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BL、生活、その他いろいろ

「大切な人」にカミングアウトしなかった話

 先日、超好きで超大切な友人と遊んできました。中学校からの付き合いで、最近は年一回か二回会えるくらいの人なんですけど、今回は泊まりで二日間遊んできました。ハッピー。

 

 今回、わたしはその友達にアセクシャルであることをカミングアウトした方がいいかな、しようかな、と思って行ったんですが、結局、特にセクシュアリティについて話もせず、カミングアウトもなく帰ってきました。そして、そのことがなんとなく嬉しく思ったのでエントリにしました。

 

 遊んでいる間、彼氏のことや結婚のことも話に出ました。その子はいま、彼氏が欲しいからと積極的に恋人探しをしている人だったので、話の半分くらいは恋人についてと、同世代の人達の恋愛・結婚の話だったんですが、わたしの恋愛事情については聞かれることもなく、わたしがどんなセクシュアリティであっても普通に聞いていられるし、普通に受け答えできるような、そんな会話で、このままこういう関係でいられるのではないかと思えたので、今わざわざセクシュアリティについて話して、カミングアウトする必要はないかなと感じました。

 

 今までなんとなく、セクシャルマイノリティの中では、「大切な人」にはカミングアウトしても大丈夫、しても受け入れてもらえる、したほうが良い、というような雰囲気があると思っていたので、わたしもその子にはカミングアウトした方がいいのかな、知っておいてもらったほうが良いのかな、と考えていたんですが、別にセクシュアリティについて言っておかなければ会話も出来ない、信頼してもらえないというような間柄ではないということを今回感じました。セクシュアリティが違っても、わたしのことを全て伝えておかなくても、大切な人として付き合っていけるという風に思ったんです。

 

 それがなんだか嬉しかったです。

 

 「大切な人」ってワードが、なんとなく縛りになっていたというか、セクシャルマイノリティの中では「大切な人」ってすごく重要なポジションで、いずれカミングアウトとかしなくちゃならない相手みたいな、そんなイメージを勝手に持っていたんですが、別に「大切な人」との中でカミングアウトが第一の問題というわけでもなく、その人と付き合っていく中で必要なら言えばいいし、必要でないなら言わなくても良い、そういうものなのかも、という風に思って、目から鱗というか、その相手との関係の形成の仕方、維持の仕方に新たな、自由な選択肢が生まれたように感じました。隠す必要もないけど、言う必要もない。他の話題について考えると当たり前のことなんですけど、セクシュアリティについては、無条件で告白すべきだ(そして受け入れてもらうべきだ)という「大切な人」信仰みたいなものがあるんじゃないかと勝手に思い込んでいて、「言ったほうが良い」という圧力を勝手に感じてしまっていたんだと思います。

 

 今後、カミングアウトすべきときが来るかもしれない。その時は話そうとは思いますけど、今の段階では必要ないし、相手もわたしの恋愛についてどうこう言ってくる気もないようだし、わたしがアセクシャルだと明らかにして話さなきゃいけない(話すことを求められる)こともなさそうなので、特に気負わずいればいいかな、と思いました。

 

 自分の一部について言わない、ということに引け目をかんじたり、気負わずいられるというのは、結構ありがたいことだと思うので、今回の二日間を後から振り返ってみて、なんだか嬉しかったです。

 

白雪姫のお妃は、鏡を叩き割って怒っても良かった

 白雪姫のお話、知っていますか?

 私はグリム童話で読んだっきりで、ディズニーのものは観たことないんですが、あらすじだけは知っています。

 

 白雪姫のあらすじとしては、昔あるところにとても美しい白雪姫という人がいた。その継母である美しいお妃様は魔法の鏡を持っており、「世界で一番美しいのは誰?」と問いかけては、「それはお妃様です」という鏡の返事に満足していた。ところが、白雪姫が年頃になった時、鏡は「この世で一番美しいのは白雪姫だ」と言った。それに怒ったお妃様は、白雪姫を殺そうとするが、殺しを依頼した猟師が、白雪姫の美しさと可哀想な境遇に同情し、こっそり姫を逃がしてしまう。その後逃げ出した姫は、7人の小人が住む家にたどり着き、そこで楽しく暮らす。白雪姫は死んだと思っていたお妃様は、鏡が「一番美しいのは白雪姫」と答えたことにより、白雪姫が死んでおらず、更に小人の家で楽しく暮らしていることを知った。どうしても白雪姫を排除し、再び自分が一番美しい女性だと答えさせるために、自らがお婆さんに扮し、白雪姫を毒殺しようとする。しかし姫は、お妃様からもたらされる色々危機を乗り越え、最終的に王子と結婚する。一方、お妃様は酷い仕打ちによって死ぬ。

 

 どのお話でも、おそらくこれがストーリーの大筋だと思います。

 それで、私思ったんですけど、このお話ってルッキズムとエイジズムの極み!!みたいなお話ではないでしょうか。お妃様は、自分の容姿が世界で一番だと思っているんだけど、誰かに認めてもらえないとそのことに自信を持てないんですよね。自分の容姿の良さを誰かに認めてもらえなければ、もう落ち着いてなんかいられない、自分が一番でないとだめ、一番になるためにあらゆる手段を用いる。

お妃様のアイデンテティって、容姿がいいことでしかないんですよね。そこを誰かに否定されるともうだめ。

 お妃様は誰がなんと言おうと自分は綺麗だ、って思うことが出来ない。誰かに認められなければならない。認められなければないから、わざわざ鏡に聞いてるのに、鏡は突然「一番美しいのは白雪姫だ」とか言い出す。これってとてもつらいんじゃ、と思ったんです。

 

 ていうか、鏡って何様って感じじゃないですか?誰が一番美しい、とか言って、「美しさ」の基準を勝手に作って、ジャッジしている。何を以ってして美しさの基準を決めているのか?白雪姫が年頃になった途端きれいきれいと言い出すってことは、若さが決め手なの?いままでお妃様のことちやほやしてたのに、いきなり何なの???

 

 わたしここでお妃様は鏡を叩き割って良かったと思うんですよ。自分を認めるために使ってる鏡だったのに、いきなり自分を否定してくるようなものに変わっちゃったんですよね?憎むべきは白雪姫じゃなく、いきなり手のひら返してきた鏡なんじゃない?お前は何様なんだと、人をジャッジさせるために使ってたんじゃないんですけどと。

 

 鏡だけじゃありません。猟師も、小人も、王子様も、若くて美しい白雪姫をちやほやしだす。全て男の目線で見た目をジャッジする。若いか若くないかで扱いが違う。

白雪姫とお妃様を除いたみんな、つまり男性ですけど、彼らは男目線で、人のことをジャッジするのが当たり前のように振る舞うんです。

そして、全ての元凶は鏡ですよ。最初はそこから始まった。

 

 お妃様は、そんな身勝手なジャッジに左右されなくったって、自分は美しいんだって、思っても良かった。若さや見た目だけで人の価値をジャッジするような、そんなやつらなんか気にしなくてもよかった。そうやって人をジャッジしてくるやつらの代表である鏡なんて、叩き割ってやっても良かった。

 

 お妃様は、お婆さんの身なりをして白雪姫を殺そうとするんですね。そして、いじわるで、自己中心的で、美にこだわった醜い「ばばあ」として処刑されるんですよ。一方で若くて美しい白雪姫は、色んな人に親切にしてもらって、王子と結婚する。

すごく、対称的だと思うんです。「若く」「美しい」白雪姫はは素晴らしい。一方、「年を取り」「美しさを奪われた」お妃様は残虐な方法で罰せられ、死ぬ。

お妃様、可哀想じゃないですか!?エイジズムとルッキズムにぐるぐるに絡めとられて殺されるんですよ。

お妃様が「若さ」や「美しさ」に拘るのは、こういう男性目線からのジャッジに合格しなければ、幸せに生きていけない世界だったからではないでしょうか。お妃様が鏡に頼らなければ生きていけない、男性から認められなければ生きていけない、そんな状況で、自分がただ「ばばあ」として捨てられる将来に、危機感を感じたのではないでしょうか。

 

 むかしのプリンセスストーリーって、いじわるばばあvs美しい若い女性、っていう構図になっていることが多いと思います。そして白雪姫では特に、「若さ」「美しさ」(あと純真さも)が話を左右する基準になっていて、お妃様はその基準をもう満たせない存在になってしまったから、死ぬ。

かわいそう!!理不尽!!そんな世の中滅びてしまえ!!

 

 お妃様は、そうやって自分のことをジャッジして、理不尽に不幸に至らしめるような人達に反抗してよかった。自分のことを縛る、「男目線でのジャッジ」に頼らなくても、自分を認めてあげられるような環境でないことに、嘆いても良かったし、怒っても良かった。根本的に悪いのは、お妃様ではなく、「若さ」「美しさ」を満たせない人間は不幸になる、という価値観ではないでしょうか。

 

 そういう価値観を叩き割って、自由になれれば、よかったのに。白雪姫って、ハッピーエンドのプリンセスストーリーの代表ですけど、すごく悲しいお話だと思いました。

 

 

追記

 白雪姫は、自分が幸せになることに消極的というか、待ちの体勢でしたよね。昔のプリンセスストーリーでよくあるタイプの人ですけど。一方、お妃様は自分が幸せになることに積極的なんです。自分が世の中から捨てられないために、色々やる。最終的には自分で白雪姫を殺しにかかる。自分の目的のために、自分の幸せを取り戻すために、動く。だけど、プリンセスストーリーの中では、そういう「厚かましいばばあ」は幸せになれないんですよね。純真なまま、何も知らないまま、何も出来ないまま、とにかく儚げに美しくいる女性が、幸せになる。男性に幸せにしてもらう。

 男性に認められない、男性に保護されない女性は、死ぬしかないのかと思うと、うええって感じです。

通じない言葉

 あっこりゃ話通じねえな、と思う時がある。相手と意見が正反対だとか、考え方や価値観、持ってる知識の量・内容が全く違うとか、そういう場合も困るのだけど、もっと困るのは、そもそもお互いの日本語が通じない時である。

 

 日本語が通じないといっても、お互い言葉が不自由だとか国語の成績がめちゃくちゃ悪いとかそういうことではなくて、相手の意図を、発言から読み取るときの方法、自分の意志を言葉に表すときのプロセスが決定的に違う、ということだ。

 私は、若い人たちの短くい言葉で行われるコミュニケーションがとても苦手だ。主語が無かったり、「やばい」という言葉が多用されたりするんだけど、そういう場合どういう主語を補完して理解したらいいのか、「やばい」がプラスの意味なのかマイナスの意味なのかが分からず混乱する。コミュニケーション、言葉の選択、感情の表現の仕方というのは、人によってくせがあるので、相手のくせがつかめてないまま省かれた言葉、隠された意図を読み取ることは非常に難しい。私の感覚と相手の感覚は違うわけだから、私の独断と偏見で補完してしまうと痛い目にあうこともある。

 

 そもそも、主語はきっちり入れてよ、曖昧な表現を使うのやめてよ、と思うタイプ。でも、そういったものを気にせずにきた人たちもいて、そういう人達は、そういうことをしなくても自分の意図が相手に通じていたとか、今までのコミュニケーションで不自由を感じなかった(もしくは不自由に気付かなかった)という環境にいたということなんだと思う。なのでその人としては今の表現方法でなんら問題ないのだ。そこがもう私と決定的に違う。このブログを見ても分かるかもしれないが、私の書く文章は長い。ダラダラいろんなことを書いてしまう。自分の思っていることを出来るだけそのまま理解してもらいたいから、読む人が補完しなければならないような文章を書かないよう、意味の隙間をできるだけ潰しておきたいのだ(うまくいってるかどうかは分からないけど)。話すときもそうだ。自分の考えを述べるときはすごく考えて、ダラダラあとから付け足したりしながらしゃべってしまう(なので若者っぽいインスタントなコミュニケーションには向いてなくて、浮く)。しかし、私が言葉を尽くしてたくさんしゃべったと思っていても、通じない時は通じないし、勝手に解釈されてしまう時はされてしまう。どこに意味の隙間を見出すかも、また人によって差があるし、言葉の量は情報の量と比例しない場合もある。

 

 読み取り方の違いに関しては、「文脈」の読み取り方が違う、という言い方をしてもいいかもしれない。こういう表現をしている時相手はこう思っているだろうとか、こういう言葉の後にはこう続くだろうとか、これは照れ隠しだ、これは皮肉だ、嫌味だ、そういうことを読み取るとき、人は会話の文脈から推測していると思う。今まで自分の経験してきたことや、今まで暮らしてきた環境、住んでいる場所、所属している集団、文化、肩書、好きなもの、好きなスタイル、持っている知識に基いて相手の気持を推測し、読む。それらの経験が、そもそもひとによって違うわけだから、推測がうまくできず、話が通じない、話を続けるのが億劫になってしまう、ということもありうる。

 

 そういう人と、どうやってコミュニケーションをとるか。諦めるか、適当に相槌打っておくか、それとも真剣に向き合って話をしようと努力するか。「話の通じない」人に対して、どう接するのか。かなり難しいよなあと思いつつ、こうやって文字で表すことに努力している毎日です。

俺の話を聞け

 2015/9/27に書いた下書きに加筆修正したものです。

 

という歌があった。ドラマの主題歌だったような。

 

 正直知らんがなというかんじである。なんで命令されてんの、みたいな。

前回のエントリ(かわいい人には「かわいい」って言っちゃうんだけど)で、後半に言いたかったことはこれだった。「全ての人の気持ちや話の全てを無条件で聞いて上げる必要も、受け止めてあげる必要もない」。「俺の話を聞け」「俺の意見を受け止めろ」と言われても嫌だったら断ったらいいのだと思うし、放っておいたらいいと思う。

 

 私はおしゃべりが割と好きだ。どうでもいいことでもしゃべっていられる。しゃべるだけじゃなくて、なにかを表現して人に伝えてみたいなあという気持ちもある。ブログをやってるくらいだし。私の話を聞いて、一緒におしゃべりしてくれたら嬉しいし、ブログを見てもらって、なにかを感じてもらえたら嬉しい。でも、別におしゃべりに付き合ってもらわなくても、読んでもらわなくても全然構わない。いや、全然というと嘘なんだけど、そもそも付き合ってもらうのが当たり前というものではないしと思っている。特にブログに関してはそうだ。ブログでは双方向のコミュニケーションを求めてはいない。求めているのは、承認だという自覚がある。できれば読んでもらいたい、反応してもらいたい。ネットを通じて、画面の向こうの、見ず知らずの人たちに。認められたい。

 

 でもそんな欲求には応えなくて良いんですよね。わたしと読者の人は他人で、他人の言うことを聞いて(読んで)、何かを考えなくてもいいし、反応する必要もないです。他人の意見を聞いて反応するのって、結構負担かかりませんか?その負担を、見ず知らずの他人のために追ってあげるのって、大変だと思います。

 「◯◯という意見を聞いて欲しい」という欲求、「◯◯という褒め言葉」をポジティブに捉えるべきだという「常識」、そんなもんは、もし自分が嫌なら放っておいて良いんだと思います。

  人からの意見に反応することを求められる。その意見が自分にプラスになることであっても、逆にマイナスになることであっても、別にそれに応えてあげなくったって良いんですよね。その視点がすっぽり抜けていたのが、わたしの「かわいい」という言葉だったんだなと思います。

 

 別に聞かなくてもいいです。スルーしてもいいし、怒ってもいいし、そもそも聞かないということも、大事なんだと思います。

 

性愛者・アセク・ノンセク....もう一つは?の謎

2015/10/17に書いたものに加筆したものです。

 

 アセクシャルを自称するようになってはや数年たったのですがー。そろそろその自称がしっくり来るようになったかとおもいきや、なんか徐々にずれみたいなものを感じるようになってきたこの頃です。

 

 そもそもアセクシャルって何かというと、(記載されている場所によって揺れはありますが)ざっくり「恋愛感情および性的欲求を他者に対して抱かない」というように定義されていることが多いです。「恋愛感情がない」「性的欲求を抱かない」の二つに当てはまればアセクシャル、ということなんでしょうね。「性的欲求を抱かない」の方にしか当てはまらない人(恋愛感情はある人)のことは、ノンセクシャルって言ったりしますから、アセクシャルか否かの境目は、恋愛感情の有無、ということなんでしょうね。

 

恋愛感情がないという点では、私はアセクシャルです。ただ、性的欲求を抱かないとは言い切れない。わたし性的欲求あるんですよね。経験ないんですけど、多分相手がまともならすんなり出来る気がします。恋愛感情がなくて、性的欲求がある人ってどういうセクシャリティになるのか、と考えると、いまのところ行き場がないんです。

 

これ、よくよく考えると不思議じゃないですか?恋愛感情(ロマンティック)の有無と性的欲求(セクシャル)の有無の組み合わせ、普通なら4種類出来るはず。

①恋愛感情(有)性的欲求(有)・・・異性愛者、同性愛者、両性愛者、全性愛者など

②恋愛感情(有)性的欲求(無)・・・ノンセクシャル

③恋愛感情(無)性的欲求(有)・・・????

④恋愛感情(無)性的欲求(無)・・・アセクシャル

単純に有・無の組み合わせで考えればこの4つのカテゴリが存在するはずなのに、③に該当するセクシャリティがない!

 

 なにかうまい言い方はないかなあーと探していたところ、「アンセクシャル」という単語を考えた方とお話する機会がありました。

 その定義ですが、

 ということで、おそらくさっき???になってた部分の一部を補えるものだと思います。しかしこれは、性的欲求のほうに焦点を宛てた考え方で、これでは「性的欲求もあるしセックスも出来る」アセクシャルの場合は???を埋めるものとしてはカバーできない。

 

 この???の部分、調べてみても、なかなか出てこなくて、不思議に思っています。自分のセクシュアリティについて悩んでるとかだったら、まあ、特に名前を付ける必要もないので、ふわっとしたまま生きていけばいいんですが、それはさておき、組み合わせ的に考えて「ない」というのは謎だなあと思います。

 だれかご存じの方がおられますか?もしご存知でしたら教えて下さい。