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BL、生活、その他いろいろ

俺の話を聞け

 2015/9/27に書いた下書きに加筆修正したものです。

 

という歌があった。ドラマの主題歌だったような。

 

 正直知らんがなというかんじである。なんで命令されてんの、みたいな。

前回のエントリ(かわいい人には「かわいい」って言っちゃうんだけど)で、後半に言いたかったことはこれだった。「全ての人の気持ちや話の全てを無条件で聞いて上げる必要も、受け止めてあげる必要もない」。「俺の話を聞け」「俺の意見を受け止めろ」と言われても嫌だったら断ったらいいのだと思うし、放っておいたらいいと思う。

 

 私はおしゃべりが割と好きだ。どうでもいいことでもしゃべっていられる。しゃべるだけじゃなくて、なにかを表現して人に伝えてみたいなあという気持ちもある。ブログをやってるくらいだし。私の話を聞いて、一緒におしゃべりしてくれたら嬉しいし、ブログを見てもらって、なにかを感じてもらえたら嬉しい。でも、別におしゃべりに付き合ってもらわなくても、読んでもらわなくても全然構わない。いや、全然というと嘘なんだけど、そもそも付き合ってもらうのが当たり前というものではないしと思っている。特にブログに関してはそうだ。ブログでは双方向のコミュニケーションを求めてはいない。求めているのは、承認だという自覚がある。できれば読んでもらいたい、反応してもらいたい。ネットを通じて、画面の向こうの、見ず知らずの人たちに。認められたい。

 

 でもそんな欲求には応えなくて良いんですよね。わたしと読者の人は他人で、他人の言うことを聞いて(読んで)、何かを考えなくてもいいし、反応する必要もないです。他人の意見を聞いて反応するのって、結構負担かかりませんか?その負担を、見ず知らずの他人のために追ってあげるのって、大変だと思います。

 「◯◯という意見を聞いて欲しい」という欲求、「◯◯という褒め言葉」をポジティブに捉えるべきだという「常識」、そんなもんは、もし自分が嫌なら放っておいて良いんだと思います。

  人からの意見に反応することを求められる。その意見が自分にプラスになることであっても、逆にマイナスになることであっても、別にそれに応えてあげなくったって良いんですよね。その視点がすっぽり抜けていたのが、わたしの「かわいい」という言葉だったんだなと思います。

 

 別に聞かなくてもいいです。スルーしてもいいし、怒ってもいいし、そもそも聞かないということも、大事なんだと思います。

 

性愛者・アセク・ノンセク....もう一つは?の謎

2015/10/17に書いたものに加筆したものです。

 

 アセクシャルを自称するようになってはや数年たったのですがー。そろそろその自称がしっくり来るようになったかとおもいきや、なんか徐々にずれみたいなものを感じるようになってきたこの頃です。

 

 そもそもアセクシャルって何かというと、(記載されている場所によって揺れはありますが)ざっくり「恋愛感情および性的欲求を他者に対して抱かない」というように定義されていることが多いです。「恋愛感情がない」「性的欲求を抱かない」の二つに当てはまればアセクシャル、ということなんでしょうね。「性的欲求を抱かない」の方にしか当てはまらない人(恋愛感情はある人)のことは、ノンセクシャルって言ったりしますから、アセクシャルか否かの境目は、恋愛感情の有無、ということなんでしょうね。

 

恋愛感情がないという点では、私はアセクシャルです。ただ、性的欲求を抱かないとは言い切れない。わたし性的欲求あるんですよね。経験ないんですけど、多分相手がまともならすんなり出来る気がします。恋愛感情がなくて、性的欲求がある人ってどういうセクシャリティになるのか、と考えると、いまのところ行き場がないんです。

 

これ、よくよく考えると不思議じゃないですか?恋愛感情(ロマンティック)の有無と性的欲求(セクシャル)の有無の組み合わせ、普通なら4種類出来るはず。

①恋愛感情(有)性的欲求(有)・・・異性愛者、同性愛者、両性愛者、全性愛者など

②恋愛感情(有)性的欲求(無)・・・ノンセクシャル

③恋愛感情(無)性的欲求(有)・・・????

④恋愛感情(無)性的欲求(無)・・・アセクシャル

単純に有・無の組み合わせで考えればこの4つのカテゴリが存在するはずなのに、③に該当するセクシャリティがない!

 

 なにかうまい言い方はないかなあーと探していたところ、「アンセクシャル」という単語を考えた方とお話する機会がありました。

 その定義ですが、

 ということで、おそらくさっき???になってた部分の一部を補えるものだと思います。しかしこれは、性的欲求のほうに焦点を宛てた考え方で、これでは「性的欲求もあるしセックスも出来る」アセクシャルの場合は???を埋めるものとしてはカバーできない。

 

 この???の部分、調べてみても、なかなか出てこなくて、不思議に思っています。自分のセクシュアリティについて悩んでるとかだったら、まあ、特に名前を付ける必要もないので、ふわっとしたまま生きていけばいいんですが、それはさておき、組み合わせ的に考えて「ない」というのは謎だなあと思います。

 だれかご存じの方がおられますか?もしご存知でしたら教えて下さい。

 

アセクシャルと結婚と家族

 アセクシャルの人は結婚しないので、結婚による利益を得られない。家族という集団の中での支え合いが難しく、低所得の場合、特に生活が厳しいだろう。

 

 よく聞く悩みです。よく聞く指摘です。

 まあ、実際そうなんだと思います。わたしも不安です。

 

 恋愛結婚至上主義的な世の中で、一人で暮らしていく、配偶者を作らず、そのせいで法的に保護されないまま生きていく、というのは、なかなか難しいですよね。心配です。

 前回前々回のエントリで、「セクシュアリティロールモデルはない」と言ってきましたが、生き方、サバイブの仕方として、ロールモデルが必要になる場合というのがあるだろうな、ということは考えていて、それがこの「結婚問題」なんだと思います。

 アセクシャルの人は、どうやって生きているんだろうか。わたしはまだ20代で実家暮らしだけど、今後独立して、30代、40代になって、それから高齢者になって、そうしたらどうなるだろう。非正規の低所得で自立できずに実家に住み続けて、見合いとかさせられて、高齢になった両親の世話をして、見送ることになるんだろうか。そして死ぬまで一人なんだろうか。

 色々考えます。

 

 そんな感じで考えたりもするわけですけど、別にそれだけがアセクシャルとしての悩みではないです。今回の話の一個目の結論はこれです。

 アセクシャル、というと恋愛結婚ができない、家族ができない、孤独に死ぬしかない、みたいな将来を想像してしまうし、不安になるけども、じゃあアセクシャルはそういう心配をメインにしていかなければならないのか?結婚しないと不便だねと、言われなければならないのか。自分でもそう考えてしまうのか。

 他のセクシャルマイノリティの人とかとお話してると、なんか、アセクシャルのこと心配して理解してるようにみえて、結局のところ恋愛結婚至上主義が前提としてあって、その上での議論でしかないんじゃん~みたいな、なんか脱力感があったりします。わたしは恋愛結婚至上主義的な考え方を持ってないからなんですけどね。

 

 考えなきゃならないことだろうとは思いますけど。そればっかり考えているわけではないのに、それ重要だよね、大変だね、みたいな扱いされると居心地悪いです。それに、みんなの持ってる恋愛結婚至上主義があるから大変なんだけど、そこ意識してる?

 

 ただ実際、考えるべきことではあるんですよね。いかに人生の進路の選択肢をひろげるか。いかに自分が快適に、不安も軽減して生きていくか。

 

 そこで、アセクシャル同士の連帯や協力は必要なのだと思いますし、アセクシャル以外の人との連帯や協力も必要だと思います。そして、それは夢物語ではなく、実際可能であるとも思っています。

 家族というものに憧れて、家族を作りたいという人もいるだろうと思いますし。そもそも家族というものがどういうものなのか分からない、という話はありますけど、そこは今回は割愛します。アセクシャルが家族を持つ。家庭をもつ。

 恋愛による連帯、信頼、結婚による法的保護とか、そういうものはアセクシャルはなかなか得られないのではないか、という不安もあります。だけど、そういう不安の中で、アセクシャル同士の連帯は可能だと、本当におもってるんです。

 じゃあ共同体に所属する、家族をつくるって、具体的にどうするんだよと聞かれたら答えられないような、ぼんやりとした希望でしかないですが、何かしら考えていくべきなんですよね、わたしの人生における問題として。サバイブのためのロールモデルが要るかも、とはいいましたが、アセクシャルに限らず、色んな人がいるので、ロールモデルに当てはめられない、フォローできない人達もいますよね。だから個人個人で考えなきゃならないんだろうけど、そこでアセクシャル同士でお話する機会を設けたり、連帯することは大事なのではないでしょうか。今後を考えておられるアセクシャルの人ってわりといるだろうし、そういう方同士でなにかうまく行くようにお話できるなら、なにか打開策が見えてくるのではないだろうか、というのが、今回のふたつ目の話でした。相変わらずふわっとした話ですけど、おしまい。

アセクシャルであることに原因はあるのか問題(仮)

 これを読みました

c71.hatenablog.com

そして、

ロマンティックラブイデオロギーにのっていれば、好きな人が同性なのね、という風に納得されやすい世の中になった。

   

ロマンティックラブイデオロギーの中だと、共感されやすい。

でも、アセクシャルやデミセクシャルの人は、ロマンティックラブイデオロギーにもちろん乗れない。
ドラマもないから、人に伝わりにくい。誰かと誰かがつきあって、気持ちが動いて、というドラマや映画ができにくい。
そういう意味で不利だ。

という部分にとても納得した。確かにそうなのです。

一時期、「Love is win!」(Love wins!だったかも)というキャンペーン?キャッチコピー?が流行りましたが、ドラマティックですよね。素敵だと思いますし、ヘテロセクシャルの人にも分かりやすくて、よかったとおもいます。でもアセクシャルであるわたしにとっては全然乗れない言葉だったし、なんの得もありませんでした。理解できないと言うのも水を差すようではばかられるくらい、世の中には本当にロマンティックラブイデオロギーが浸透してるんだなと思い、肩身狭かったです。

 

 一方わたしには、ロマンティックな恋愛ドラマはありません。何もない。だって恋愛しないんだもん!

 ロマンティックな恋愛ドラマがないと、わたしのセクシュアリティについて共感しづらいし分かりづらいと感じるのかな?という人たちがいます。そういったとき、ロマンティックイデオロギーの中にいる人たちから求められるのは、そうなった「原因」なのかなと、個人的には思っています。ロマンチックラブストーリーがないなら「原因」が知りたい、みんなで共有できる話題として「原因」を知りたい、みたいな。個人的な経験だけど、結構「原因」を聞かれることが多いです。(気づいた)きっかけではなく、「原因」を聞かれます(きっかけの方はセクシャルマイノリティである場合かなり多くの人が聞かれていると思う)。恋愛ではなくて、「原因」にロマンティックさやドラマティックさを求められているのかな、とその質問をされながらぼんやりと虚無感というか、またか、という気持ちになっています。

 

 だって困るんですよ、アセクシャルになった「原因」って、なんなのか分からないのです。わたしには原因もないんです。

 

 先日、「自分の今のセクシュアリティである原因を知りたいと思ったことがありますが?」というアンケートをTwitterで行いました。そもそものアンケートの造りが適切ではなかったと後悔しているのでここには載せませんが、ざっくりと結果をいうと、知りたいと思ったことがある人、ない人で半々くらいでした。

 「原因」。「原因」ってあるのだろうか。

 

 わたしは今は「原因はない」派ですが、昔は「原因」について考えたことがありました。性嫌悪なのかな、今うつだから?親の不仲を見て、恋愛結婚に期待をしていないから?男の人が嫌いだから?理解が足りないから?情報がないから?セクシャルマイノリティの「常識」をしらないから??などなど。しかし、そうやって考えてみても、答えは出ませんでした。

 

 それで、突き詰めて最終的に思ったのは、わたしがアセクシャルであることに原因はない、ということです。アセクシャルであることは、わたしの経験、思想、感覚、価値観などの中心になっているわけではないのです。私の経験、思想、感覚、価値観の全てがアセクシャルであるということを証明するために存在している訳でもないし、わたしのアイデンティティの軸はアセクシャルのみである、というわけでもない。上手くいえませんが、わたしの中の要素は全て繋がっていて、どれがセクシュアリティに関係しているものだとか、関係してないものだとか、分けることは出来ないと思ったんです。アセクシャルである原因をわたしの中に求めるのではなく、そもそもアセクシャルであることはわたしの中の一つとして、わたしの中に存在するのです。

外部に原因があるのかとも考えたことはあります。しかし、わたしはそこにも原因を見つけることができなかった。わたしが自分をどう表すか、そのことに、外部からの干渉は必要ありません。病気かな?トラウマかな?そんな考えは必要ないと思ったのです。アセクシャルである、ということは、わたしがわたしをどう表すかということであって、それ以上でもそれ以下でもありません。自分を表すときに、みんなに分かりやすいように、原因を探しておくということには、違和感もありますし。

 

 

   ロマンティックイデオロギーには、わたしは(肯定的には)反応しません。アセクシャルだからです。逆に、ロマンティックイデオロギーを持つ人は、ロマンティックイデオロギーのないわたしという存在には反応しづらいのかなと思います。なので、わかりやすい、理解しやすい「原因」を求めてくるのかな?とか思ったり。理解しようとしてくれるのは嬉しいですけど、わたしは別に分かりやすい「ストーリー」の中で生きているわけでもないし、ドラマティックな何かがあったわけでもないんです。人間の中に感情や、思想や、価値観があるのが当たり前だ、というのと同じように、わたしの中には、感情や、思想や、価値観や、アセクシャルである部分があるのが当たり前で、特別なことではないです。

 他の人とは違う、という部分はありますが、別にそのことに原因を求めて、回答を得ようという気は、今のわたしにはないです。

 

 あえて「アセクシャルである」原因を述べるのであれば、わたしがわたしのことをアセクシャルであると認めたから、今の自分はアセクシャルなのです。

 

 前回のエントリ(セクシュアリティのゆらぎとわたし )でも書きましたが、セクシュアリティにはゆらぎがあると思っているので、今後違うセクシュアリティになるかもしれないし、その変化にいちいち原因を求めるのもちょっとしっくりこないかなと今は思っています。もしかしたら、漫画みたいなすっごくドラマティックな事件が起きてそれが原因で異性愛者になったりするかもしれないので、絶対ない!とは言い切れませんけど。

 

 とにかく今は、わたしにはドラマティックな「原因」はないし、それを求められても困るなあってかんじです。原因がないこと、セクシュアリティについて語る時、他人との共通点が少ないことは、正直わたしも不利だと思いますし、実際不便さや隔絶感を感じることも多いです。でも、どうしたってわたしにはドラマもストーリーも「原因」もないんですよね。なんかすいませんね面白くもなくてってひねくれたことをおもうときもあります。でもないもんはないので仕方ない。

 今のところは、っていうことで、タイトルも(仮)にしています。そのうち考え方が変わる可能性もあるので、そのときはまた新しくエントリを書こうと思います。

 

 

続き(関連記事)

続アセクシャルであることに原因はあるのか問題(仮) - 333

 

 

おまけ

アンケートで、「原因」を「身体の異常」ではないかと思う、とリプライをくださった方がいました。わたしは色んな人の意見を聞いてみたかったので、リプライ嬉しかったです。しかし一方で、セクシャルマイノリティであることを「病気」「異常」と結びつけるのは、危険なのではないかと思いました。歴史的に、同性愛者は「病気である」として、拷問のような「治療」がなされたりしていたという事実があります。個人的な範囲で、セクシャルマイノリティである原因を自分の身体の状態に求めたり、そしてそれで納得して自分のセクシュアリティを肯定できたりしているのなら、他人であるわたしからは何も言えません。しかし、そういった歴史があったということや、わたしと同じセクシュアリティを持つ人からそういったリプライをもらったわたしの気持ちもちょっと考えてもらえたら、と思います。リプライをもらった時にこうやってお返事できたらよかったのですが、消化して整理するのに時間がかかったのと、もし、原因についてそういう風に思っている方がこの文章を読んでくださっているのであれば、配慮して下さいって伝えたいなと思ったので、ブログの方に書いておきたいと思いました。

 

追記

 実はこの話は、前回のエントリ(セクシュアリティのゆらぎとわたし )に入れようかと思っていた話でした。この前回と今回、二つのエントリについて考えるようになったきっかけの出来事は同じものなんです。ものすごく前になるんですが、「セクシャルマイノリティにはロールモデルがあったほうが、悩む人にとってお手本にできるから良い」「原因もいくつか代表例を作っておくと良い」「『わかる』と安心できる」と言う人と出会いました(その人はゲイでした。)。わたしはそれに強烈な違和感を抱いていたのですが、その時はその違和感を言語化できませんでした。もう数年前の話ですけど。それを最近になって考えなおす機会があったので、このような2つのエントリが出来ました。確かに、悩んでいる時に、「あなたが◯◯なのは、一般的に××が原因で、気づいたきっかけは□□という場合が多いよ」とか言われたら、ああーそうなんだ、と納得できたり、いや自分はそうではないから、と次を考えるきっかけになったりするかもしれません。良い物なのかもしれません。でもわたしは納得できませんでした。原因が分かったからってどうなるの?それを「改善」したら、「治したら」いいの?という気持ちもありましたし、「自認」なのに他人の言う枠に入っちゃっていいのかな、とか、「マイノリティ」「グラデーション」と言っているのに、結局多数派に落ち着かないとやっていけない世界なんだ、みたいな失望というか、そういう気持ちになったりもしました。人と違うことに恐れたり、困ったりしてセクシャルマイノリティコミュニティに来たのに、また、人とは違うことを分かりやすく説明できるような何かにならざるを得ないような、そういう圧のある場所は嫌だなと、その人と喋っている時に思っていました。

 ロールモデルは必要なのか、原因は必要なのか。自分のセクシュアリティを、人に説明できるような、単純なものに落としこむ必要があるのか。ていうか説明したら分かってくれるわけ?(わかって「くれる」という言い方がまず気に食わないんだけど!)(マイノリティの中のマイノリティであれば、ここが「不利」ってやつですよね)

 

 などなどという理由から出来たのがこの2つです。一応繋がっているんですよ~みたいな話でした。

セクシュアリティのゆらぎとわたし

 わたしはいま、アセクシャルを名乗っています。

 だけど、実は自分が「アセクシャルであることに確信は持っていません。「アセクシャルだと言い切ることはできません。ただわたしのセクシュアリティを表すときに一番近いから、アセクシャルを名乗っています。そしてそのことに違和感や罪悪感はあんまり持っていません。

 なぜ自分を「アセクシャル」だと言い切れないかというと、わたしのセクシュアリティには「ゆらぎ」があるからです。なのになぜアセクシャルだと名乗ることに違和感がないかというとセクシュアリティに「ロールモデル」を求めていないからです。

 

 長くなりますが、わたしが今の自認に至るまでのプロセスは以下のようなものです。
 わたしは、中学生までは、自分を異性愛者だと思って生きていました。まず異性愛者以外のセクシュアリティを知らなかったということもありますが、男の子を好きになっていたし、それに疑問を持ったこともありませんでした。ただ、女の子のことも好きで、一番親しい女友達とは結婚したいと思っていました。そう思うことが「変わっている」、と知ったのは、中学を卒業するときでした。友人に指摘されたのです。でも、それを知っても、わたしは自分が異性愛者であると思うことに全く疑問を持ちませんでした。

 「おかしい」と思うようになったのは、高校を卒業した辺りでした。高校在学中、わたしは男性を好きにならなかったんです。でもそれは、そのときうつ病の治療中だったんですけど、そのせいで高校での三年間自分の体調のことで精一杯だったから、恋愛なんてしていられなかったからじゃない?元気になったらきっと恋人とか作ったりするでしょ。そう思っていたのですが、高校を卒業して、浪人していたとき、わたしは恋愛をしないどころか、男性のことをとても嫌に感じている、ということに気づきました。男性がいやだ、全然好きじゃない。そのころ、わたしは人生で初めて変質者っぽい男性に遭遇して怯えていたので、それが原因で男性嫌いになったのではないか、ということも考えました。でも、男性みんなが変質者なわけないし、この男性やあの男性はとてもいい人なんだから、嫌に思うなんて失礼でしょと、自分に言い聞かせてもどうにもなりませんでした。男性がいやでいやで仕方がなかった。このころから、自分は「普通じゃない」のではないかと考え始めたのです。

 そして、「男性嫌悪」「レズビアン」「アセクシャルという単語を知ったのも、ちょうどこの頃でした。

 

 混乱しました。わたしは一体なんなんだろう、中学生までは男の子が好きだったのに、いまじゃ男性のすべてがこわいし嫌だ。ぎりぎり二次性徴以前の男の子なら怖くない、だったらわたしはショタコンなの?いやいや、男性と付き合ったことがないから分からないだけで、ほんとは異性愛者かも、でも中学のとき女友達と結婚したかった、じゃあわたしはレズビアン?恋愛しないのも、病気の治療に手一杯で、自分以外の人間に目が向けられないだけじゃない?イケメンが好きすぎて一般男性の顔ではぴんとこないだけかも、とかいろいろ。

 浪人時代から大学二回生くらいまで悩んで、悩んでもわからなくて、一人のままでは解決できないと思って、セクシャルマイノリティ当事者のサークルに入ることにしました。そこで他のセクシャルマイノリティの人と比較したり色々あって、わたしは男性嫌いなんだ、ということは分かりました。ジェンダーロールに強烈な違和感と憎しみを持っていたことにも気づきました。それから、やっぱり恋愛に興味がないことにも気づきました。超どうでもいい。したいと思わない。それは分かった。

  じゃあわたしは「アセクシャル」を名乗るべきなのか?サークルに入ったことで、自分のセクシュアリティについて名乗ったり、説明したりする機会が多くなったんです。わたしは他の人にどういう風に捉えられたいんだろう。自分のことをどう説明すればいいんだろう。他の人は自分のセクシュアリティについてはっきりしていて、堂々と名乗っている中で、わたしはどういうセクシュアリティを持つ人間としてその場にいるべきなんだろう。

 

 それについて、かなり悩みました。最終的にそのサークルのなかで、わたしはクエスチョニングです、ではなく、「アセクシャル」です、と名乗るようになりました。恋愛をしない、性的欲求が他人に向かないという部分では「アセクシャル」なんだろうな。なのでその部分については「アセクシャル」だと言ってもよいだろうし、他人から見ても分かりやすいだろう。

 だけどわたしのパーソナリティは、「アセクシャル」っぽくないみたいなんですよね。わたしが恋愛やセックスのある作品が見られないことや、やっぱり女性の方が好きなこと、性嫌悪はないこと、BL(性的な表現を含む作品)は読めること、イケメン海外俳優がすきなこと、女性アイドルが好きなことを、「アセクシャル」であることと相反するものだと捕らえる人もいます。「それって『アセクシャル』じゃないんじゃない?」とか「恋愛したことないだけかも」「変わってるね」「よく分からない」と言われたりします(今も言われます)。

 

 わたしは「アセクシャルじゃないのかも。他の人からみても「アセクシャルじゃないのかも。「アセクシャル」だと名乗っている間も、わたしは「アセクシャルってなんだろう」「アセクシャルを名乗るべきなのか」「アセクシャルの条件を満たしてないのではないか」ということを考えていました。

 そうやってずーっと悩んで、そして出た答えは、「セクシュアリティって人それぞれで違うに決まってるのに、限られたいくつかの名前で区別するなんて無理だよね」ということと、「セクシュアリティって変化したり、ゆらいだりするものなんだ」「『アセクシャル』という枠にきっちりはまれなくてもいいんだ」ということです。同じアセクシャルであっても、その中には色んなアセクシャルがいるはず。わたしはわたしとしてアセクシャルだと名乗っていこう。自信をもって、それで大丈夫。分かりやすい「アセクシャル」である必要はない。自分が、アセクシャルだと思ったなら、アセクシャルを名乗っていい。あるべき「アセクシャル」として振る舞う必要もないし、アセクシャルな部分も持つわたし、として色々お話したり、人と出会ったりすればいい。

 分からないところは分からないままでいいです。典型的な「アセクシャル」になる必要もない。周りの人になんと言われようと、わたしはわたしなので、「あるべき」セクシュアリティを求める必要もないし、他の人から勝手に求められてもこまります。

 

 自認っていうくらいだから、自分で自分がなんなのかを認めてあげればそれでいい。なんとなくでも、アセクシャルという言葉がしっくりくるなら、使えばいい。しっくりこないなら無理に「アセクシャル」という枠にはまらなくても大丈夫。セクシュアリティロールモデルなんてないし、必要ない。違和感があれば、またそのとき考えよう。そのときに合ったわたしであること、それを大事にしたい。変わりゆく自分を、そのまま認めて、必要なら名前をつけてあげたり、言葉で説明してみたりしたらいい。

今はそんな風に思います。
 ていうかマイノリティって言ってんのにそこに典型的マジョリティを求めないでくれる?性はグラデーションとか建前かよ~そんなだからもうめんどくさいし「アセクシャル」だとしか言わないわ、まあ好きに思ってくれていいですけど~みたいな、きれ気味な気持ちもありつつ頑固にアセクシャルを名乗ってるって面もありますけど。でもそんなにピリピリしなくても、のんびりアセクシャルとして暮らしたらいいし、ちゃんとわかってくれる人もいるし大丈夫だと、今のわたしは知っています。

 

 ゆらいでてもおっけーって、なんだかすごく大雑把なところに落ち着いてしまいましたが、これでも今に至るまで数年かかりました。○○でなければならない、という考え方から抜け出せなかったんです。アセクシャルってなんなんだろう。恋ってなに?愛ってなに?悩みだすと長い。しかもその答えは一つじゃない。多分正解もないです。アセクシャルになった原因とかあるのかな、わたしはおかしいのかな、とかネガティブな気持ちになる時も未だにあります。

 

 アセクシャルかも、という人とお話するとき、クエスチョニングなんです、アセクとノンセクの間で迷っていて、でも自分にはアセクシャルっぽくないこういう性質もあるから、自分がどちらなのか分からない、アセクとかノンセクとかって名乗る資格がないかもしれない、というような悩みを持っている人に、結構出会ったりします。

そういうのを聞くと、「セクシャルマイノリティ」ってハードル高いんだなって思うんです。ロールモデルに当てはまらなければセクシャルマイノリティ当事者として名乗る「資格」がない。当事者とそれ以外を分け隔てる壁が厚い。同じセクシャルマイノリティでも、その種類を分ける壁は厚い。ゆらぎを、許さない人もいます。例えば、アセクシャルと名乗っているのに恋人作って結婚したな、バイセクシャルって言ったのに結局異性と付き合ってるんだ、この裏切り者って言われることだってあります。でもそんなこと言われたって困るし、傷つきます。誰かを「裏切らない」ように、わたしはずーっと「アセクシャル」のままでいなければ、その枠からでないように生きていかなければいけないのでしょうか。それはいやだなあ

 

 ゆらぎがある、という選択肢もあるんじゃないかなと、わたしは思うんです。それは裏切りでも何でもなく、自分が自分のことをどう捉えるか、人生をどうやって歩んでいくかということだと思うんです。

 ゆらぎがあるという考え方がもっと広まれば、ちょっと気が楽になる人がいるんじゃないかな、とも思います。そして、ロールモデルなんてないし、そういう壁や枠を作らないで欲しいということも思ったりします。

 

 

 自分が感じたまま自分を表してみて、しっくり来たらそれでいいと思います。しっくりこなければまたふら~っとしてみたらいいし、新しい、自分を表すものを作ってもいいかも。

そんなかんじでぼんやりアセクシャルとして過ごすのも、悪くないです。オフ会とか楽しいこともして、色んな人と色んなお話をして、分かってくれる人もいて。そうやっていく中で、また自分を見つめなおすということに、苦しさや悲しさを感じることは少なくなりました。

 悩んでる人がいたら、セクシュアリティで迷ってる人がいたら、それは悪いことでもおかしなことでもないし、これこそがセクシャルマイノリティだ、なんて誰かにジャッジされるものでもないんだよって、言えるようになれたらいいなと思うんです。

 わたしみたいにざっくりぼんやりアセクシャルもいるよと伝えられるような、そういう自分でいたいな、というのが今のところの目標です。

  

 追記

少し前に、アセクシャル寄りのクエスチョニングの方から、「しおりさんみたいな人がアセクシャルだと思っていた(恋愛ものの作品が観られない、フェミニンな格好を好む、とか色々)」「わたしはしおりさんとは違うから、アセクシャルじゃないのかもって思ってました」というようなことを言われたんですが、わたしはアセクシャルの「見本」とか「お手本」じゃないんです。ないのに、自分の言動が「アセクシャル」の「見本」として周りの人に捉えられていたということがショックだったし、すごく申し訳ない気持ちになりました。わたしは本当に見本じゃないです。わたしはアセクシャルを名乗っているけど、アセクシャルの中の一人でしかないんです。だけど、わたしを見本にして苦しんでいた人がいた、ということに未だに後悔しているというか、申し訳なくて、だから、わたしはゆらいでいる、ロールモデルはない、と言っていきたいし、言っていかなければならないのかもしれない、と思ったのです。

 

関連

アセクシャルであることに原因はあるのか問題(仮)

http://si0r1.hatenablog.com/entry/2016/08/02/104930