」の人が、他の人間は間違ってるとジャッジするのは、ちょっと傲慢?無理解?選民思想?なんじゃないの、と思います。そもそも「正しい○○」というのは存在するのか?ということは、ここ最近の記事でも言ってることですが、わたしは「正しい○○」はない、という考えを貫くつもりでいます。同じセクシュアリティでも、個人間で違いがある、ゆらぎがある。アセクシャルは「恋愛感情を持たない+性的欲求が他人に向かない」というのが多分一般的な定義だと思いますが、あくまで一般化されたものであり、たとえばもしセックスできるという人がアセクシャルを名乗っていても、その人が自分をそう思っているのであれば、他人が「間違いだ」と言うことはできないんじゃないかな?と思います。口出しするなとまでは言いません。例えで挙げたような人たちに対して、○○以外にも××というセクシュアリティがあるけど、知ってる?そっちはどう?みたいな会話は、あってもいいなって思いますが(なんかそれも場合によっては失礼だと思いますけど)、一方的に「間違いだ」とか、「本当の」アセクシャルにとって「迷惑」だとか、そんなことを言うのは、なしなんじゃないかと考えます。

 人に迷惑をかけないように、自分が迷惑をかけられないように、そして分かりやすく「正しい○○」であるように、セクシュアリティを決めろと他人に言うのは、おそろしく自己中心なのではないでしょうか。

 また、アセクシャルだと決めつけるのは危険だ、「人生を棒に振るから」という意見も散見します。しかし、なぜアセクシャルだけがこんな言われ方をしなければならないのでしょうか。異性愛者の人達で、自分を異性愛者として信じてやまない人達も、「勘違い」で「人生棒に振ってる」んじゃないんですか?なぜアセクシャルだけがこういう言い方をされなきゃならないのか、結局恋愛するのが第一という考え方の上での言葉ですよね。アセクシャルフレンドリーのように見せかけた無理解だと思います。

 自分のセクシュアリティについて、最低でもネットで検索する程度には自分のセクシュアリティについて考えている人達に対して、あまりにも失礼だし、なんという上から目線!!

 という話です。今回記事を書くに辺り調べてみたら、結構アセクシャルには「資格」がいるでも言うような、アセクシャルという枠の幅を狭くして、ジャッジす人間がいる(のが当たり前だ)という意見もそれなりにあったので、ちょっと気になって追記にしました。繰り返し同じことばっかりいっていますが、いまのところ、ゆらぎがあること、資格はいらないこと、自認は自らが認めて名乗るものだというところは、譲れないので、しつこく書いておきたいです。


追記3

ていうかセクシュアリティについて診断して判断してくれる病院なんてどこにあるんだよって思いました

「大切な人」にカミングアウトしなかった話

 先日、超好きで超大切な友人と遊んできました。中学校からの付き合いで、最近は年一回か二回会えるくらいの人なんですけど、今回は泊まりで二日間遊んできました。ハッピー。

 

 今回、わたしはその友達にアセクシャルであることをカミングアウトした方がいいかな、しようかな、と思って行ったんですが、結局、特にセクシュアリティについて話もせず、カミングアウトもなく帰ってきました。そして、そのことがなんとなく嬉しく思ったのでエントリにしました。

 

 遊んでいる間、彼氏のことや結婚のことも話に出ました。その子はいま、彼氏が欲しいからと積極的に恋人探しをしている人だったので、話の半分くらいは恋人についてと、同世代の人達の恋愛・結婚の話だったんですが、わたしの恋愛事情については聞かれることもなく、わたしがどんなセクシュアリティであっても普通に聞いていられるし、普通に受け答えできるような、そんな会話で、このままこういう関係でいられるのではないかと思えたので、今わざわざセクシュアリティについて話して、カミングアウトする必要はないかなと感じました。

 

 今までなんとなく、セクシャルマイノリティの中では、「大切な人」にはカミングアウトしても大丈夫、しても受け入れてもらえる、したほうが良い、というような雰囲気があると思っていたので、わたしもその子にはカミングアウトした方がいいのかな、知っておいてもらったほうが良いのかな、と考えていたんですが、別にセクシュアリティについて言っておかなければ会話も出来ない、信頼してもらえないというような間柄ではないということを今回感じました。セクシュアリティが違っても、わたしのことを全て伝えておかなくても、大切な人として付き合っていけるという風に思ったんです。

 

 それがなんだか嬉しかったです。

 

 「大切な人」ってワードが、なんとなく縛りになっていたというか、セクシャルマイノリティの中では「大切な人」ってすごく重要なポジションで、いずれカミングアウトとかしなくちゃならない相手みたいな、そんなイメージを勝手に持っていたんですが、別に「大切な人」との中でカミングアウトが第一の問題というわけでもなく、その人と付き合っていく中で必要なら言えばいいし、必要でないなら言わなくても良い、そういうものなのかも、という風に思って、目から鱗というか、その相手との関係の形成の仕方、維持の仕方に新たな、自由な選択肢が生まれたように感じました。隠す必要もないけど、言う必要もない。他の話題について考えると当たり前のことなんですけど、セクシュアリティについては、無条件で告白すべきだ(そして受け入れてもらうべきだ)という「大切な人」信仰みたいなものがあるんじゃないかと勝手に思い込んでいて、「言ったほうが良い」という圧力を勝手に感じてしまっていたんだと思います。

 

 今後、カミングアウトすべきときが来るかもしれない。その時は話そうとは思いますけど、今の段階では必要ないし、相手もわたしの恋愛についてどうこう言ってくる気もないようだし、わたしがアセクシャルだと明らかにして話さなきゃいけない(話すことを求められる)こともなさそうなので、特に気負わずいればいいかな、と思いました。

 

 自分の一部について言わない、ということに引け目をかんじたり、気負わずいられるというのは、結構ありがたいことだと思うので、今回の二日間を後から振り返ってみて、なんだか嬉しかったです。

 

白雪姫のお妃は、鏡を叩き割って怒っても良かった

 白雪姫のお話、知っていますか?

 私はグリム童話で読んだっきりで、ディズニーのものは観たことないんですが、あらすじだけは知っています。

 

 白雪姫のあらすじとしては、昔あるところにとても美しい白雪姫という人がいた。その継母である美しいお妃様は魔法の鏡を持っており、「世界で一番美しいのは誰?」と問いかけては、「それはお妃様です」という鏡の返事に満足していた。ところが、白雪姫が年頃になった時、鏡は「この世で一番美しいのは白雪姫だ」と言った。それに怒ったお妃様は、白雪姫を殺そうとするが、殺しを依頼した猟師が、白雪姫の美しさと可哀想な境遇に同情し、こっそり姫を逃がしてしまう。その後逃げ出した姫は、7人の小人が住む家にたどり着き、そこで楽しく暮らす。白雪姫は死んだと思っていたお妃様は、鏡が「一番美しいのは白雪姫」と答えたことにより、白雪姫が死んでおらず、更に小人の家で楽しく暮らしていることを知った。どうしても白雪姫を排除し、再び自分が一番美しい女性だと答えさせるために、自らがお婆さんに扮し、白雪姫を毒殺しようとする。しかし姫は、お妃様からもたらされる色々危機を乗り越え、最終的に王子と結婚する。一方、お妃様は酷い仕打ちによって死ぬ。

 

 どのお話でも、おそらくこれがストーリーの大筋だと思います。

 それで、私思ったんですけど、このお話ってルッキズムとエイジズムの極み!!みたいなお話ではないでしょうか。お妃様は、自分の容姿が世界で一番だと思っているんだけど、誰かに認めてもらえないとそのことに自信を持てないんですよね。自分の容姿の良さを誰かに認めてもらえなければ、もう落ち着いてなんかいられない、自分が一番でないとだめ、一番になるためにあらゆる手段を用いる。

お妃様のアイデンテティって、容姿がいいことでしかないんですよね。そこを誰かに否定されるともうだめ。

 お妃様は誰がなんと言おうと自分は綺麗だ、って思うことが出来ない。誰かに認められなければならない。認められなければないから、わざわざ鏡に聞いてるのに、鏡は突然「一番美しいのは白雪姫だ」とか言い出す。これってとてもつらいんじゃ、と思ったんです。

 

 ていうか、鏡って何様って感じじゃないですか?誰が一番美しい、とか言って、「美しさ」の基準を勝手に作って、ジャッジしている。何を以ってして美しさの基準を決めているのか?白雪姫が年頃になった途端きれいきれいと言い出すってことは、若さが決め手なの?いままでお妃様のことちやほやしてたのに、いきなり何なの???

 

 わたしここでお妃様は鏡を叩き割って良かったと思うんですよ。自分を認めるために使ってる鏡だったのに、いきなり自分を否定してくるようなものに変わっちゃったんですよね?憎むべきは白雪姫じゃなく、いきなり手のひら返してきた鏡なんじゃない?お前は何様なんだと、人をジャッジさせるために使ってたんじゃないんですけどと。

 

 鏡だけじゃありません。猟師も、小人も、王子様も、若くて美しい白雪姫をちやほやしだす。全て男の目線で見た目をジャッジする。若いか若くないかで扱いが違う。

白雪姫とお妃様を除いたみんな、つまり男性ですけど、彼らは男目線で、人のことをジャッジするのが当たり前のように振る舞うんです。

そして、全ての元凶は鏡ですよ。最初はそこから始まった。

 

 お妃様は、そんな身勝手なジャッジに左右されなくったって、自分は美しいんだって、思っても良かった。若さや見た目だけで人の価値をジャッジするような、そんなやつらなんか気にしなくてもよかった。そうやって人をジャッジしてくるやつらの代表である鏡なんて、叩き割ってやっても良かった。

 

 お妃様は、お婆さんの身なりをして白雪姫を殺そうとするんですね。そして、いじわるで、自己中心的で、美にこだわった醜い「ばばあ」として処刑されるんですよ。一方で若くて美しい白雪姫は、色んな人に親切にしてもらって、王子と結婚する。

すごく、対称的だと思うんです。「若く」「美しい」白雪姫はは素晴らしい。一方、「年を取り」「美しさを奪われた」お妃様は残虐な方法で罰せられ、死ぬ。

お妃様、可哀想じゃないですか!?エイジズムとルッキズムにぐるぐるに絡めとられて殺されるんですよ。

お妃様が「若さ」や「美しさ」に拘るのは、こういう男性目線からのジャッジに合格しなければ、幸せに生きていけない世界だったからではないでしょうか。お妃様が鏡に頼らなければ生きていけない、男性から認められなければ生きていけない、そんな状況で、自分がただ「ばばあ」として捨てられる将来に、危機感を感じたのではないでしょうか。

 

 むかしのプリンセスストーリーって、いじわるばばあvs美しい若い女性、っていう構図になっていることが多いと思います。そして白雪姫では特に、「若さ」「美しさ」(あと純真さも)が話を左右する基準になっていて、お妃様はその基準をもう満たせない存在になってしまったから、死ぬ。

かわいそう!!理不尽!!そんな世の中滅びてしまえ!!

 

 お妃様は、そうやって自分のことをジャッジして、理不尽に不幸に至らしめるような人達に反抗してよかった。自分のことを縛る、「男目線でのジャッジ」に頼らなくても、自分を認めてあげられるような環境でないことに、嘆いても良かったし、怒っても良かった。根本的に悪いのは、お妃様ではなく、「若さ」「美しさ」を満たせない人間は不幸になる、という価値観ではないでしょうか。

 

 そういう価値観を叩き割って、自由になれれば、よかったのに。白雪姫って、ハッピーエンドのプリンセスストーリーの代表ですけど、すごく悲しいお話だと思いました。

 

 

追記

 白雪姫は、自分が幸せになることに消極的というか、待ちの体勢でしたよね。昔のプリンセスストーリーでよくあるタイプの人ですけど。一方、お妃様は自分が幸せになることに積極的なんです。自分が世の中から捨てられないために、色々やる。最終的には自分で白雪姫を殺しにかかる。自分の目的のために、自分の幸せを取り戻すために、動く。だけど、プリンセスストーリーの中では、そういう「厚かましいばばあ」は幸せになれないんですよね。純真なまま、何も知らないまま、何も出来ないまま、とにかく儚げに美しくいる女性が、幸せになる。男性に幸せにしてもらう。

 男性に認められない、男性に保護されない女性は、死ぬしかないのかと思うと、うええって感じです。

通じない言葉

 あっこりゃ話通じねえな、と思う時がある。相手と意見が正反対だとか、考え方や価値観、持ってる知識の量・内容が全く違うとか、そういう場合も困るのだけど、もっと困るのは、そもそもお互いの日本語が通じない時である。

 

 日本語が通じないといっても、お互い言葉が不自由だとか国語の成績がめちゃくちゃ悪いとかそういうことではなくて、相手の意図を、発言から読み取るときの方法、自分の意志を言葉に表すときのプロセスが決定的に違う、ということだ。

 私は、若い人たちの短くい言葉で行われるコミュニケーションがとても苦手だ。主語が無かったり、「やばい」という言葉が多用されたりするんだけど、そういう場合どういう主語を補完して理解したらいいのか、「やばい」がプラスの意味なのかマイナスの意味なのかが分からず混乱する。コミュニケーション、言葉の選択、感情の表現の仕方というのは、人によってくせがあるので、相手のくせがつかめてないまま省かれた言葉、隠された意図を読み取ることは非常に難しい。私の感覚と相手の感覚は違うわけだから、私の独断と偏見で補完してしまうと痛い目にあうこともある。

 

 そもそも、主語はきっちり入れてよ、曖昧な表現を使うのやめてよ、と思うタイプ。でも、そういったものを気にせずにきた人たちもいて、そういう人達は、そういうことをしなくても自分の意図が相手に通じていたとか、今までのコミュニケーションで不自由を感じなかった(もしくは不自由に気付かなかった)という環境にいたということなんだと思う。なのでその人としては今の表現方法でなんら問題ないのだ。そこがもう私と決定的に違う。このブログを見ても分かるかもしれないが、私の書く文章は長い。ダラダラいろんなことを書いてしまう。自分の思っていることを出来るだけそのまま理解してもらいたいから、読む人が補完しなければならないような文章を書かないよう、意味の隙間をできるだけ潰しておきたいのだ(うまくいってるかどうかは分からないけど)。話すときもそうだ。自分の考えを述べるときはすごく考えて、ダラダラあとから付け足したりしながらしゃべってしまう(なので若者っぽいインスタントなコミュニケーションには向いてなくて、浮く)。しかし、私が言葉を尽くしてたくさんしゃべったと思っていても、通じない時は通じないし、勝手に解釈されてしまう時はされてしまう。どこに意味の隙間を見出すかも、また人によって差があるし、言葉の量は情報の量と比例しない場合もある。

 

 読み取り方の違いに関しては、「文脈」の読み取り方が違う、という言い方をしてもいいかもしれない。こういう表現をしている時相手はこう思っているだろうとか、こういう言葉の後にはこう続くだろうとか、これは照れ隠しだ、これは皮肉だ、嫌味だ、そういうことを読み取るとき、人は会話の文脈から推測していると思う。今まで自分の経験してきたことや、今まで暮らしてきた環境、住んでいる場所、所属している集団、文化、肩書、好きなもの、好きなスタイル、持っている知識に基いて相手の気持を推測し、読む。それらの経験が、そもそもひとによって違うわけだから、推測がうまくできず、話が通じない、話を続けるのが億劫になってしまう、ということもありうる。

 

 そういう人と、どうやってコミュニケーションをとるか。諦めるか、適当に相槌打っておくか、それとも真剣に向き合って話をしようと努力するか。「話の通じない」人に対して、どう接するのか。かなり難しいよなあと思いつつ、こうやって文字で表すことに努力している毎日です。

俺の話を聞け

 2015/9/27に書いた下書きに加筆修正したものです。

 

という歌があった。ドラマの主題歌だったような。

 

 正直知らんがなというかんじである。なんで命令されてんの、みたいな。

前回のエントリ(かわいい人には「かわいい」って言っちゃうんだけど)で、後半に言いたかったことはこれだった。「全ての人の気持ちや話の全てを無条件で聞いて上げる必要も、受け止めてあげる必要もない」。「俺の話を聞け」「俺の意見を受け止めろ」と言われても嫌だったら断ったらいいのだと思うし、放っておいたらいいと思う。

 

 私はおしゃべりが割と好きだ。どうでもいいことでもしゃべっていられる。しゃべるだけじゃなくて、なにかを表現して人に伝えてみたいなあという気持ちもある。ブログをやってるくらいだし。私の話を聞いて、一緒におしゃべりしてくれたら嬉しいし、ブログを見てもらって、なにかを感じてもらえたら嬉しい。でも、別におしゃべりに付き合ってもらわなくても、読んでもらわなくても全然構わない。いや、全然というと嘘なんだけど、そもそも付き合ってもらうのが当たり前というものではないしと思っている。特にブログに関してはそうだ。ブログでは双方向のコミュニケーションを求めてはいない。求めているのは、承認だという自覚がある。できれば読んでもらいたい、反応してもらいたい。ネットを通じて、画面の向こうの、見ず知らずの人たちに。認められたい。

 

 でもそんな欲求には応えなくて良いんですよね。わたしと読者の人は他人で、他人の言うことを聞いて(読んで)、何かを考えなくてもいいし、反応する必要もないです。他人の意見を聞いて反応するのって、結構負担かかりませんか?その負担を、見ず知らずの他人のために追ってあげるのって、大変だと思います。

 「◯◯という意見を聞いて欲しい」という欲求、「◯◯という褒め言葉」をポジティブに捉えるべきだという「常識」、そんなもんは、もし自分が嫌なら放っておいて良いんだと思います。

  人からの意見に反応することを求められる。その意見が自分にプラスになることであっても、逆にマイナスになることであっても、別にそれに応えてあげなくったって良いんですよね。その視点がすっぽり抜けていたのが、わたしの「かわいい」という言葉だったんだなと思います。

 

 別に聞かなくてもいいです。スルーしてもいいし、怒ってもいいし、そもそも聞かないということも、大事なんだと思います。